第20話 記憶2

「……ごめん……本当にごめん」


 気が付くと、そんな言葉が口元から零れていた。


「怪我のことなら今更でしょう? 気にしないの」

「そのことも勿論だけど、皆を……こんな状況に巻き込んでしまって、本当にごめん。明日になれば皆の命はもう無い。俺があの時、安易に手伝うなんて言わなければ、こんなことにならなかった筈なのに。ごめん、ごめん……」


 目尻に涙が溜まっていった。感情が抑えきれず、頬を伝ったそれは畳の上に染みを作っていく。

 眼を抑えても、もう誤魔化せない状態になってしまった。どれだけ謝っても仕方がないのに、こんなありきたりな言葉しか思い付かない。

 畳の上にはどんどん染みが広がっていく。ぽつりぽつりと、一つずつ。

 すると、そんな染みの跡を丸ごと覆い隠すような大きい影が、部屋の照明から俺を遮った。


「なんで昌が謝るんだよ」


 ぐしゃぐしゃの顔で見上げると、そこには蘭が立っていた。眉間に皺を寄せ、怒りに満ち溢れた表情だった。


「……だって、俺があんなこと言わなければ、こんな結末にはならなかったのに……。昔だってそうだろ、俺が原因でおばさんが――っ!」


 そこまで言ってから胸倉をぐっと掴まれた。抗えない程の力で引っ張られ、思わず身体が浮いてしまったのかと錯覚する。


「勝手に決め付けんな! 俺は、一度だってお前が悪いと思ったことなんかねぇよ! 今も、昔だってそうだ!」


 距離はおよそ数センチ、殆ど顔を突き合わせる形で怒鳴り声を上げる蘭。

 売り言葉に買い言葉だなと理解しつつも、俺も頭に血が上って冷静な判断もできないまま口を開いてしまう。


「実際そうじゃないか! 例えお前がそう思っていなくたって、結果がそれを物語っている! 悪いかどうかの話じゃない、俺が皆の人生を台無しにしたんだ……! よっぽど、心から恨まれてた方が楽なくらいなんだよ!」

「俺が、俺がって……何でも自分の責任にすんなよ! 覚えてないのか、俺も協力するって言ったんだ! これは俺が決めた自分だけの意思で、お前のもんじゃねぇ!」


 家中に怒声が響いているんじゃないかと思うくらいの大きさだった。少し息を切らしながら蘭は言葉を続ける。


「……昌が考えていることを、俺も手伝いたいと思ったんだよ……! 今度は……今度こそは、お前にあんな思いをして欲しくなかった! 間違ってない、悪くないって証明したかったんだ! 昌一人の責任なんかじゃ絶対にないんだ。もう二度と、同じ過ちを起こさせないって決めたんだよ!」


 初めて話す、本音の部分。

 初めて知った、蘭の本当の気持ち。

 そうか。だからあの時、蘭は俺に同意を示してくれたのか。きっとそれは、鈴も同じだったんだろうな。二人の反応がやけに早かった覚えがある。

 つまり、蘭と鈴はずっと俺の為に協力してくれていたという訳か。もう過去の過ちを繰り返さない為に、今も昔も、全て悪くなかったんだと俺に伝える為に。

 蘭の訴え掛ける言葉に、俺は胸の辺りに暖かいものが込み上げてくるのを感じていた。喉元まで出かかったその言葉は何かに引っかかり、なかなか外に出て行かない。

 ――その引っ掛かっている原因。どれだけ悪くないと否定してくれても、無かったことには出来ないのだ。それはつまり、一緒に刻まれた傷跡も消えないということ。


「だから、どうしたっていうんだよ……」


 もう手遅れなのだ、そんな明るい未来なんて、もうやって来ない。


「どんなにお前が頑張ったって、元通りになる前に俺達はもう死ぬんだ! 今更、手遅れなんだよ!」


 蘭の胸倉を掴み返し、力任せに押し退ける。不意を突いた反撃だったから、蘭はバランスを崩して隅に置いてある箪笥たんすまで体制を崩して倒れていった。その衝撃音は、まるでこの家全体が揺れているかのようで、箪笥の軋む音が悲鳴のように聞こえた。衝撃で蓋が開けば、上に乗っていた物も音を立てながら溢れ落ちる。


