第28話 臆病な

 緋衣の赤ん坊が生まれてから、もう何年経ったのだろうか。

 私と人間との感覚はかなり違う。つい先日の出来事だと記憶していたら、人間達にとっては既に何年も前の出来事だったりする。

 いつか緋衣と話している時に、そういう話のすれ違いが起こった事がある。


「この前来た羽衣とかいうやつは、無事に赤ん坊を身篭る事ができたのか?」 


 赤ん坊を見ていてふと思い出しので何の気なしに聞いてた。


「一体いつの話をしているんだ、羽衣が子供を生んでもう十年は経つ。私の子供と一緒に、元気良く学校に通っている」


 肩をすくめて呆れられた事があった。

 人間の人生とは儚く、なんと刹那的だろうと思った。今にしてそう思えるのは、きっと緋衣と出会えたからだろう。実際にはやつが生まれた時からの付き合いであるが、こうして姿を持ち直接話をするのは心の距離も縮めていくみたいだ。


 これは、緋衣の赤ん坊が高校生になった頃の話。

 相変わらず緋衣以外の人間に姿を認識されない私は、家の中を自由気ままにぶらついていた。存外大きいこの日本庭園のような家、緋衣の嫁ぎ先としては十分過ぎる程に立派である。こういった趣深い場所は嫌いではなかった。

 台所から鼻先をくすぐる甘い匂いがした。気になってそちらの方へ向かう。


「緋衣、何を作っているんだ?」

「あぁ、紫苑か。なに、もうすぐあの子が帰ってくる時間だ。何か甘味でも作ってやろうと思ってね」


 手元には白い生地。匂いの元は、それに包まれていたあんだった。


饅頭まんじゅうか、悪くない」

「まあ、私が食べたかったというのもあるんだけれどね」


 そうやって緋衣が作業している姿を眺めながら、くだらない言葉のやり取りを始める。こんな他愛も無い話をしている瞬間が、案外性に合っていたりする。

 ――と、まだ帰ってこないだろうと気を抜いていたのもあり、すっかり夢中になっていてその足音に気が付かなかった。


「ただいま、お母さん。誰かお客様?」


 緋衣の娘だった。皺がきっちりと伸ばされた、まだ真新しさを感じるセーラー服だった。


「あぁ、お帰り。いやなに、ただの独り言さ」


 その返事に全くと言って良いほど納得していない表情の娘は、少し嫌悪感の篭った口調で静かに言葉を返す。


「お母さん、独り言とかやめてよ。いっつも誰かそこにいるように話していて……気持ち悪い」


 そう吐き捨てて廊下の向こうへ姿を消していった。緋衣が呼び止めるも、その動きは止まらなかった。


「反抗期、というやつか?」

「そうかもねぇ」

「悪いな、私の不注意で」

「いいのさ。それより、このお饅頭どうしようか。あの様子じゃ持っていっても突き返されてしまうだろうし」


 我が子の為を思い作られたそれらは、きっと数分足らずで出来上がるほど簡単なものではない筈だ。

 せっせと餡を詰めていた緋衣の楽しそうな顔と今のしょぼくれた顔の緋衣が頭の中で重なって、胸の所が少しチクリとした。


 楽観視していた私だが、そんな事が何度か起きてしまえば考えも改めるしかなくなる。そして考えれば考えるほど痛感する。

 ――私が緋衣の家族関係を壊している、と。

 緋衣は「反抗期なだけだからその内なんとかなる」と言うものの、明らかに私と言う異質な存在が邪魔をしているのは明白だ。二人が喧嘩をする頻度も多くなった。その中で「また独り言か」という内容がほとんどである。

 多感な時期なのだろう。高校生という不安定な時期に、親である人間がどこか壁に向かって独り言を呟いているのだ。反発も、憤りもするだろう。

 それだけが全てではないだろうが、学校生活での鬱憤、将来への不安、女なら敏感になってしまう色恋沙汰への焦り。それらが親子の間に溝を深くしていき、大黒柱であるはずの夫は、あまり家に帰ってこないので何の力にもならなかった。丸一週間親子の会話が無い時もあった。


 最初の頃こそ気をつけていたものの、慣れとは恐ろしいものだ。この時間ならば誰もいないだろうという気の緩みが、この事態を引き起こしている。人間とは行動の読めない生き物だ。なんでも私の思い通りに動いてくれる訳ではない。


