#44





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 演台には青と赤の円の交わる朝鮮共和国の国旗がプリントされている。長身でスマートなスーツ姿の若い首相は、その演台を両手で掴み、マイクに向かって少し身をかがめるように話し出した。


『共和国国民の皆さん』

 その首相の語る言葉を、抑揚のない女性の同時通訳が逐次、日本語にしてゆく。

『前世紀の不幸な混乱で私達のこの朝鮮半島がふたつの国に分断され、私達は血を分けた親兄弟同士で憎み合い、恨みあいました。

 しかしかつての北と南は冷静さを取り戻し、すべてのしがらみを超えて2021年、悲願の統一を果たしました。東西の大国の思惑を超えてここに朝鮮民族がひとつに戻ったことを、私たちは高らかに宣言した日のことを忘れたことはありません。


 あれから12年。

 私達の国は幾たびかの苦難を乗り越え、力強く前進してきました。

 私の父も、祖父も、曾祖父も、かつて北朝鮮と呼ばれた国を圧倒的な力で支配してきました。

 しかし21世紀のこの現代に、そんなひとりの力で国を統べることはあってはならないと私は信じています。


 だから私は国家の主権を国民の皆さんに戻し、新しい朝鮮民族の国を共和国制にしたのです。

 その輝かしい理想を最後まで受け入れられないかつての大韓民国の一部エリートが、私達の国のいしずえを砕こうと、この12年間、ずっと活動してきたことを私は存じております』





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 使い慣れたトランクに身の回りのものを詰め、麻のスーツ姿になった柏木は、玄関先でエリを見つめた。


「じゃあ、行ってくる」


 彼はそう言った。


「きちんと帰ってくるのよ」


 とエリは言った。そして柏木の首根っこに抱きついた。彼のかすかな体臭と、剃ったばかりのシェービングクリーム、そしてエリの家の洗濯の匂いがした。


 不意に、もう二度と、こんな風に彼を抱きしめられないのではないか、と思った。


 と、柏木がエリをきつく抱きしめ返した。

 髪をかきわけて頭をしっかりと掴み、つむじの辺りに彼の鼻先が押し付けられるのを強く感じた。

 エリも柏木の胸元に唇を押しつけた。ワイシャツの生地越しに彼の厚い胸板を感じる。


「エリ……」


 彼が髪の中でエリの名を呼ぶ。

 そしてその手が、カットソー越しの彼女の背中に回った。

 あ、とエリが思った時にはそのシャツはかんたんに脱がされていた。

 濃紺のブラジャーだけの姿のエリ。

 いや、と言う間もなく、柏木はその裸の背中を抱きしめ、エリの唇にキスを与えた。

 歯磨きの匂いの残ったキスが、ふたりの時間を溶かす。

 ―――飛行機の時間が、とふたりともが思いながら、走り出す身体を止めることができない。


 背を屈めた柏木は、エリの首筋に唇を這わす。それだけで、身体にしびれが走り、


「はぁっ…」


 息に声が混ざってしまう。

 エリのブラジャーの背中のホックを外すのももどかしく、柏木の手が胸のカップをずらす。すると、エリの小ぶりで形の良い乳房が、はじけてこぼれた。エリの乳首はすでに、硬く勃起していた。


 あぁ…。


 どちらともなく、声が漏れる。

 そして気忙きぜわしい様子で柏木がそこに顔を埋める。

 彼の温かな口の中に、エリの固くすぼまった乳首が吸い取られる。


「やぁぁ…っ…」


 そして、前歯と舌の背でその敏感になった突起をしごかれる。

 エリはそこを中心とした快楽に身をよじりつつ、柏木の頭を両手で掻き抱いた。

 もっとして…、もっともっとして。


 ―――気持ちが走る。


 玄関の三和土たたきに、午前中の光があふれている。こんな朝の光のなかで私を抱いてくれるなんて。光を恐れる彼なのに、どうして?

 一瞬そう思ったが、それもすべては性の奔流に飲み込まれてゆく。




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