「いってぇな……お前……っ!」


 ギロリと鋭い視線で蘭が睨んでくる。それを正面から受け止め抗う姿勢をとった。


「ちょ、ちょっと、止めて!」


 横で萩原が何か言っていた気もするが、俺の耳にはもう届いていなかった。


「昌ぁっ!」


 俺の名前を呼んで、蘭が掴み掛かってくる。何の意味も篭っていない、腹の奥底から叫び声を上げながら泥臭い喧嘩が始まった。体格差、筋力差、どれを取っても俺が蘭に敵う要素などない。

 でも、ここで引く訳にはいかなかった。

 どうしても、今この瞬間から逃げたくなかった。

 殆ど一方的に、稀に一発か二発だけ反撃の拳が入ったが、その度に何倍もの力で返された。


 口の中が切れたのが分かる、血の味がした。ふと、まだ着たままになっていた自分の制服に視線を落とす。白いシャツに血の跡がべっとりと付いていた。あぁ、鼻血が出ているのか……気が付かなかった。それに比べて蘭は、左瞼の上が少し腫れているのと首に付けてやった引っ掻き傷くらいだ。クソ、なんでこんなにも差があるんだ。

 昔ですらここまでの喧嘩はしたことが無かったと思う。激しく殴り合い、部屋の中を転がる。おばさんの部屋はそれほど広くはなかったから、その取っ組み合いに巻き込まれて廊下との境目になっていた襖が俺と一緒になって押し倒された。

 肺の中の空気が無理矢理外に押し出され、息ができなくなる。その隙に、蘭が俺の上に馬乗りになって拳を握ったその瞬間。


「何してるの!」


 先程から姿を消していた鈴。この状況には似合わないエプロン姿だ。


「何やってるの! 部屋の中がぐちゃぐちゃじゃない! ここがおばあちゃんの部屋だって分かってんの!? 杏ちゃんが横にいるっていうのに、信じられない! 馬鹿なのか!?」


 鈴の持っていた金属性のお玉で、二人一緒に頭を叩かれた。


「いてぇ!」

「痛い!」


 そこでやっと冷静になって、辺りを見渡した。まず足元、下敷きになっている襖には穴を空けてしまった。部屋の中、箪笥はひっくり返り、壁には凹んだ跡が数箇所ある。仏壇にだけ被害が及んでいなかったから、萩原が必死に庇ってくれたのだろう。本人の様子を見ると、特に目立った怪我は無いがぐったりと疲れきっていた。


「あ……。ごめん、その、やりすぎた」


 素直に謝った俺に対し。


「ふん! 誰が謝るかよ!」

「反省しろ馬鹿!」


 鈴のお玉が、またしても蘭の頭に入った。




「――とりあえず、男二人は怪我の手当てだね。部屋の掃除はまた後よ」


 そう鈴が言うものだから、またしても怪我の手当てを受けることになった。さっきより何倍も酷い怪我を作って、もう一度萩原に世話になっていた。その最中、萩原にも馬鹿と言われて少し乱暴に消毒をされた。酷く傷に沁みて、とても痛かった。その横で鈴は、蘭に説教をしつつ手当てをしていた。

 そうして数分。お互いに傷の手当も終わると、鈴がため息交じりに立ち上がる。


「よし。それじゃあ、ご飯作ったから皆で食べよっか。きっとお腹が空いてるから喧嘩もするんだ」


 くいっと、親指で居間の方を指してみせる鈴。


「……あぁ、そうだな。そういえば夕飯もまだだったね」


 言われるがまま、居間へと向かう。大人しく座って待っていると、ありとあらゆる飯を運んでくる鈴。何処に消えていたのかと思っていたが、ずっと飯を作っていたのかもしれない。

 鼻孔をくすぐる、腹の虫が騒ぎ出すような良い香り。ますます腹が減ってきた。四人で囲むにしては少し多い位の量で、机の上には所狭しと皿が並べられている。


「いただきます」


 四人で口を揃えて、食事を摂り始める。口に運ぶ度、傷が沁みて痛んだ。だが、相変わらず美味い。徐々に手が伸びるスピードが上がっていく。いつも見ていた蘭と鈴の弁当箱の中身がそのまま広がったような品揃え。少し茶色っ気が多いのは、きっと俺や蘭に合わせてくれたからだろう。

