第29話 訪れる幸せ
ぐるりぐるりと季節が巡りゆき、もう何度目の夏を眺めてきただろうか。
鏡の中から覗く世界は、何故かとても窮屈に感じられた。夏の日差しを浴びても尚寒気を覚えるほどに。これまではそれが当たり前だった筈なのに、どうして今はそう感じるのだろうか。
今起こっている現実を映像のように流し見ては、只々頭の片隅に記憶していくだけの毎日。お陰で緋衣の周りで起こっている出来事はおおよそ把握できたが、人の姿を得る前の私に戻っていくような感覚だけがあった。
「お母さん」
すっかり大きくなった緋衣の娘の声だ。
最後に見たのは高校生の時。今は、一人の女として立派に成長を果たしていた。
「私、結婚するよ」
居間の机を間に挟み、緋衣とその娘が真っ直ぐ視線を結ぶ。そこには以前のようなひりひりとした空気は感じられないし、表情も穏やかである。
「そうかい、幸せになるといい。私があげられなかった分の愛情も……いつか産まれるお前の子供へ注いでやるといい」
「……そんな事、ないよ」
緋衣は、あれから精一杯に努力した。努力、そんな言葉で片付けていい程簡単ではなかったが、更に強く、母親としての人生を懸命に過ごしていた。私が見ている分だと、その頑張りが実って親子の関係は修復したかと思われる。
それでも、私は姿を現さなかった。
なぜなら、緋衣は私の名を口にしなかったからだ。
あいつは、いつか私を呼ぶから待っていろと言ったんだ。それはつまり、まだその時ではないという事に違いない。
そんな内に、娘は結婚を迎え今に至る訳だが……、一先ず話の続きを聞こう。
「そんなことないよ。お母さんは、私に十分愛情をくれたよ。前は、少し……距離が開いちゃってたけれど、お母さんは私がどれだけ跳ね除けても寄り添ってくれた。私が正して欲しいと言った所も直してくれた。私をいつも見守ってくれていた。ずっと、私の味方で居続けてくれた。ずっと、ずっと……私を好きでいてくれた」
これまでの緋衣の頑張りが、愛情が、形となって今返される。
「そうかい……それは良かった。お前のその言葉を聞けただけで、私はもう満足だ」
静かに涙を流す緋衣。泣いている所を見たのはこれが初めてだ。
栓が抜けたのか、娘も涙を流していた。これまで募らせてきたが想いが溢れ出し、止まる事を知らない。落ちた感情の雫は膝を濡らしている。
どれだけの時間をそうやって過ごしただろうか。
すっかり目元を腫らした娘は、彼氏の元へ戻ると言って家を後にした。
「それじゃあ、また来るね……お母さん」
「あぁ、いつでも来い。次は旦那と一緒にな」
静まる家の中。緋衣の夫は相変わらずの仕事人間で家にいない。また後日、改めて報告にくるという約束もしていた。自分の口で伝えたいらしい。
ポツンと取り残された緋衣は、自室へと向かう。
そして、棚の中に大切に保管されていた物を手にとって、そっと呟いた。
「――紫苑、いるかい。聞いて欲しい話が、沢山増えたんだ……」
それを聞いた瞬間、ふっと意識が浮かび上がっていく感覚。段々と視界が白く遠のいて、その内、地に足を降ろした時の重力を感じる。時刻は夕方、初めて緋衣とで会った時と比べると、随分陽が傾いていて薄暗い部屋だった。緋衣の背中が、少し小さく見えた。
――この姿を現すのは、一体何年振りだったのだろうか。
「……久しいな、緋衣。すっかり老けおって、待ち侘びたぞ」
「ははは、待たせたね紫苑。お前は相変わらず幼い姿をしているんだな」
そっくりあの日のままだと、懐かしい目で私を見つめる目。
この再会は私にとっても嬉しい筈なのに、いまいち要領を掴めないままでいた。
「なあ、何年経ったんだ」
「そうだね、あれからと考えれば……もう十年は経ったぞ」
「そうか。すまない緋衣……お前が言った通り本当に感情をどこかに落としてきてしまったらしい。また、私に教えてはくれないか?」
「どうりで、初めて会った時と同じ目をしていると思ったよ」
「目、か?」
「そう、目だよ。まだ何も分かっていなくて、愛情を知らない目だ。大丈夫、それを教えてやるのはこの十年で得意になった。安心するといい」
いつかのように、頭に手を乗せられて撫で回される。
どこか懐かしい暖かさが胸の辺りに小さく灯った。
「ただ、私にはまだ仕事が残っている。あの子が親になるまでは、まだ私がお母さんでないと駄目なんだ。だから、もう少しだけ待っていてくれよ紫苑」
「はっ、それなら私を呼ぶのももう少し我慢していたら良いものを」
「そうしても、お前と顔を合わせたかった。我慢できなかったんだよ」
