#41





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「その日の晩、『会社』の突撃部隊が俺を救助した。そして俺はこうして生きて、あの地獄の泥沼から帰ってきた」

 エリは何も言えなかった。

「その日から、誰かを抱けるようになるまで、4年かかったよ」そして、苦笑しながら、続けた。「でもいまでも、明るい部屋で、誰かの目を見ながらすると、気持ちが折れる。勃起も、途切れる。腹の底にまだ、戦争が残っているんだ」


 ベッドの中の柏木の声は、あまりに淡々としていた。


「そして来週、また俺は戦場へ戻る」

「ソウルは、戦場なの?」

「日本はあの年と同じだ。『気楽な一年』と。すぐそこにあり、目を凝らせば見えるものをいつも、見ないようにしている。そうだよ、ソウルはもう、戦時下だ」





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 その出来事をきっかけに、彼は『会社』を退社した。

 日本には帰らなかった。

 誰も家族のいない日本に、帰る理由がなかった。

 だから彼はまた、とある世界の辺境での紛争地帯で職を得た。

 国連の難民保護を主任務とする組織の、現地コーディネーターだった。その肩書は、彼が慣れ親しんだ「鉛玉が飛び交う現場での何でも屋」を意味した。

 しかし、今度の仕事は、彼の魂の奥底にかすかな篝火かがりびをもたらした。


 あのジンバブエの首都、ハラルの郊外で見た、黒い人の波。

 無気力にただ、戦場となった故郷を離れるためだけに、赤土の大地を歩き続ける人たち。

 そして、人間としての尊厳を踏みにじられるようなレイプ。

 そんなあってはならない出来事を減らすために。自分の知識や経験が役に立つのなら。その思いが彼をまた、荒廃した街へ駆り立てた。

 穏やかだった自分の幼年期は、2018年の東京で、家族とともに蒸発してしまった。そして2025年のジンバブエの大地に人としてのまともさも捨ててきた。


 4年にわたる警備コンサル会社勤務で、世界の戦場を渡り歩いたが、自分の手ずから誰かをあやめたことは一度もなかった。もちろんそれが清らかなことだとは言えない。そういう同僚を手助けすることが彼の職務だったからだ。だから、そんな彼は、もはや大阪やニューヨークや上海で暮らすビジネスマン達が持っているようなはひとかけらも持ち合わせがなかった。


 自分の中にはずっと、リアルでシビアな戦場がありつづけた。

 それが、彼の言う『出鱈目な暮らし』のあらましだった。




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