第14話 夏の思い出8 ―思い出

 二十二日目、放課後、羽衣宅。


 ゲームをしようと誰かが口にしたのがきっかけだった。前に俺の家へ遊びに来た際に味を占めたのだろうが、何が悲しくてこんな狭い部屋に身を寄せ合わせなきゃいけないんだと悲しく思う。

 扇風機から送られてくる風も、案の定だが生ぬるい。


「なあ、お前の使ってるそのキャラ、ちょっと強すぎねぇ?」

「残念だったな、キャラの性能差は無い。あるのはセンスの差だけってことだ」


 テレビの前に野郎二人が陣取って、格闘ゲームに興じていた。この手のゲームは女子にはどうも合わないらしい。


「もっとこう、パズル要素があるゲームなら負けないのになー」


 そうやってぼやく鈴の横に、肩を並べて座る萩綿。


「家じゃこういうゲームってあんまりしないから、私もそっちの方がいいかも」


 そうやって相槌を打ってはいるものの、興味関心は全くの別にある。

 勝手に人のベッドの上を占領している女子二人は、どうにもつまらなさそうな顔をして携帯の画面と睨めっこしていた。


「全く、いつまでも男の子だねぇ……。みてみて杏ちゃん、このバッグ可愛いよ」

「ほんとにねぇ……。あ、そこのブランドだったらアクセも結構レベル高かったよ」


 などと、野郎が入っていくにはいささか敷居の高いお話を尻目に、俺と蘭はひたすらにコントローラのボタンを連打していた。


「おいおい昌ぁ! 余所見とは舐めてくれるな? 油断してっと痛い目を――」

「んー、ワンパターンだなぁ」

「どうしてだぁ!?」


 本当にお前ってやつは……。こんなに何度も勝利の美酒を味合わせてくれるなんてさ、とてつもない優越感だ。うん、悪くない。


「ふぅ、ちょっとトイレ」

「次は負けねぇからな!?」


 そういって席を立つと、後ろから悪巧みの香りがプンプンしていることに気がついた。ねっとりとした卑しさすら覚える視線を辿っていくと、その先には俺のベッドがある。つまりは、女子二人の座っている箇所からだった。


「おぉーっと昌君、部屋の中から目を離してもいいのかなぁー? 思春期男子高校生の一人暮らしなんて、そりゃもう好き勝手だよねぇ? ベットの下なんて古臭いのは当てにしてない。衣装タンスの中や、並んだ本の裏側とか、ちょっと調べたらお宝が出てきそうじゃないですかぁ?」

「……ん? おい鈴、お前もしかして俺の部屋入った?」


 やけに鼻息荒くした鈴が、ひどく興奮した眼ではつらつとしていた。この子のやる気メーターが一体どこで振り切れるのか、未だにわかりかねている。


「ご期待に答えられなくて残念だけど、そんな本なんて俺は持ってないよ。探しても無駄だ」

「なるほど、じゃあパソコンか」

「この、ませガキ……!」


 思わず強い言葉が出てしまったが、まぁ、パスワードを解けるのならご自由にすれば良い。いくらなんでも用を済ますほんの数分で、パスワードを見破られる筈なんてないよな。

 一物の不安を残したままトイレの個室に入る。チャックを引き下げ用を足していると、安アパートゆえの悲しい性か、声が漏れ聞こえてくるのだ。聞き耳を立てていると、どうやら俺のパスワードはなんなのかについて話し合われているようだった。

 あ、あいつら、本気で解読しようとしている……!? やめてくれよ……頼むから俺の誕生日だけ入れないでくれよ……。


「ちょっと、あんまり人のパソコン見ちゃかわいそうだよ」


 という萩原の言葉に感銘を受けつつ、祈りを捧げる。そして、早く用を終わらせなければと焦っていると。


「どうせ誕生日とかだろ。貸してみな」


 という蘭の声が聞こえた瞬間、俺は自分でも驚くほどの動きでモノを収め居間へと戻った。わざとらしく扉を乱暴に開き、悪びれてもいないやつらに向けて、柄にもなく声を張りげた。