これまでの人生、娘の為に夫の為にと何度も我慢を重ねてやってきた緋衣の漏らした弱い部分。
ギュッと抱きつかれ、身体に心地よい重みが加わる。それを断る理由はどこにも無かった。
「全く、仕方の無いやつめ。私からしてみると、お前もまだまだ子供だな」
「ははは、お前にそう言われるって事なら、そうなんだろうさ」
わかった。もう少し、もう少しだけ私も我慢するよ。
なに、心配するな。十年待てたんだ、もう十年待つのなんて大した話じゃない。それに、言っただろう? 私は待つのが得意なんだって。
「これからは、一番近い所からお前を見守ってやろう」
「あぁ、任せたよ」
今度は、お前の親としての成長を共に見届けてやる。
また言葉を交わすその日まで、楽しみに待っているぞ、緋衣。
※
なかなか子を授かる事ができなかった緋衣の娘は、三十代半ば頃になってやっと妊娠する事ができた。その翌年、朗らかな芽吹きの季節と共に一人の男の子が産まれた。最初から大きな声で元気に泣く子で、身体も逞しい。
名は
私はと言うと、すっかりこの家族を見守るのが常になっており、鏡の中に引き篭もる事は少なくなったが、姿を現す事はめっきりと減った。いつか抱いたあの感情、私がそこに介入する事で、家族の形を壊してしまうのが怖かったからだ。
緋衣とその娘の関係は、私が邪魔をしたことで狂ってしまった部分がある。それをまた繰り返すほど、私は阿呆じゃない。
緋衣にとっての孫が産まれた時、あいつが年甲斐も無く大喜びしていたのを思い出す。眺めるだけの私も嬉しくなるような、幸せな空間だったんじゃないかと思う。
「これからも忙しくなるな」
「そうだね、お母さん」
親子の会話を私はそっと遠くから眺める。
そう、これが本来あるべき姿なのだ。
人と神とでは区別があるはず。私がただ、人に近付きすぎてしまっただけのことだ。本来ある姿、距離感になっただけなんだ。
実際その後は大変に忙しくなったようで、赤ん坊の育児や夫の仕事のサポート。
先程、娘の旦那は浜野家へ婿で入ったといったが、それは緋衣の夫の会社が原因となっている。なんでも「君が婿として来るというのなら、私の会社に入る事を許そう」という事らしい。
緋衣の夫が音頭を取ってはじまった印刷会社は、現在右肩上がりの成績を収めている。新しく事業所を増やし、増員もしなければ仕事が間に合わない。婿として我が家に嫁ぎ、私の会社の手足となるのが結婚の条件、という訳らしい。
今は目の届く範囲で面倒をみるらしいが、数年後には他所への転勤も増えるらしい。そういう諸々があって、浜野家は毎日が忙しい。
……緋衣の夫があまり家に姿を現さなかった理由も、この時初めて知った。
本当に仕事人間なのだなと思う。そんな男のどこに惚れたのだ? と、大分昔に緋衣に尋ねたことがあったが、「時折見せる優しさに騙されたんだよ」と言っていた。それで良いのかと思ったが、どうやら後悔はしていないらしい。
目まぐるしく一年は過ぎていって、翌年。
なんともう一人孫が産まれた。今度は女の子で名前を
いつの間にこいつらは子作りに励んでいたのだろうか。そんな暇など無いと思っていたが……それだけこの夫婦の間には愛情があったということなのかもしれない。
慌しい毎日も段々と落ち着き、緋衣の孫は小学生になっていた。緋衣の友人とやらも同時期に孫が産まれたらしく、どこまでも気が合うなと笑っていた。
その頃には、緋衣の娘と旦那は出張続きの毎日。仕事自体に忙しさは無かったが、自分らの子供と接する時間は少ないように見えた。
となれば当然、蘭と鈴は緋衣と過ごす時間が一番長くなる。
「お前らの親は、これでもお前らをちゃんと愛しているからな。心配しなくていいんだからな」
そうやって子供らに言葉を掛ける姿もよく見た。
「だいじょーぶだよ! おれ、ばあちゃんと遊ぶの好きだから、これくらいへっちゃらだよ!」
「そうだよ! 私達って学校じゃ友達たくさんいるんだから! 寂しくなんてないもんね!」
蘭と鈴はそうやって笑顔で返事をする。本当に良い子に育ったなと思う。
最近は二人の一番の大親友とやらもよく遊びに来ていた。名前は、あきら……と、あんず……とか何とか。
子供達四人を眺める緋衣の顔は、いつみても幸せで満ち溢れていた。
私が見たかったのはこんな光景だったのかもしれない。
願わくば、こんな時間がずっと続けばいいのに――と、自らが神様である事も忘れてそんな事を思ってしまう私がいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます