第2話 本牧埠頭 【10月7日】

 コマセバケツに溶かしたアミエビも、まもなく底を突く。定年退職した今では、連続した動きを続けるのもしんどくなってきたのだが、山部邦夫は先程から座っては仕掛けの上についたカゴにアミエビを詰め込み、立ち上がっては海に放りこむという動作を、百回以上繰り返していた。

 これはサビキ釣りといって、防波堤からアジやイワシといった小魚を狙う定番の釣り方なのだ。10月に入ったとはいえ、今年はいつまでも夏日が続き、昼下がりの堤防はまだ相当熱気がある。山部は額に流れる汗を拭きながら、好きな事だからこれができるが、もしかしたら警視庁で刑事をしていた頃のトレーニングよりキツイのじゃないかと思った。

「あー、腰に来る」

 ついに山部は竿を立てかけてその場に座り込んだ。

「関西風にカゴを下に付けたら楽ですよ」

 この場所でよく会う横田と名乗る中年男が、そう言ってアドバイスをしてくれた。

 確かにオモリを兼ねたサビキカゴを仕掛けの下に付けた関西風は手返しが早い。

しかし、海の中では仕掛けの上にサビキカゴがあった方が有利なのではないか? 山部はそう考えてこれまで東京仕掛けにこだわってきたのだ。

いずれにせよ今日はまったく釣れない。昔はこの季節、本牧波止場辺りでもよく釣れたのだが、アジやイワシはどこへ行ってしまったのか? 

 山部はため息をついて海を見た。

「確かに釣れませんねえ」

 心の声を読んだかのように横田がそう言って笑った。

 この男、どこの何者かは知らないが心中を見抜くのがうまい。警察官になっていたら、その才能を発揮できたんじゃないだろうか と山部は思った。

「昨日の雨で水潮(淡水の流入で海の塩分濃度が若干下がる事)になったからという訳もあるでしょうが、僕は一番の原因はアレだと思うんですよね」

 横田が海の上に浮かぶ建造物を指差した。

 それはこの場所から僅か2km沖に見える、縦・横、共に900mもある巨大な浮島だった。

 この浮島……、

 昔、関西空港が計画された時、一案として上がった浮体方式で作られている。

 日本の国家プロジェクトとして、桑山造船が四年前の2021年に建造し、横浜沖に浮かべたものだ。 

「あそこで釣ったらもっとデカイのが掛かると思うんですが、日本人はパスポートとビザがないと入れないなんてしゃくにさわる話ですよね」

 横田がいまいましげに舌打ちした。確かにそこは東京湾内にありながら日本ではない。

 計画が実行された三年前からブルンガ共和国というアフリカの国だった。


 80年代、世界の工場として発展した中国には、日本からも数多くのメーカーが進出した。しかし、アメリカと並ぶ経済力を持つに至った現在の中国では給与も上がり、製造を委託するメリットがない。加えて先端技術で日本と競うようになってからは、中国で製造する事で生じるリスクすらある。

 こうした事は21世紀初頭から予測されていた為、早くから対策が講じられてきた。その結果、日本政府が考え出した奇策が、期間を定めて国内に給与水準が安い国の飛び地を設けるといった、逆転の発送だった。

 例えばイベリア半島南東端にあるジブラルタル半島はイギリス領であり、イギリス法が適用される。あるいはモロッコ北端のセウタはスペイン領となっておりスペイン法が適用される。いずれも隣接国が望むものではないが、それを逆手に取って、あえて日本の中にブルンガという国の飛び地を作ったのだ。

 そうする事で、ブルンガの労働者が得る平均月収4万円という、収入を倍程度にした給与で、日本の吉浦電気がブルンガ人数千人を雇い入れる事ができたのだ。

なお、2025年現在では島に併設された波力発電所でも、多くのブルンガ人労働者が働いている。

「おや、事件かな?」

 とっくに釣りに対する集中力が切れている横田が、別方向を見て言った。

「今度は何だい?」

 山部は、サビキカゴをゆする手を止めず、横田の指差す方向を眺めた。

 右手前方、日産埠頭の辺りで神奈川県警が所有する船舶『あしがら』と『つるぎ』が水上バイク数台を伴い、作業しているのが見えた。陸地側ではパトカーが何台も集まりイルミネーションを点滅させている。海上を走る水上バイクは二キロ沖のブルンガ島周辺まで行っては旋回を繰り返していた。

これはドザエモンでも上がったな……。

刑事時代の経験から、山部はその体制が尋常ではないと直感した。だが、仮にそうだとしても彼にはもう関係のない話だった。

「なんでもないさ」

 山部は自分に言い聞かせる様にしてサビキ釣りに戻った。

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