彼と彼女の疵(きず)

#39






 柏木が今の仕事を始めたのは、ほんの行きがかりからだった。

 彼はもともと、フランスのある警備コンサルタント企業に勤めていた。

 米国の大学への留学中に東京がテロリズムにより壊滅し、国際政治を教室で学ぶことの無意味さを彼は悟った。そしてバックパッカーとなって世界を放浪した挙句、中央アフリカの紛争地帯で、通訳の現地アルバイトとしてその会社に雇われた。

 警備コンサルタント企業といっても、実態は傭兵組織だ。地球上に絶えることのない戦争を商売の種にする会社だった。

 そもそもが大柄で、日本にいた時に熱心に習得した武道の心得から戦場向きだと判断され、柏木は様々な訓練を受けさせられた。しかし21世紀の東京で生まれ育った彼には、大儀もなく戦争に出かけていって銃で誰かを撃つことはできなかった。だから彼は前線にいても、兵站や通信を主とした銃後の様々な雑用をこなす仕事を「任務」とした。


 中央アジア、中南部アフリカ。そういった第三世界が彼の職場となった。

 基本的に警備・防御を主業務とするその会社は、戦争の最前線に出てゆくことは少なかったが、それでも時には柏木さえもが戦闘のただ中に身を置くことがあった。


 そして2025年のジンバブエ。

 彼の人生は大きく変わった。


 2010年代後半に起こった独裁政権の打破と、そこから始まる内乱はこの大陸ではよくある出来事だった。中国と米国に陰で支えられた二大勢力は重火器や大型兵器での戦闘を繰り返し、首都のハラレでは日常生活が送れないほどの荒廃が進んだ。


 柏木の『会社』は米国側の支援のために現地入りし、首都から撤退を続ける旧政府軍を防御していた。

 装甲車に分乗して撤退戦を指揮する政府軍将軍一行の脇を、黒い川のように民衆の群れが歩いてゆく。赤く乾いた土の上を。黒光りする素肌の、白目の濁った人々が。

 着の身着のまま首都を逃げ出した彼らの、力なき行進。どこへゆくとも知れず、虚ろな目をして、ただ故郷を追われる人々。


「業務外のことには気をそらすな」


 当時の上司であったアフリカ系フランス人の小隊長が言った。


「俺たちにできることは何もない」


 言われなくても、それは分かっていた。

 しかし柏木にはその表情のない人々の群れが、たまらなく思えた。人間としての尊厳を奪われ、ただ命からがら逃げるだけの人々に、悲しい同情を覚えた。

 それが一週間先、自分の身にも降りかかる悲劇なのだとは知りもせず。





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