第5話 琢磨での会議 その2 【10月12日】

 神奈川県警の牧丘警視正が「では巡査部長、初めて下さい」とこの件に関する説明を促すと、ドアの横にいた婦人警官が立ち上がった。

 童顔でショートヘアーながら、襷を肩にかければ、ミス◯◯と名乗ってもおかしくない美貌の持ち主だ。ただ少し緊張しているのか、あるいは単にそそっかしいのか、立ち上がった拍子に椅子に蹴躓き、膝に抱えていた資料をバサリと床に落としてしまった。

「失礼しました」

 桧坂巡査部長はすぐに拾い上げると何事もなかったかの様に、壁に備え付けられた大型モニターに初老の男性を映し出し、資料を滑舌良く読み上げはじめた。

「五日前の10月7日11時25分、横浜の本牧埠頭で水死体が上がりました。新聞やテレビではまだ身元は捜査中であるとしておりますが、実は遺留品から、水死体は東都大学文化人類学教授・友久直光63歳と判明しています。モニターにある、こちらの写真がその友久教授です」

 そこには穏やかな表情で笑う初老の男が映し出されていた。大学の教授と言われれば、そう見える。だが、ラーメン屋のオヤジと紹介されれば、そんな風にも見える、要するにあまり個性的とは言えない風貌の男だった。

 それにしても、身元が判明したというのに未だにそれを発表しないのは何故だろう?

 下手に隠すと、マスコミがどれ程うるさいか……、経験上分かっている山部にはそれが解せなかった。

 次に桧坂は、モニターへ教授の頭部にある損傷部を写し出した。

「解剖の所見から、右側頭部に陥没があり、脳挫傷が直接の死因であると断定しました。他にも致命傷ではないものの、打撲による傷が多数見られます。問題は損傷が何処で起こったかですが、これは……」

 モニター画面が代わって本牧から見た巨大な浮島が動画で映し出された。少しモヤがかかった浮島はまるで蜃気楼のように見える。

「当日の潮の流れと死亡推定時間から、ブルンガ島より流れ着いたものと見ています。尚、友久教授に戸籍上の妻子はなく、親族としては松戸市に弟夫婦が住んでいます」

 桧坂は、友久教授の死でここまでに分かっている事をまとめた図表を写し出した。

「しかし、これが事故にせよ事件にせよ、他の場所で海に転落したか、もしくは他の場所で殺害され、プレジャーボート等で遺棄された場合も考えられるのでは?」

 山部は別の見方からそう尋ねてみた。彼らもプロなのだから正確な情報に基づいているとは思うが、初動捜査ではあらゆる可能性を廃除しないのが基本だからだ。

「実は出入国記録があるのです」

 外務省の羽島が、山部の質問に答えようとする桧坂を制して答えた。

 身長は1m60cm少々で痩身。要眼鏡。

 普通に喋っていても眉間に皺が出る。

 神経質そうな男だなと山部は思った。

「東京湾内にあるとはいえ、島は日本ではなくブルンガ共和国の領土扱いになっています。その為、その場所に立入るにはパスポートとビザが必要になってくるのです。友久教授はブルンガ島に渡航した記録があるものの、そこから出たという記録はありません。そういう訳もあって、ブルンガ島から流れ着いたという結論に達しました。巡査部長、後を続けて下さい」

 桧坂が羽島にお辞儀して、話を続けた。

「ブルンガ大使館を通じ島に問い合わせた処、すぐにブルンガ島コーバンから返答がありました。コーバンというのは、日本の交番から来た名前ですが、実際の規模は日本でいう所轄程度になります。そこから寄せられた情報によると、10月6日の夜、島から酒に酔った人物が転落したという報を受け、周辺の海域を照らし捜査をしたということです。6日は雨で、数少ない目撃者の証言から、転落事故の該当者は日本人と判明。これが、友久教授であろうという結論に達しました」

「そちらの方からも、落ちたのが誰だか判明したんですか?」

「はい。なぜなら現在ブルンガ島に滞在する日本人は吉浦電気関係者、浮島のメンテナンスを担当する桑山造船、日本人向けホテル京沖の支配人、アフリカの雇用を助けるNGO組織ハミクマの職員、さらにはスナックの従業員を入れて76名、その全ての所在が確認済みだからです。なお、当時観光客等はおりませんでしたので」

 山部はその敏速な捜査に驚いた。ブルンガの警察はこれ程優秀なのだろうか。だがまあ、それはいい。気になったのは、日本の警察が報告を鵜呑みにしている点だ。

「待って下さい。今、事故と言われましたが、多数の打撲による傷まで認められているというのに、この件を日本側でも既に事故とみなしているわけですか?」

「そうなります」

 と答えた森倉の表情が少し残念そうに見えた。

 とすると、自分がこの場所に呼ばれた理由は何だろう? 

