#35
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ドレープのように波打つ静かな小糠雨が、世界をグレイの無断階調に染めている。
波打ち際には、白い泡をまとった波がやわらかく打ち寄せる。空の色を映して、海も深いグレイ・グリーンに沈んでいる。
雨に濡れた砂浜の海岸は、ずっと長く続いている。
そこに、二組の足跡がずっと続いていた。ひとつは、大きな。もうひとつは華奢な。
その先には、二つの傘を差した先生とエリが肩を並べて歩いていた。
「こんな日に散歩なんですね」
「君らしくもないな。常識にとらわれて。海辺を歩くのにこんなふさわしい日はないさ」
穏やかな声で、ふたりは話している。
先生はアウトドア用のブーツを。エリは先生に言われて、ガーデニング用の洒落た長靴を持参し、はいていた。
波がふたりの足跡を洗う。
ふたりはコテージから出て、この海岸を散歩していた。
「さっきのプレイ、身体が痛くなったりはしなかったかな?」
「大丈夫です。こちらこそ、取り乱してしまいました。恥ずかしいです」
「どこまでも冷静な君が、初めて素顔を見せてくれた気がしたよ」
何気なく言われた言葉に、エリは先生の方を向く。先生は前を向いたまま、続けた。
「君は時々、心をどこかに置き忘れてきてしまったような顔をするね。君は、というより、君たちは、と言ったほうがいいかな?」
「君たちって…リエのことですか?」
「君たちが似ているのは容姿じゃない。本当はそこであまりに深くつながっている。そんな気がするんだよ」
先生の縄が解かれたほんの少し前、エリは深呼吸をするような気持になったことを思い出した。やっと元の自分に戻ってきたような。やっと戒めを解かれたかのような。呪縛とは、呪い縛るということなら、私はやはり呪われているのだ、とエリは思った。
プラチナ色の空からは、音もない雨が降り、ベージュの砂浜を濡らしていた。
鳥も飛ばない空に、あえて先生がここへエリを誘ってくれた理由が分かった気がした。
「…私たちは、7歳の時に、性的暴行を受けました」
エリは、前を見たまま、そう、告げた。
先生は何も言わず、ただ、静かに隣を歩いていてくれた。エリと同じペースで。エリと同じ呼吸のリズムで。
「両親と避暑地の別荘に行った時のことでした。妹と私は家の近くの森を散歩していました。そこで見知らぬ男に捕らえられ、ひと晩、その男の地下室に閉じ込められました。
男は、『もう逃げられないよ』と言ったのです。『もうどこへも逃げられないよ』、と。その言葉を告げてから脚を縛って部屋に閉じ込め、何時間も置き去りにされました。
その後に行われたおぞましい出来事よりも、その言葉がずっと、心に残りました」
誰にも話したことのない物語だった。
リエとも、このことのディテールは言葉にしあったことがない。
「私たちは、同じシャツを着て、同じスカートをはいていました。靴だけが色違いのものでした。男は私たちを区別できませんでした。いや、区別できないのではなく、区別しなかったのです。同じ小さな肉の塊、としか考えていなかったのだと今ならわかります。
身体に跡の残るような乱暴はせず、洋服さえもきちんと折りたたんでテーブルの上に置かれていたのを覚えています」
時より打ち寄せる波が不意に長く砂浜をかけあがり、歩くふたりの足もとまで迫る。
先生はそっとエリの肩を抱き、すこしだけ、その歩みの軌道をずらした。
エリはそんな先生の気遣いにも気づかずに、ただ、歩き続け、話し続けた。
いま話さねば、もう一生、誰にも話せないと思った。
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