#37
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「でも、マダムはね、やめろっていうのよ」
冷や奴に醤油をかけながら、リエは言う。
「『あの男はやめなさい。あなたを不幸にするわ』」
リエはマダムの太い声を真似しながら言った。
「あのひと、彼のことをなにも知らないのにね」
「『客商売は人をひと目で見抜く力がいるのよ』」
またもリエは、マダムの声色を真似た。
ふふ、とエリは笑う。
「あの人が言いそうなことね」
「心配してるのよ、ああ見えて」
「わかっているわ。でも、大丈夫よ」
「悪い人じゃないのね?」
「不思議な人よ」
妹の質問に、エリは身体から力を抜いて答えた。
「リ子にしろマダムにしろ、どうしてそんなに私のことを気にするの?」
「エ子が心配だからよ」
「私ももう33なのよ」
「よく知ってるわ。私、あなたと誕生日が一緒だから」リエは皮肉げに笑った。
エリは食事を終え、麦茶を飲んだ。
そして小さくため息をつくと、言った。
「あなたがそのアレクサンドライトの指輪を初めてしてきた時のこと、覚えているわ」
「なによ、そんな古い話」リエは自分の指輪を見ながら言った。
「あなたはそれをつけて、ひとりで生きていけるようになったんだな、と思ったのよ」
「そんな大げさなものじゃないわ。あの時付き合ってた人に―――」
リエの言葉にかぶさるように、エリは言った。
「あなたはあの時、恋人をもって、あの地下室の呪縛から逃れたのね。その指輪をつけることで、あなたはもうあなたの人生を生きられるようになった。私とふたりでひとりの生き方でなくね」
エリは目の前に座る妹の目を見ながら、静かにそう言った。
リエは目をそらした。
「お姉ちゃんは何もかもを大仰に考えすぎるのよ…」
「そうかもしれない」
「でも…。確かに私たちは壊れていた。それは認めるわ」
リエも麦茶を口につけた。
「あの地下室の日から、私たちのモラルはどこかねじれて、おかしくなっていった。私はずっとそのことに気づかなかった。パパとママが消えて、学生時代からAVの仕事を始めて。金持ちの気のふれた道楽、と陰で言われたことも知ってた。でもそんなこと少しも気にならなかった。エ子だって私を止めなかったよね」
「そうよ。私もあなたの知っている人も知らない人も含めて、何人の男と寝たかわからないわ。人のことは言えない」
「でもあの時、先生と出会って、認めてもらって。私はきちんとした演技のできる俳優になるって決めたの」
「ええ。あなたはとても立派になったわ。そのことは私がいちばんよく知っている」
エリは7年近く続けたAV女優の仕事を一昨年、『引退』した。賞味期限切れで需要がなくなったから辞めるだけなのに、事務所は『引退』と名付けて彼女の出演作の価値を高め、もうひと儲けしようと画策した。事務所からは制作や経営の裏方としてそこに残ることをオファーされたが、エリはそれを全て断り、その業界からは脚を洗った。そして、舞台女優としてのキャリアを積み始めた。
「―――結局、なにが言いたいの?」
「彼はね、私を変えるきっかけなのかもしれない、と思ったのよ。二十歳の年にあなたが見つけた指輪みたいに、ね」
あぁ…。
リエは姉に気づかれないように嘆息した。
エリは恋をしている。それに間違いはない。そして大昔の心の傷を未だに抱えている。いや傷はそれだけではない。愛そうとして愛せなかった相手からの痛みも、まだ癒えていないのかもしれない。
いつも内に
それを誰よりも知っている妹はだからこそ、あのとき姉を振りほどいたのだ。姉がこれからひとりで生きて行けるように。たくましい大人になって、過去の呪いから
けれどもまだ姉は、あの時と同じ場所で足踏みをしているのではないか。あのベッドの間でつないでいた手が離れた場所から、少しも動けないでいるのではないか。
リエは美しく成熟した自らの姉の顔を見ながら、そこに幼い日の面影を見た。
いくよ、おねいちゃん
そういって、あの地下室から姉の手を引いて脱出した時の、力の抜けた姉の表情を思い浮かべた。
私がこの人を守らなくてはならないのだ、とリエは思う。私の片割れは、事あるごとに私が捨て去ってきた全てを拾い集めて生きているのだから。
「おねいちゃん」
と、リエは普段は使わない呼称で姉を呼んだ。
「先生の時みたいになって欲しくないの」
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