第30話 助け
自分の世界に引き篭もっている期間が長かったからか、現世に姿を出しても物陰からコソコソ覗くだけになってしまったこの頃。これまでと変わらず緋衣にしか興味が湧かなかったから、娘や夫などに近付く事は無かった。
だが、今はこうして緋衣の孫とその友達とやらを見守るのが、どうしてこんなにも心穏やかにさせるのか。緋衣に影響を受けたか、庇護欲だとか言われる何かを自覚しつつあった。
……つまりは、私の神としての人間理解も深まってきたという事なのだろうよ。
「どうしてそんな所から覗き見しているんだい」
家の表で走り回っている子供らを屋根の上からこっそりと見ていると、緋衣の声が下から聞こえてきた。腰に手を当て、呆れた様子で私を見上げる緋衣は「降りてきたらどうなんだ?」とでも言いたげな表情である。
「別に……、覗き見などしていない。屋根の上は陽も当たり、袖から忍び込んでくる涼風も心地良い。身体を休めるにはうってつけの場所なだけだ」
「全く、何を恥ずかしがっているのやら……。どうせあの子らにお前の姿は見えないんだから、もっと近くに寄ったらどうなんだい?」
「そうは言っても、なぁ……」
緋衣の言う事は分かるが、それでもやはり、以前のように家族の在り方を私が乱してしまうかもしれない。それがどうしても引っ掛かり、後一歩を踏み出せないでいた。また緋衣に何年もかけ、親子関係を修復させるだなんて考えたくもない。
こうして影から眺めるくらいが丁度良いというのに……全く、お節介者め。
「ばーちゃーんっ! 誰と喋ってんの!」
目を細め、ニッと笑った顔がなんとも無邪気そうな子――、蘭が緋衣の近くに駆け寄ってきた。どうせあの子にも見えやしないだろうと特に隠れる事も無く、少し気恥ずかしさは残ったがその場に座り続けた。
「あぁ、今日も良い天気にしてくれてありがとうって、お天道様とお喋りしていたんだよ」
「じゃあ、あの子は? 屋根の上に座っててずるいよ、僕も上にいきたい!」
蘭は真っ直ぐに私の事を指差して、そんなおねだりをして見せた。
初めての経験に身が強張る。私のことが見えているのか? 純真無垢な子供らの方が、大人たちよりもそういった存在に敏感であると聞いた事があるが……どうやら、緋衣以外には視認されないという考えは改めなければいけないようだ。
「蘭、あの子が見えてるのかい?」
「うん。なんかガキっぽい顔してるね!」
ガキっぽい、か?
私は見た目こそ幼いが、その実数百年を生きた付喪神だぞ? 緋衣の孫とはいえ、その発言を許してはならないだろう。ここは一つ、神としての威厳を見せてやらなければいけない。
そう一瞬思ったが、緋衣の歳に似合わない豪快な笑い声がその思考を拭い取った。
「ははは、ガキっぽいか! 確かにそうかもしれない! だが蘭よ、初対面からそんな事を言ってはいけない。前にも教えただろう? 初対面の人にはまず、「初めまして」と言って挨拶から始めるものだ」
「はーい。えっと、初めまして! 浜野蘭って言いま……す……ってあれ、ばあちゃん、あの子どこにも居ないよ?」
「なに? さては、逃げたな……」
緋衣と蘭が話している隙に、私は既にその身を隠していた。
すまないな緋衣。やはり、まだ子供らの前に出る時期じゃないんだよ。どうしてもまだ、気持ちの踏ん切りが付かないのだ。
私は神として、人間であるお前達との距離感をはっきりと決めなければいけない。それが自分の中で確かなものになるまで、もう少しだけ待っていてくれないか。
その晩、すっかり寝静まった浜野家の縁側で、私は一人星空を眺めていた。
あの暗闇に輝く光のカケラは、私よりもずっと昔からこの地球を見守り、孤独に生きてきた。その生い立ちにどことなく親近感が湧いてからは、こうやって人目を盗んでゆっくりと見上げるのが習慣付いてしまっていた。
今なら誰に迷惑をかけるでもないし、昼間のような突飛な出来事も起こらないはずだ。肩の力を抜き、縁側から両足をブラブラと揺らしていた。
後ろから一つ、足音が近付いてくる。
振り返らずともわかるその音に、私はいつものように空を見上げながら口を開く。
「どうした緋衣、眠れないのか?」
「違うさ。お前と話す為にわざわざ、したくもない夜更かしをしようと思ってな」
夜更かしは美容の敵だと緋衣は言うが、もうお前もいい歳じゃないか。今更美容を気にしたって仕方がないだろうに。そんな言葉が喉元まで出かけるも、ぐっと堪えて飲み込んでやった。
私と緋衣がこうして面と向かって話すことができるのは、こうやって誰もが寝静まった深い静寂の中だけだ。人目を避け隠れながら、そして何かから逃げながら、只々言葉を紡いでいく。たったそれだけの事が、忌むべき行いだと誰かから咎められている気がしてたまらない。
人と、神。
相反する存在の二人は、こうして一緒に肩を並べるだけでも駄目なのだろうかと、ずっと昔から考えていた。そう考えるのが一番強くなったのはやはり、緋衣の娘の件があったからだろう。
「もっと近くで子供達を見守ってやればいいものを。もしかしたらお前の姿は、あの子らに見えているかもしれないんだ。今の内だけでも、一緒に遊んでやってはくれないか」
「そうしたいと思った事は……何度かある。お前の孫とその友人だ、きっと良い子達に違いない」
無邪気に笑う声。底知れない体力で走り回るその身体。幾ら衣服が土埃で汚れようとも構わないその様子は、見ているこちらも気分が良かった。
しかし、どうしても、その場に混ざる己の姿だけは想像できない。いや、したくないのかもしれない。
