第3話 引退刑事・山部邦夫の現在 【10月8日】

 夜七時のテレビニュースでは『横浜の本牧埠頭で身元不明の死体が上がりました。神奈川県警の発表では……』という報道はなく、翌日(10月8日)朝のワイドショーでも同じ横浜・能見台で起きた女性殺害事件がストーカーによるものではという話題は興味津々に語られていたが、本牧の水死体については完全無視。わずかに新聞の地方欄で、少し触れられているだけだった。しかしその控えめな扱いが、山部にはむしろ何か裏でも有るのではと感じさせた。

「やれやれ、このクセが治らんなあ・・・・・・」

 山部は苦笑した。

 数年前に、山部に先んじて定年退職した、高見沢元警部と、偶然家電店の扇風機売り場で会ったところ、老け込みが激しく驚いたことがあった。刑事畑一筋で、現在の山部と同じく独身。趣味も無しという人だったので、退職後に生きがいを見つけるのが難しかったのだろう。身長1m70cmと警視庁内でも小柄だった山部とは違い、1m85cmの堂々たる体格だった高見沢がすっかり小さくなったように見えた。

「お元気そうですね」とは言ったものの、自分はあんな風になるまいと誓い、その対策として子供の頃に好きだった釣りを再び始めたのだった。

 実は、警視庁OBは再就職先に困らない。どの企業でも悪質なクレーマーや暴力団対策に警察OB を重宝しているのだが、とりわけ山部のように警視庁の捜査一課にいた者は、高待遇で再就職できる確率が高いのだ。

 しかし、民間企業の社風にうまく順応できる者とできない者がいる。高見沢はどうやら再就職失敗組で、山部の場合も知り合いから某アパレルメーカーの総務課に誘われているのだが、新しい世界に飛び込んで行く気概とか情熱を持てず、年金が支給されるまでの間、退職金で釣り三昧の生活をしようかと思っていた。

 と、背後でカランという音がした。

「いかん、いかん。お前を忘れていたな」

 山部はそう呟きながら、フローリング床の片隅に置いたプラスティック製の皿の前で、こちらを睨んでいる『相棒』に謝り、いつもより多めにキャットフードを盛り付けた。

 山部が『相棒』と呼ぶ、この猫は五年前に亡くなった妻が、生前拾ってきて、大事に飼っていたハチワレ(猫の種類)の雌猫だ。ニャーンと鳴いたその声が、まるで妻からの呼びかけの様に感じた。

「あなた本当は本牧で見かけた事件に興味があるんでしょうだって? よせやい智美、俺はもう警察官じゃないんだぜ」

 山部は仏壇の上に飾ってある妻の遺影に向かって愚痴を言った。

 第一あれは神奈川で起きた事だから、元々管轄も違う。現役時代に目撃したとしても向こうに任せるべき事件だったはずだ。ところがそう考えた三日後の10月11日、 山部の携帯に元の部下・河野からメールが届いた。

 それは、山部が釣りの最中に死体回収を目撃したこの事件に、彼自身が首を突っ込まざるを得なくなるきっかけとなるものだった。

「おやっさん、明日13時、喫茶『琢磨』に来て頂けませんか? 少しお願いしたいことがあります」というのがその内容だった。

 このメールにある『喫茶琢磨』はヤフーで検索しても出てこない。つまり隠語だ。これは警視庁内にある小さな会議室を指している。そんな所に来て欲しいというからには、古巣の一課で何か相談に乗って欲しい難解な問題でも起きたのかもしれない。

 いいさ、どうせ暇を持て余している身だ。山部は了解の旨をメールに打ち込んだ。

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