「やめろって浜野ぉ!」

「あ、ごめんごめん」

「あはは、パスワード超簡単だぁ」


 蘭に向けて言ったのだが、返ってきた返事は二つ。

 その瞬間、俺はまたやってしまったと思った。

 空気が少し冷めていくのを感じた。数秒前までふざけ半分だった自分を恥ずかしく思いながら、いつか鈴に言われた言葉を思い出す。

 焦りが形となって、俺の背中を撫でているみたいだった。困った、なんて話を切り出せばいいのか……。そうして数秒固まっていると、息を詰まらせながら蘭が口を開いた。


「……いやお前、手洗ったのかよ?」

「あ……忘れてた」


 蘭がそう言ったのに合わせて空気が綻んでいくのが見えた。

 絵の具が滲んでいくように、表面上の生ぬるさが広がっていく。


「ち、ちょっ……とー……昌君汚いって! 早く洗いに行って!」

「え、あぁ、ごめん」


 そうやって誤魔化し、また目を逸らしてしまった。

 憑き物を落とすみたいに、手を必要以上に洗ってしまった。

 後は時の流れが解決してくれるのを待ち、今の出来事も早く忘れてしまうという姑息な手に出てしまったのだ。

 その犠牲として、俺のパソコンの中身はつまびらかにされてしまったのだが。


「うわぁー、わぁー……こういうのが趣味なんだね昌君って」

「駄目だって……。駄目だってば、人のプライバシーなんだから……」

「そう言いながらもめっちゃ見てるのな、杏。いやま、気になる気持ちは分かるけどよ?」

「そろそろ、勘弁して下さい」


 そんな会話を交わせるくらいまで回復した俺達は、すっかりいつもの調子に戻っていて、永遠と騒ぎ散らしながら夜の時間を消費していった。

 翌日は学校があるというのにも関わらず遅くまで遊んでいたのだ、寝不足のまま登校をする羽目になったのは言うまでもない。




※※※




 二十三日目、放課後、街。

 寝不足だっていうのに、なんで映画なんて観に来たんだろう。そう後悔するには余りにも早い、映画の上映が始まってから十分後に起こった出来事である。

 眼前のスクリーンに映し出されていたのは、濃密な男女のまぐわいのシーン。

 客席の並びは左から蘭君、鈴ちゃん、私、羽衣。

 ちょっとした息遣いや身振りすらも分かってしまうこの距離で、この肌色たっぷりな濡れ場。昨日、羽衣の部屋で見たばかりの映像を思い出すのも仕方がなかった。

 ……駄目だ、どうしても意識してしまう。

 椅子の肘掛に置いてある自分の手が汗ばんでいくのが分かる。それに、頭に熱が昇っているのが良く分かる。こんなに真っ赤にした顔、見られたらどうしよう。いくら暗くたって、この距離じゃさすがにばれてしまう。官能的なシーンを見て顔を火照らせている女だと思われたくない。

 考えれば考えるほど、手の汗が滲み出てくる。

 と、そんな時だった。

 羽衣の伸ばした手が私の手を掠めた。きっと飲み物を取ろうとして間違ってしまったのだろうが、今だけはそんな失敗やめて欲しい。


「ん……?」


 羽衣が首を傾げていた。

 あぁ、もう駄目かもしれない。汗っかきな女の子ってどうなんだろう、やっぱり気持ち悪いかな。

 というか、そもそもの原因は私じゃないよね。羽衣が昨日あんな物を見せてきたから変に意識しちゃってるだけだから、私悪くないよね。

 そうだ、悪いのは羽衣だ。

 そんな責任転嫁を繰り広げている内に問題のシーンは過ぎ去っていった。

 ほっと肩を撫で下ろし、これで落ち着いて映画を観れるようになったなと安心していると、左の席から二つ、いびき声が聞こえてきた。

 やけに近い所から聞こえてくるので嫌な予感しかしないが、恐る恐る視線を向ければ、ほぼ同じ体勢に同じ角度で寝ている哀れな兄妹がそこにいた。


 映画見たいって言い出したのは鈴ちゃんなのに……。言い出した本人が寝てるってどういうこと?

