行こうぜ、相棒 (終章)
#43
「彼は嵐の中で輝く男だからね」
ヨコタ、と名乗ったその男性は、コーヒーカップを置きながら、そう言った。
「嵐の中で輝く?」
エリはその言葉を繰り返した。
「そう。状況が悪くなればなるほど、真価を発揮する。そういうタイプさ」
「平時の日本じゃ、生きていきづらいタイプってコトですか?」
ハハ、とヨコタは笑った。
「そうだね。確かにこの国じゃ、水から上がった魚のように不器用になるのかもしれないね」
「じゃ、戦地では無敵のスーパーマンみたいになる?」
太った髭面の男だった。
半島に出かけてしまった柏木から、微博のビデオチャットでエリの家に忘れ物をしたことを告げられ、それを届けにエリは新市街の国連難民高等弁務官事務所極東駐在所に訪れた。
ロビーの受付で用向きを伝えると、奥のオフィスからヨコタと名乗るこの男性がやってきた。
普段の柏木の様子を知りたくなったエリは、ロビーに併設されていたカフェに彼を誘ったのだった。
アハハ、と今度は口を大きく開けて彼は笑った。「ウチは軍隊さんじゃあないからね。鉄砲をもって誰かをやっつけるなんてことはしないんだよ。でもあいつは、そんな丸腰の格好で野戦軍の将軍と難民の安全についての交渉をするからね。スゴい奴だよ。まるで―――」
と言って、ヨコタは不意に口をつぐんでしまった。
テーブルに不自然な沈黙が降りた。
「何ですか? 言ってください」
エリが詰め寄ると、ヨコタは両手のひらを広げてみせた。
「ゴメンゴメン。不謹慎なことを口走りそうになったんだ。『まるで死ぬのが怖くない』みたいなさ。
彼と親しいあなたに言う言葉ではなかった」
そう言ってヨコタは詫びてみせた。
フフ、と今度はエリがヨコタに笑い返した。
「彼は怖がっていますよ。戦争も、戦場も。でも、それをうまく表現できない。そういうひとなんですよね」
●
『番組の途中ではありますが、緊迫する半島情勢に新たな進展です。
本日17時から、朝鮮共和国の
NHKではこれに対応し、現地
繰り返しますが、通常の番組をお休みいたしまして、新華社通信の平壌からの、金首相の特別声明をリアルタイムでお届けいたします』
●
「最後の食事ね」とエリは言った。
「まるで審判に向かうイエスの気分だぜ」柏木は笑った。
そしてふたりは、両手を合わせ、「いただきます」と言ってから朝食をとり始めた。
梅雨は明けた。
エリの自宅の窓から見える漁港には、夏の朝が訪れていた。
明日から朝鮮半島に渡る柏木のため、エリは毎日和食の献立を作り続けた。
土鍋で炊いた白米。
素揚げしたナスと豆腐の味噌汁。
だし汁と卵が半々のふわふわの卵焼き。
大根の葉の浅漬け。
メインは今が旬のトビウオを塩焼きにした。
「コメが…こんなに美味いなんて…」
はじめてエリの手料理を食べた柏木がそう言ってくれたのがうれしくて、エリは電子ジャーでなく、毎回土鍋で米を炊いて出していた。ひとりの食事なら、一合を一日三食でも食べきれないのに、柏木と一緒だと一食に一合半を炊いてしまう。柏木が大食漢なのは当然として、ワシワシと元気よく米を食う柏木を見ていると、エリも自然と食事の量が増えるのだ。
ナスを素揚げすると味噌汁に紫色のナスの色素がでない。そして揚げ油のコクが、風味を豊かにしてくれる。
だし汁たっぷりの卵焼きは知人の板前が教えてくれた特別な調理法で、慣れないときちんと折り返すことすら難しい。
大根の葉の浅漬けには鷹の爪を入れて、夏の朝にふさわしい辛味を付け足して。
そしてトビウオの塩焼きはシンプルながら、旬の脂のよくのった青魚らしい香ばしく爽やかな風味をたてている。
柏木は、出されたメニューを全てきっちりと平らげた。ひとつひとつのおかずを愛おしむようにゆっくりと噛んで味わっていた。
「こんなに朝から腹いっぱい食うのは久しぶりだ」
「ここですっかり太っていけばいいのよ。フォアグラのようにうんと太らせて、後で美味しくいただくわ」
ふたりは笑って、食後の麦茶を飲んだ。
こんな風に毎日誰かに食事を作ってあげることのシンプルな幸福を、エリは生まれて初めて味わっていた。そのうま味は、どんな豪華な食事でも感じたことのない味わいだった。
目を閉じると、幸せに胸がつまりそうになるから、エリはことさらに笑っていた。
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