#25
「彼女に呼び出されたんだ。開店前でも融通が効くと」
「大丈夫よ」とエリは言った。「マダムならどんなリクエストでも答えてくれるわ」
「いい加減になさい」からからと笑いながら、マダムは言った。「あなたのワガママに付き合えるほど、こちらも暇じゃないのよ。オウナーの言うことを何でも聞く支配人じゃないのは、あなたが一番よく知っているでしょ?」
「オウナー?」柏木が怪訝な顔で繰り返す。
「いいのよ」と、エリは微笑みで煙に巻いた。
エリと同じものを、とオーダーした柏木に頷きをひとつ返し、マダムは厨房に戻った。
ふたりの前にはオレンジ色の雨を受け、さざめくプールがあった。
「意外な職業についているのね。“国連難民弁務官”だっけ?」
『国連難民弁務官』という単語を口にするとき、かつてリエがしたように両手の人差し指と中指を揃えて宙に“ダブルコーテーション”マークを描いてみせた。
「行きがかり上でそうなっただけの、単なる下っ端の御用聞きさ」
柏木は足を組んで、エリを見た。
「そちらこそ、何者なんだ? オウナーだって? この店の?」
「質問は一度にひとつがマナーよ」エリは不敵に笑った。
「名前はエリ。鮎川エリ。エリはカタカナのエリ。職業は…」
エリは一瞬言い淀んでから、
「職業はね、お金持ちよ」
と告げた。
目を丸くした柏木は、それから軽く吹き出した。
「変な女だな」
「そう?」
「ああ、面白い女だ」
「あの時は、面倒くさい女だと言ったわ」
柏木の笑顔は苦笑になった。「忘れたよ」
「女はね、そういうのは忘れないの」
「らしいな」
「でも、」エリは柏木の方に身を乗り出した。「私も忘れるわ。あなたがこうして、来てくれたから」
「――盛り上がっているところ、悪いんだけど」
と、マダムの声。
エリはそこで一瞬、現実に引き戻された。
「お待たせしました」
そう言って、マダムは柏木にグラスをサーブした。エリの前のグラスも差し替え、ふたりの間に生魚のカルパッチョらしいものをひと皿、置いた。
「若いおふたりに、店からのサービスよ。マダイの生ハム。食べてごらんなさい。飲み物もそれに合うように変えておいたわ」
そう言って、
「ありゃ、怒ってるのか、それとも歓迎してるのか?」
「態度が悪いのよ、私にだけ」
「でも、オウナーなんだろ?」
「親のいない私に、母親気取りなんだから」
そう言って、エリはクスクス笑った。
「さ、食べて。私の店のおごりよ」
ふたりはグラスをかかげて乾杯した。
飲み物を口に含んだ柏木は、んー、と言葉にならない声を出した。
「こりゃ、高級だ」
「分かるの?」
「しばらくフランスにいたことがあるんだ」
エリもそれを口に含む。
白ワイン。辛口。それに華やかでフレッシュな香り。シャブリの良いボトルを開けてくれたのだ、とエリには分かった。
柏木にもそれが分かっていることが、エリには嬉しかった。
エリが取り分けたマダイの生ハムも、芳醇な香りとコクがあった。ルッコラのゴマの風味とよく合う。シェフの新作なのだとエリは思った。
「親は、どちらも故人なのかい?」
グラスを傾けながら柏木が聞く。「俺もそうなんだ」
「2018年の東京でね」
あぁ…。
そう、言葉にならないため息を漏らして、柏木は答えた。一部の世代にとっては、それから15年経っても心の傷になる記号のような言葉だ。
「―――同じくだ…」
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