 正直私も眠たいけれど、せっかくお金を払っているのだから勿体ないから絶対に寝てやるもんか。それに、映画を作ってくれた人達に失礼じゃない。

 いや、実際に寝てしまったこの二人を批難している訳ではなく、あくまで私の映画に対する心構えというやつだ。


 姿勢を正し、一旦気持ちを落ち着かせて邪な気持ちを払いのける。すると、なかなかどうして面白い内容ではないか。

 冒頭であったシーンのように、酷く軟派で隙さえあれば女の子を抱いてしまう男の子と、どこまでも純情で臆病な女の子との恋愛。すれ違う二人は周囲の目、環境、様々な障壁を乗り越えつつ、着々と愛を育んでいく。

 ベタではあるが、面白いからこそテンプレート化されているのだと私は思う。そういう有りそうで無いような恋愛ストーリーの方が感情移入はしやすかったりする。

 魅入っていくほどに、ヒロインと自分自身が重なっていくような感覚が増す。

 時に笑い、時に悲しみ、時に恨んでは、その度に確かな愛を見つけ出す。

 あっという間に物語はクライマックスへ。聞こえるは、ヒロインの悲痛な叫び声。


『私、ずっと怖かったの……! 私の本当の気持ちをあなたに伝えたら、この関係は崩れてしまうんじゃないかって……!』


 涙を流し、胸を押さえつけながら必死に声を振り絞る。


『ずっと、ずっと臆病なままだったの。きっとそのままでいいって思っていたんだわ……。でも、何もしないままでいるのが一番辛いってわかったの!』


 ……まるで、自分に向けられた言葉のようだった。不思議と自分に今必要な言葉のような気がして、やけに心に残った。


『親が何よ、周りの目が何よ、そんなこと考えなくたって良い。私の言葉だけを聞いてよ、いつまでも甘えている私じゃないわ。聞きなさい、私はあなたの事が――』


 好き。

 そう言って、真っ直ぐに前を向く彼女はとても素敵で、輝いていた。キラキラとした光がその身体を縁取り、人一倍際立っている。あんなふうに強く、はっきりと、自分の気持ちを前に出せたら、どれだけ自分は変われるのだろうか。