 山部には解せなかった。

 これがまだ捜査段階であれば引退したとはいえ、長年殺人事件を担当してきた山部が捜査本部に助言者として呼ばれる事もあるかもしれない。だが、すでに事故と決定しているのであれば、自分は必要の無い人間のはずだ。そんな山部の疑問に応じるかのように森倉は続けて説明した。

「仮に、この件が事故と結論付けられたとしても、我々は島で起きた事の真相を知っておかなければなりません。この島は、我が国の首都・東京の目の前に浮かんでいるのです。また、島で起きたことが本当は殺しであったとすれば、その犯人を特定し、好ましからざる人物として本国に送還してもらうよう手続きを取らねばなりません」

「もし殺しであった場合、犯人の引き渡しを日本側が求めることは?」

「できません。日本はブルンガと犯人相互引き渡し条約を結んでいません。これは 当該国において邦人が犯罪事件に巻き込まれた時に公正な裁きを受けられるかどうか心許無いというのが理由ですが、ともかくそうした事情によって我々ができることは限られているのです。その上、あちらのコーバンがすでに事故として片付けている以上、こちらから再捜査を要求するのは難しい事なのです」

 ここでまた羽島が割り込み、森倉から説明を引き継いだ。

「そこで外務省としては、政府関係者と無関係な民間の保険会社・調査員という肩書で、ブルンガ島に渡り、出来る限りの調査をして頂きたいと考えたわけです」

「頂きたい? つまり、その役目を私が担うのですか?」

「貴方であれば長年の経験で、今回の事案について正しく判断していただけるのではないかと森倉さんから伺ったものですから」

そう言って森倉をチラリと見た。

「無論、調査が差し障り無く行えるように、日本語のできる現地ガイドもお付けします。候補に上がっているのは日本への留学経験もあって、ブルンガ島建造以前から彼の国との交渉では何度か働いてもらっている経験豊かな人物です」

 山部はなんとも急な展開に「はあ……」としか言えなかった。

「それから重要な事ですが、それらの費用は謝礼も含め、全て外務省がお支払い致します。また、この間の身分は臨時の国家公務員として扱わせて頂きます。その条件で調査を引き受けてもらえませんか?」

 羽島の畳み掛けに山部は戸惑った。

 確かにブルンガ島は、東京湾にあり警視庁から直線距離で30キロ程度しか離れていない。けれどそこは日本の法律が及ばぬ異国であり、何か突発的な危機が起こったとしても仲間のサポートは期待できないのだ。

 もし、今も智美が生きていれば「あなた、ぜひ引き受けなさいな」と背中を押してくれたに違いない。だが妻はすでに他界し、自分も老いた。一人暮らしの小さな分譲住宅には『相棒』という名の猫がいて、長期間留守にするとなれば、誰かに世話を頼まなくてはならないけれど結婚した息子は今、関西で働いている。

 山部は一瞬「ウーン」と唸ったが、自分を推挙してくれた森倉に、ここで恥を書かせるわけにはいかないと意を決した。

 島への渡航費等は、外交機密費で賄うらしいし、相棒はペットホテルに相談してみよう。

 ブルンガ島の事は分からないが、現場に行けば経験を活かしてなんとかなるだろうという気にもなった。

「分かりました。私では大してお役にも立てないかもしれませんが、それで宜しければ、島に渡りましょう。で、日本側の他のメンバーは?」

「私が助手として同行することになっています」

 先程、説明をしてくれた神奈川県警の婦人警官・桧坂香織巡査部長が挙手をした。

「彼女はなかなか優秀でしてね。25才の若さながら学生時代にはアフリカへの留学経験もあるので英語、フランス語、スワヒリ語にも堪能です」

 神奈川県警の牧丘軽視正がいささか誇らしげにそう告げた。

 その後は詳細な打ち合わせに移って、二時間ばかりでこの場は散会となった。

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