 そんな事、とっくに理解していたつもりなんだがなぁ……。


 緋衣と共に成長していく子供を見ていると、段々と私も家族の一員ではないかと錯覚してしまう時がある。馬鹿らしい話だが、そう自惚れてしまう事がある。

 私は付喪神。人とは異なる存在だ。

 相容れない事を憂うだなんて――何を今更と、他所の神様に笑われてしまうな。

 緋衣も、段々と寂しい表情をするようになった。口ではお前のせいだと言わないし、恐らく考えた事も無いのだろう。


 私は、お前に恩がある。

 どうせなら、幸せな人生を歩めと思っている。

 だから、その為に私のできる事は――。




「……紫苑? どうしたんだい眉間に皺なんか寄せて。可愛い顔が台無しだろう」


 深夜三時。今度こそ誰の目にも付かないこの時間に、私は緋衣を叩き起こして思いを打ち明けた。


「緋衣、もう私と話をするのは止めろ。これ以上、親子の関係に水を差し続けられる程私の性根は腐っちゃいない」

「紫苑……気にしなくて良いって言ってるだろう?」

「違う、これは付喪神としての矜持でもあるのだ。お前らを導いてやらねばならない存在が、足を引っ張ってどうする」


 拳を硬く、強く握り締める。手の平に食い込んだ己の爪が、鋭い痛みを走らせる。


「……だから、もう私と話さなくて良い」


 この言葉は緋衣の目を見て口にする事が出来なかった。俯いたまま、返事を待つ。その時間が、緋衣の作る静かな一瞬が、永遠に続くんじゃないかとさえ感じられた。


「紫苑」


 短く、ポツリと私の名を呼ぶ。まるで雨粒が瓦の屋根を叩くかのように無骨で、単調なものだった。


「お前の気持ちは良く分かった。ありがとう。紫苑の言う通り、私も我慢しよう」

「我慢など……していない」

「そうだな、神様だものな」


 分かってはいたが、いざ約束が交わされてしまうと幾らか応えるものがある。

 このまま居たくない、何処かへ身を隠したい、情けない姿を晒してしまいそうな予感がした。それじゃあ、と言って姿を消そうとしたが、緋衣に呼び止められた。


「おい、まさか自分だけ一方的に約束を押し付けてお終いだなんて言わないよな?」


 暗がりでも分かる明るい笑顔の緋衣は、所謂いわゆる別れの約束をしたばかりだとは思えなかった。


「なんだ? これ以上話を続けていると、またあの娘が騒ぎ出すのではないか?」

「大丈夫だよ、あの子は眠りが深いんだ」


 いつの日かそうしたように、私の頭の上に手を乗せて撫でられる。その手はとても暖かく、触れている部分は僅かでも、まるで全身包み込まれているような感覚だ。


「話すのを止めるって、一体いつまでのつもりなんだい?」

「いつとは……ずっとだ。本来ならこうして話しているだけでも奇跡のような出来事なんだぞ、本来あるべき関係に戻るだけだ」

「そんな悲しい事を言わないでくれよ紫苑。大丈夫、あの子は高校を卒業したらこの家を出て行く事になるだろう。そうしたら残るのは夫だけだ。夫なんて殆ど家にいないんだ、それなら文句無いだろう?」


 出会った頃は、それこそ緋衣とその夫しかいなかった。時間だけは十分にあったから、人目を憚ることなく話す事ができた。


「……しかし、そんな都合の良い話も無いだろう。一度決めたら守り抜く、それが神として――」

「今はに聞いてるんだ。神様としてのあんたに用は無いよ」


 だから、と区切って緋衣は私の顔を覗き見た。


「だから、この絡まった親子関係を解いて見せよう。あくまでも親子の問題だったと私が証明できたら、紫苑と話をしていたって問題は無いって事になる。違うか?」

「いや……違う、とも言い切れないような、なんというか……」

「少し待っていてくれ。お前だけに頑張らせたりなんかしないさ……私とお前の仲だろう?」


 いつの間にか緋衣は私を優しく抱き、暖かく包み込んでくれていた。

 ほんのりと伝わるその圧が、今は何とも心地よかった。


「珍しく臆病だな紫苑。信じろ私を。お前と私は、家族じゃないか」


 家族。

 その言葉が耳に届いても、意味を理解するまでに時間が掛かる。


「家族……私を、家族と言ってくれるのか?」

「何を今更――。私の愚痴も聞いてくれた。一緒に子供を育ててくれた。辛い時横に居てくれた。楽しい時、お前も笑ってくれた。私の人生には、お前がずっと一緒にいてくれたんだよ。それを家族と呼ばすになんと言えばいいんだ」


 確認しなくとも伝わる。その言葉に嘘偽りのない事が。

 そうか、お前は私の事を家族だと認めてくれるのか。

 足枷でしかないと思っていた私の事を、必要だと言ってくれるのか。


「ありがとう、緋衣」

「あぁ。お前も随分と人間らしくなった。その気持ちを忘れないようにしてくれよ? まぁ、もし忘れたというのならもう一度私が教え直してやるから安心しろ」


 離れてしまった親子の心の距離は、どれほどの年月をかければ縮まるのだろうか。

 例えそれが何年でも何十年でも私は待とう。それまで、私は邪魔することなくひっそりと待ち続けるぞ。

 大丈夫、私は待つ事だけは大得意なんだ。安心してゆっくりと関係を癒すといい。


「それじゃあ、またの、緋衣。頑張れよ」

「お前にしか私の話し相手は務まらないんだ。早い内に呼びかけてやるから、いつでも出られるように準備しておけよ。またな、紫苑」


 別れは笑顔で。後腐れなど無いように。

 緋衣なら、大丈夫だろう。

 そう思って私は鏡の中へ戻り、深い眠りに沈んでいった。

 この名が呼ばれる、いつかその日が来るまで。



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