 涙が一滴だけ零れたのに気が付いて、よっぽど感情移入していたんだなと気が付いた。そういうことに、しておいた。

 痺れるような感覚と、少しの高揚感を尻目にスタッフロールが流れ始めていた。


「あ、ほら鈴ちゃん、映画終わっちゃったよ」


 起こしながら、羽衣から見えないように涙を拭った。


「……はっ、あれ、終わってる」

「……んぁ、くっ、ふぁぁー」


 ついでに蘭君も起き上がった。

 よく熟睡できるなと思って羽衣のほうを見ると、同じことを思っていたのかもしれない、私と同じく苦笑を漏らしていた。

 スタッフロールも終わってぼちぼち席を立つ。

 一先ずどこかに腰を下ろそうかとなって、視界の端に見つけたファストフード店に入った。


「いやー、最初のあれ、ヤッてるシーンあっただろ? 俺その辺で寝ちまってさぁ。ほとんど映画の内容わかんねーや、あはは」

「お前、何でそんなシーンで寝れるんだよ……」

「あぁー……ごめん昌君、私もその辺で寝ちゃった……てへ?」

「鈴ちゃん、そういう事は黙ってればいいのに……」


 結局話の内容が分かるのは私と羽衣しかいなので、二人で感想を言い合うだけの席になってしまった。

 あそこが良かった、ここが好きじゃなかった、自分の話をするだけではなくちゃんと私の話も聞いてくれる。

 うん、いいなぁ、こうやって話せるのは。

 私もあのヒロインの子のように、もう少し頑張ってみないとな。


「あ、そういえば萩原」


 しかし感傷に浸っている私にこの男はいらぬ言葉を付け足した。


「なんか途中、手かな? 湿ってただろ。意外と汗っかきなんだな」


 やはりばれていた。


「言わなくていいよそんなの!」


 頑張ってみようと思ったが、それはまだ先の話でもいいかもしれないな、と思わざるを得ない私だった。




※※※




 二十四日目、夜、浜野家。


 せっかくの一人暮らし、正確には鈴もいるから二人なのだが、それを持て余すのはもったいない。元々家族で住んでいた家なのだから、友人を招かないでどうする。

 そういう訳で、隅々まで掃除が行き渡り小奇麗になった我が家へ、昌と杏が泊まりに来てくれていた。一軒家という広さなのだから、四人だろうが何の問題も無い。昌の家とは違うんだよ! と言ったら頭を殴られた。

 そんなこんなでふざけている内に、鈴の用意してくれた食事を皆で囲んでいた。


「もー、急に泊まるだなんて決めるから、たいしたご飯作れなくてごめんね」

「いやいや、こちらこそごめんね。何も手伝わないでくつろいじゃって」


 そんな鈴と杏の会話を尻目に、俺はひたすら米を口の中に放り込む。普段はレトルト商品だの惣菜だのコンビニ弁当だのと、どうしても毎日作るとなれば単調になってしまう。鈴だったらもう少しバリエーションに富んだ料理を振る舞ってくれるが、俺が担当の日なんて見れたものじゃない。

 一色しか目に入らない食事が常だったが、食卓の上には色とりどりの豪勢が揃えられていた。こういう時に食っておかないと、次の機会がいつになるのかわからない。

 うん、美味い。サボりだの面倒だの言っているが、鈴はなんだかんだ料理上手だよな。お袋の作る味と似てきている。


「俺も一人暮らししてるけれど、こうやって自炊なんてしないから凄いよ。いつか俺も、料理を振る舞ってあげられるようになりたいな」

「あら、昌君ったら新手のプロポーズ? そういうのは私じゃなくって、杏ちゃんに言ったげなさいよ!」

「わ、私!? 無理!」


 んー、もどかしい。

 以前街に行ったときの鈴との茶番劇を思い出すが、つまり二人をくっつけりゃゴールなんだろ? 遠回りに外野がちょっかいだすより、当の本人たちを動かしてやらんと意味ねーだろ。もっと直接的で、それには――。


「おーし、ごちそうさん。それじゃ昌、裸の付き合いだ。一緒に風呂入ろーぜ」

「はぁ!? 嫌だよ!」

「まあまあ、我が家の風呂の広さを忘れたか? ちょっとした合宿気分でさ、いいだろ?」


 腹を割って話すのなら、やはり風呂だ。裸の付き合いに限る。それに、下手に家の中で話していると盗み聞きされそうだからな、場所としても丁度良い。

 まずは昌がどう思っているのか、それをはっきりさせないと始まらないだろう。


「じゃあ杏ちゃんも、後で一緒に入ろーね」

「うん。いいよー」


 あっちの女子は和やかな雰囲気で良いなぁ。俺なんか、ただ誘っただけなのに睨まれてるぜ。くそ、後で覗きにでも行ってやるか。


「蘭と昌君、先に入らせてあげるんだから綺麗に使ってよね? 毛の一本でも見つかったらぶつからね」

「いや、なんでもう入る前提で話を進めてるんだ。俺は御免だぞ――うおぉ!」

「ほら、ごちゃごちゃ言ってねーで行くぞ」


 四の五の言っている昌の首根っこを掴んで、風呂場まで引きずり込んだ。

 ぶつくさと文句を垂れてばかりだったが、やっと諦めがついたのか「俺、風呂は静かに入りたかったんだけど」なんて言い出した。全く、神経質なやつだな。

 

「……相変わらず立派な風呂だな。洗い場が四つもある」

「だから気にしすぎなんだって、ただの合宿だと思えっての」


 椅子の上に腰を下ろす。昌は一つ距離を空けて座っていて、警戒している様子だ。

 ……さて、何から話そうかな。勢いに任せて連れてきたのはいいが、この手の話題はどうにも苦手だ。頭を洗っている内に何か思いつかないものかと考えてはみるが、短髪だとパッと洗えて楽だなぁ、位しか浮かんでこない。