 心身共に、味だけでなくその暖かさも染み渡った。手が止まらず、飯を喉に詰まらせる。慌てて麦茶を飲んでは、また箸を動かしていく。

 そうして皿の上から飯が消えるまでに、そう時間は掛からなかった。

 食べ終えホッと息をつく。皆も同じく、腹を擦りつつ満足気な様子である。

 食事は偉大だなと改めて実感していて、つい数分前まではあれ程ギクシャクしていたのに、今では見る影も無くなった。

 正面に座る蘭へ視線を送る。横の鈴に何やら催促されているのか、柄にもなくまごついている。

 そうやっておしくらまんじゅうを数度繰り返した後にやっと決心したのか、もしくは観念してなのか、蘭が重く口を開いた。


「昌、さっきは、その……すまんかった。この通り」


 深々と、その場で頭を下げる蘭。そのまま固まって動く気配が無い。


「いや、こっちこそゴメン。先に手を出したのは俺だ……。ボロボロにされたのも俺だったけど」


 少しだけ意地悪いことを言ってしまったと思う。だが、蘭もそこは汲み取ってくれたのか、苦笑いを浮かべている。


「あのさ、喧嘩ついでに話しておこうと思うんだ。俺達が戻ってきた理由……鈴も、いいだろ?」


 本音が出てしまったから、もう隠す必要も無い。恐らくそういう意味も込めて言ったのだろう。同意を求められた鈴も、特に否定することなく黙って頷いた。


「俺と鈴。両親が転勤族で色んな街を転々としてきたのは二人も知っているだろ? この街を離れてから、長くて一年……早いと半年で転校する日々だった。部活も、本当は続けたい所が沢山あったよ。でも長くは居られないと分かっていたから、入部しても本気にはなれなかった」


 それを聞いて、いつの日か蘭とした会話を思い出した。

 色々とスポーツ経験はあるが、大会には出場してこなかったと言っていた。その時は、それほどその競技にのめり込んでいなかったからかと思ったが、理由は別にあったようだ。

 いつか去ると分かっているからこそ、本気になれない。各地を転々とする者だからこその悩みなのだろう。

 蘭は静かに、言葉を選びながら話を続けていく。


「それでも、思い出だけはなんとか残したくさ。俺達がいたことを忘れないで欲しかったから友達はたくさん作った。皆と仲良くして、誰もが俺達との別れを悲しく思ってくれたよ。でも、最後の高校生活はあの場所が良いなって、ふと鈴に話したのがきっかけだった。すぐ親に相談したら、二つ返事で承諾してくれたよ。戻りたいって気持ち、元々ばれてたんだろうな……。これまで色んな人と出会ってきたけど、お前達以上に気が合って、長く遊んでいられる連中はいなかったよ。もう一度会いたい、もう一度遊びたい、あんな終わり方のままじゃ嫌だ。そして、皆で笑って卒業を迎えたい。そういう理由で戻ってきたんだ」


 しっかりと、聞き漏らしなど無いように、俺はその言葉を胸の奥底に仕舞い込んでいた。

 蘭の言葉に繋がるよう、鈴が次いで話し始めた。


「最初は、一人暮らしって響きに憧れてるから……とか言って、本当は皆でまた遊びたかっただけなんだよね。戻ったら何をして遊ぼうか、何処に足を運んで、何を見ようかって。戻ってくるのが決まったその日から、ずっとワクワクが止まらなかった! それで、いざこっちの高校に来てみれば転校初日に再会できるし、そんな偶然ってあると思う? 嬉しくって周りのことなんて何も見えなくなっちゃった! まあ、そのせいで他のクラスメイトとお話しするのが遅くなっちゃったけれど……。それで、蘭が喧嘩しながら言ってるのが聞こえたけど、改めて言うね。私達、二人と再会できたらこうしようって決めてたことがあるの。今度は、あの日みたいにバラバラになんてさせない。同じ過ちは二度と起こさないって。昌君も杏ちゃんも、たぶんずっと引き摺ってるよね? 見てたら分かるよ。私達も同じだったから尚更ね」


 ギクリとする。それと同時に、納得もした。

 シオンは『それぞれが心のどこかに自制をかけていて、現状に心から満足している者など一人もいなかった』と言っていた。成る程、だとしたらシオンの言葉は正解だ。

 蘭と鈴の二人共が、過去を悔やんでいたのだ。もう二度とあんな過ちを犯すまいと、誰よりも気を遣い、精神をすり減らし、なんてことないと誤魔化すために分厚い仮面を身に着けていたのだ。

 それでは心のどこかで自制してしまっていてもおかしくない。同じ失敗はできないと考えるのなら尚更だ。

 萩原もそうなのかと思い、ちらりと横目で見てみる。すると一瞬だけ視線が交じり、慌ててお互いに眼を逸らした。

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