「しかし、お前にまた迷惑は掛けたくない。今はもう、見守るだけで良い。それが神としての、本来の役割というものだろう。あまりでしゃばるものではないさ」
胸の辺りにチクリと小さな痛みが走った気がした。針を刺すような一瞬の鋭い痛み。それに合わせ、どこか取り繕うような笑顔も自然と浮かんだ。
笑っている筈なのに、胸の痛みは和らいでくれない。
これは一体、人間で言うどんな感情に当てはまるのだろう。これまでの経験から考えてみるものの、いまいちピンとくるものが見つからない。
すると、いつの日かされたように私の頭を撫でる緋衣の手があった。
「全く……紫苑。お前は本当に、人間臭くなったものだ」
「……そう言ってくれるのは嬉しいが、今抱いているこの感情にも理解が及んでいない。まだまだ人間としては不完全だろう」
「それで良いんだ。自分の本当の気持ちを正しく理解できている人なんて、この世にはそれ程多くはない」
人間という生き物は、どうしてこう難儀なものなのだろうか。
その面倒くささがらしさというのであれば、ある意味で正解なのかもしれないが。
緋衣も夜空を見上げる。この家は街の中心から外れた場所にあり、辺り一切の建築物は無い。囲むのは自然豊かな木々と空だけだ。静かな暗闇の中、家の明かりも当然消えている。私達を照らすのは月明かり、ただそれだけだった。
そんな緋衣の横顔につられて、私も再度夜空を見上げた。
小さく灯る星の明かりは弱々しく儚いが、それでも惹き付ける何かがあった。数多ある星の一つ一つは、私達からすれば区別なんかつかない。それでもずっと輝き続けている彼らだったから、私は目が離せなくなってしまったのだ。
ずっと、誰にもその存在を認知される事なく生きてきた。
そして、同じ年月を歩んできた者はもう、どこにもいない。
いるとすれば、そうだな、お前達くらいなのかもしれないな、私と同じ年月を歩んできたのは。
だからこそ、これほどにあの輝きに目を奪われてしまうのかもしれない。
人と、神。
歩んできた年月はまるで違うこの二人が、こうして並び座っている。この偶然を、奇跡を、少しだけ
少しの間そうやって夜空を眺めていると、柔らかで
「ところで、紫苑。一つ提案なんだが」
顔だけそちらに向けて、聞く姿勢を作る。
「無理に姿を出せとはもう言わないことにした。やはり、お前の気持ちを汲んでやりたいからな。だから、どうせ隠れて覗き見るのなら、堂々と覗き見てはどうだ? ……と、思ってな」
「ん? つまり、何が言いたい?」
「家の裏手に納屋があるだろう? 立派な出来なのに、ほとんど使われていないのは勿体ない。だから、あの場所を遊び場として皆に使わせようと思っているんだ」
裏手、といっても、歩いて数分は掛かる距離だがな。
砂利道を歩き、草木が段々濃くなっていく方へ向かえば、不思議とぽっかり開けた場所に辿り着く。そこに納屋はあるわけだが……確かに、何度か足を運んだ事はあるがなかなか立派な出で立ちだ。遊び場として使うには十分過ぎるくらいだろう。
「あぁ、良いんじゃないか? なんというか、その、隠れ家のような気がして子供達も喜ぶだろう」
「隠れ家、ね。お前も少しは可愛らしい例えができたんだねぇ」
「な、なに!? 馬鹿にしているのか緋衣!」
くすりと笑った緋衣の顔には深い皺が目立った。それを見て時の流れを感じざるをえなかったが、昔と変わらず、その笑顔を見ると心が温かくなったような気がした。
「そう、それでね、あの納屋に神棚を作ろうと思うんだ。あの場所はほら、やけに落ち着いているし雰囲気もあるじゃないか。お前に丁度良いと思ってな。そこで、さっきの話に戻るんだが……紫苑、その新しく作る神棚からあの子らを見守ってくれないか? 私の目の届かない所だと少し心配だが、お前がいるなら安心できる」
「なるほど……それで、堂々と覗けに繋がるわけだ」
ニコリと笑って緋衣は小さく頷いた。
少し、考える。
確かに、緋衣のこの提案は良いと思った。ずっと元気なままだが、こいつも歳だ。いつまでもこの元気さが続くわけじゃない。負担を減らせると考えれば、それは緋衣の助けになれる。
それに、私にとっても姿を見せずに堂々と近くからあの子らを見守れる。何かあれば、緋衣を直ぐに呼び出せばいい。
そして何より、この提案は緋衣が私を信頼してのものだ。助けになりたい、あの子らを真っ直ぐに育てたい。沸々と湧き上がる感情のようなものが、胸を高鳴らせる。
「……あぁ、良いだろう。私に任せるといい」
「ありがとう、紫苑。あの子らを任せたよ。あぁ、もちろん私もバリバリ現役のつもりだけどね」
夜空の元、人目を盗んで一つの約束が交わされた。
それは、人と神の契り。
前にも、こうやって緋衣と約束のようなものをした気がする。悪くないな。
なあ、夜空に浮かぶ星々よ、大きく浮かび上がる月よ。この契りを聞き留めてくれただろうか?
今私らを見ているのはお前達だけだ。神として、誇りを持ってこの約束を守ろう。
それから私と緋衣は、他愛もない話をして夜を過ごしていった。
……人には寿命がある。こんな時が後どれほど続いてくれるのかは分からないが、それでも、ずっとこんな時の中を過ごしていく事ができたらと思ってしまう。
夏を間近に控え、梅雨の季節がやってくる六月。
ぬるい夜風が、私と緋衣の頬を撫でていた。
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