 チラチラと昌の方に目線をやると、こっち見てんじゃねぇとでも言わんばかりの鋭い眼光が返ってくる。友達にそんな視線送るなよ、怖いな。 

 一先ず、無言というのが嫌いだから適当に話を振る。


「この後どうするよ? まだ日を跨ぐには時間あるし、なんてったって明日は日曜だ! 泊りってのは気分が上がるもんだな!」

「俺は午後からバイトだし、夜更かしは遠慮しとくぞ。ある程度は付き合うけどさ」


 じゃあこの前の対戦の続きをしようだとか、トランプをやろうとか、取り留めのない話をする。そうやって話題が変わっていく内に、クラスメイトの話に変わっていった。誰と仲が良いんだとか、誰と誰が付き合ってるのだとか、そういう身近な話。

 すっかり身体も洗い終わって、六、七人なら優に入れるくらいの広い浴槽に身を沈める。かなり長い間話をしていたから、もう三十分くらいは浸かっているんじゃないだろうか。そこらの温泉施設へ出向いた時くらい、ゆっくりしてしまっている。これ以上はさすがに時間を稼げない……。話を切り出すとしたら今か。

 

「そういえば、昌には好きなやつとかいねーのか?」

「いや……、そういう人は、うん。特にいないかな」


 不意打ちで質問をぶつけてみたのもあってか、少しまごついたのが分かった。

 何年か空いてしまってはいるが、これでも付き合いは長い。なんとなく雰囲気を見れば察しはつく。

 あぁ、これはきっと誤魔化したな。視線は泳ぎ、なんとも居心地の悪そうな様子。内輪だからこそ話しづらく、内輪だからこそ隠したい、そんな間だった。

 


「んー? 今ならこのお兄さんが相談に乗ってやるぞ?」

「だから、相談なんてする必要ないんだって。それに、誕生日が半年くらい離れてるだけだろ。お兄さんだなんてよく言えたな」


 がはは、と昌の突っ込みにそりゃそうだと笑って返す。


「でもま、仮の話をするならよ? 昌が恋人を見つけて付き合ったとする。そうしたら昌はやっぱり、その子を心底大事にすると思うんだよな、性格的に。となると必然、四人揃って遊ぶ頻度は少なくなる」

「まあ……。例え話に乗っかるならそうなるかもな」

「半分忘れかけちゃいるけどよ、一応シオンの手伝いって名目で俺達は遊んでんだ。この時期に別々の行動をするってのは、あまりよろしくない。だからまぁ、今は我慢してくれよ?」

「は、何だそんなことか。それなら大丈夫、俺にそういうのはまだ早い。今すぐどうこうしたいって訳じゃないから安心しろよ」


 気が抜けたのか、本音の鼻先がチラリと顔を見せていた。

 さっきは誤魔化していたが、やっぱり気になってる子はいるんだな? そんでいつかは……。とも考えてるって訳だ。

 少し、踏み込んでみよう。


「……まあ、身内でやってる分には全く構わねぇんだけどよ?」

「はあ、身内ねぇ――って、お前、何の話をしている……?」


 湯船の中で腰を滑らせて溺れかけてやんの。なかなかどうして、思ったよりも良い反応をみせるじゃないか。


「あはは、顔赤くしてやんの。ま、あれだ。近い場所にいるからって胡座かいて安心してんなよって話だ。もっと痛いくらい見てないと、眼を離した隙にどっかの野郎に取られちまうかもな。例えばほら……、杏なんてああ見えて押しに弱そうだしさ」


 はっきりと名前を出してやると、昌は面白いくらいに動揺している。今度はどっぷりと湯船に顔を沈めてしまい、俺に反論しようとするが咽て言葉を上げられていない。人ってのは本気で狼狽すると、こうなってしまうのだとまた一つ賢くなれた。そう思うと同時に――なんだよ、お互い満更でもないと思っていたのかと、安心する自分もそこにはいた。

 そんな昌の様子を笑いながら見ていると、脱衣場の先から足音が聞こえてきた。その音は段々勢いを増していき、そのまま風呂場の扉をこじ開けた。


「おい! いつまで入ってるのさ! 男のくせに長風呂とかキモイし! 早く私と杏ちゃんに代わってよ!」

「おー、悪い。今上がるわ」

「え、ちょ、何で入ってきてる!? 俺今真っ裸なんだぞ!」


 何でお前が女みたいな反応してるんだよ。まあ、俺と鈴は兄妹ってのもあるから仕方ない部分もあるけれど。

 やれやれと思いながら浴槽から立ち上がると、俺の顔面目掛けて脱衣籠が投げ込まれた。


「ばかやろー! せめて前くらい隠せ!」

「鈴! お前これ、籠の中に俺の着替え入ってるんだから投げるなよ!」


 ま、ほんの少しだけど発破はかけれたかな。後はお前達本人の問題だ、頑張ってくれよ。

 そう思いながら風呂場を後にしたが、鈴との喧嘩はこの後暫く続くのだった。




※※※




 二十四日目、夜、浜野家。


「まったく……蘭ってば本当に融通利かないし、そりゃモテる筈ないよ。ムカつく」

「まあまあ、そんな怒らないでよ鈴ちゃん」


 蘭に風呂が長いと怒りにいって始まった喧嘩だったが、最後は全く違う内容に向かっていた。夜の電話が長くてうるさいって言われても、女の子同士なんだから長電話になるのはしょうがないじゃない。そんなことで怒るだなんて、器の大きさがよくわかるわ。

 蘭みたいに独り身で、寂しく夜を過ごすよりは何百倍も充実してるんだもんね。嫉妬でもしてるの? と煽ってみたのが悪かったのか、喧嘩は収まるところを見失って延々と続いてしまった。

 しかし、そんな些細な出来事なんてパッと忘れちゃうくらい、お風呂というのは気持ちが良い。ましてや横にいるのが杏ちゃんなんだから尚更だ。


「私の癒しは杏ちゃんだけだよー!」

「あはは、それはありがとう」


 杏ちゃんに頭を預けて、お腹周りを抱きしめた。

 そうすると嫌でも分かってしまう、自分とのウエスト差。一瞬抱きついた事を後悔した。


「……え、細くない? どうしたのこれ、ダイエット中? もっと食べないと駄目だよ杏ちゃん?」

「いや、普通に標準的な太さだと思うけど……」

「じゃあこれは私が太ってるだけ!? いや、確かに最近食べ過ぎかなとは思っていたけど、まだ大丈夫だとばかり……」

「太ってるって、私と同じくらいじゃない?」

「身長差あって同じとか、それはもうトドメの一言よ……。はぁ、ダイエットしよ」


 まさかこんなタイミングで現実を見る羽目になるとは。

 だが一つだけ言い訳が許されるのなら、あの大食漢である蘭に合わせて食卓を囲んでいれば、多少太ってしまうのも仕方がないと思わない? むしろそれだけ食べてこの太さなのだから、誇っても良いくらいだと思う。

 しかしだ、それとこれとは別に低カロリーなレシピも探してみようかな。この件とはあくまでも別の理由で。あくまでも、蘭の健康を考えて。

 そして自分を顧みていく内にわかる、萩原杏という女の子の価値に。

 

「スタイル良し、性格も良し、おまけにルックスも良いときた。杏ちゃんって、男の子に関して困らないだろうから羨ましい」


 はぁー、と溜息混じりになってしまうのも、それくらいは許してよね。


「そ、そんなことないよ! 別に恋愛経験豊富って訳でもないし、好きに人にこそ振り向いてもらえない歯がゆさのほうが強いっていうか……」


 好きな人、うん……そうだよね。

 そうなると今度は、昌君が羨ましくなってくるわ。こんな可愛い子に何年も思われ続けていて、この幸せ者が。

 いい加減気付いてもおかしくないんだろうけど……、後で二人が何の話をしたのか聞いておかなきゃ。


「例えば昌君とか?」

「ストレートすぎて例えになってないよ!」


 いやそうなんだけども、と赤くなりながら顔を伏せてしまう杏ちゃん。あぁ、本当にこの子は、今、恋をしているんだというのが伝わってくる。

 だからこそ応援したい。背中を押して、一歩踏み出させてあげたい。

 親友として出来ることならしてあげたい。せっかくこうして今があるのに、何も出来ないままなんて、そんなんじゃ駄目だ。


「大丈夫。杏ちゃんなら、絶対に大丈夫だよ」

「そう、かなぁ」


 不安でたまらないと言いたげな表情をしている杏ちゃんを、あやすような手付きで優しく頭を撫でた。大丈夫、私も一緒に頑張るから不安にならないで。気休めにもならないだろうけど、そんな言葉を付け足しながら杏ちゃんの輪郭をなぞった。

 もし私が男だったのなら、間違いなくこの子を待たせたりなんてしない。絶対に他の男が黙っていないはずだから、必ず自分の手に収めようと必死になる。

 間違いないと思わせるくらい、この子は素敵な女の子だ。


「今日なんて絶好のチャンスだよ。男女……といっても、半分は私達兄妹な訳なんですが。四人でお泊りだなんて、距離を縮める絶好のチャンスだよ」

「うん。そうだよね」


 そう、まだ日を跨ぐのには十分時間がある。日付が変わったとしても明日は日曜だ。夜更かしなんて、いくらしたって構わない。

 杏ちゃんに失敗なんてさせないよ。

 そう、失敗なんて起こり得ない。

 今度こそ大丈夫だから。私達に任せて。

 もう、あの日みたいな事には――。


「結構ゆっくりしちゃったね。そろそろ出ない、杏ちゃん?」

「あ、うん。上がろっか」

 

 両肩に乗ったいらぬ考えをふるい落とすように、ぐっと立ち上がる。

 違う、それも大事だけれど、今考えることじゃない。

 風呂場から出て身体を拭く。ドライヤーは一つしかなかったから、お互いに髪を乾かしあった。


「鈴ちゃんの髪、ちゃんとお手入れされてて綺麗だね」

「えへへ、そう? ありがと杏ちゃん」


 櫛を通した髪の毛がサラリと流れ、石鹸の香りが身を包む。身も心も温まり、今度は杏ちゃんの髪を乾かす番だ。同じように櫛でとかしながら、この後は何をしようかと話は盛り上がっていく。

 リビングで待っていた蘭と昌君も、同じようなことを考えていたらしく、前に皆でやったUNOをやろうとなり「今度は負けないからな」と張り切る蘭だった。

 結果はお約束通りで、一発目から最下位という有様である。

 気持ちはもうとっくに、切り替わっていた。

 席は杏ちゃんと昌君を横並びにさせられたし、これなら大丈夫そう。

 しかも今回は私がUNOで一位を取れた。前回は何度やっても杏ちゃんに負けてたのに。


「よっしゃあ! 今夜は遊ぶぞ! 寝かしてあげないから覚悟してよ!」


 嬉しさの波に乗せて張り切ってみたが、返ってきた返答はひどく淡白なもので。


「あ、俺明日の午後からバイトだから夜更かしは遠慮しておく」


 という昌君の一言で、出鼻をくじかれることになったのだった。

 横の杏ちゃんも苦笑いをしている。

 本当は酒でも仕込んでやろうかと考えていたが……いや、大丈夫。今回は駄目だったけれど、まだチャンスはたくさんあるはず。


「じゃあ、昌君が寝ちゃうまでの間に、目一杯楽しもうね!」


 と意気込んでみたものの、少しはしゃぎすぎてしまったみたいだ。

 日を跨いでからそんなに時間も経たない内に全員が疲れ果て、気が付けば一人、また一人と、夢の世界へ落ちてしまうのだった。

 普段ならまだ大丈夫だったんだけれど……体力、落ちちゃったかな。

 そんなことを夢うつつに思いながら、重たい瞼を閉じていくのであった。

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