第19話 記憶1


「どうせ一人で過ごすくらいなら、皆で一緒に居ようよ」


 そんな鈴の言葉に甘えて、俺は浜野達の家に泊まることになった。時計の針は、もうそろそろ二十二時を指すところだ。

 思い残したこと、やり残したこと。いざその立場になってみても、これと言って何も思い浮かばなかった。家族と共に過ごすというのも考えたが、残された時間を考えると不可能だった。

 会いに行けないこともないが、始発で出ても帰ってくるのが昼過ぎになってしまうだろう。それだとシオンの定めた時間に間に合わない。一人暮らしの辛いところである。しかしそれは蘭と鈴も同じだったから、今はこうして机を囲み、三人でテレビをぼうっと眺めていた。


 萩原は親元に暮らしているので家に帰ったのだが、俺が泊まることに合わせて自分も戻って来ると言い始めた。こんな時くらい、俺達なんかと過ごさずに親と過ごしていたら良いのにと思った。

 ……いや、それが萩原の優しさなんだろう。それなのに俺ときたら、萩原の思いを無下にすることを考えてしまっていた。やはり、多少なりともこの状況に参っているみたいだ。心が荒んでいる。

 その内、テレビ画面の向こう側にいる人々を見ては、何をそんなにヘラヘラ笑っているんだこいつらはと、八つ当たりでしかない憤りを覚え始めていた。


 そんな頃、鈴がおもむろに立ち上がり家の奥に姿を消した。何かあったのかと目で追うが、すぐに興味が薄れて元の姿勢に戻る。

 必然的に蘭と二人きりの空間になるのだが、特に会話も無く、只々テレビの音が茶の間に流れるだけだった。そうやって暫くの間過ごしていると、机の上に放り出していた携帯が振動した。手にとって確認してみると、それは母親からのメールの返事だった。

 俺は明日殺されてしまう。家族に何か、残しておきたい言葉はないのか? しかし何と言って説明すればいいのやら、考えるのも段々と億劫になってくる。無気力さが身体の内側を蝕んでいるのが良く分かった。

 何はともあれ、メールの内容を確認してからだと思い液晶画面の上に指を走らせる。すると、プツリという音と共にテレビの画面が真っ暗になった。不思議に思って蘭の方を見ると、どうやら手元のリモコンで消したみたいだ。

 何かあったのかと疑問に思っていると、蘭は膝に手を付き勢い良く立ち上がった。


「よし、どうせテレビなんて見てなかっただろ? 表に出ようぜ昌、久し振りにキャッチボールでもしねーか?」


 ニッと笑ってみせるその表情に、一体どんな気持ちが混在しているのか。

 断る理由も無かったので、良いよと返事をした後に蘭へ続いて外に出た。

 何処からか持ってきたグローブとボール。こっちを使ってくれと放り投げられ、慌ててキャッチした。手に嵌めてみると、何とも久し振りな感触だ。子供の頃、こんなに大きなグローブを手にするなんて考えてもいなかった。


 数メートル距離を空け、左手に嵌めたグローブの感触を味わう。蘭は、自らの右手から左手へボールを投げ、軽快な音を鳴らしながらグローブの感触を確かめていた。

 少しすると蘭が投球の構えをとり、準備は良いかと合図を送ってくる。それに答えるようにグローブを正面に向け、いつでも来いと小さく頷いた。

 リラックスしたコンパクトな投球フォームで、俺の手元を目掛けて真っ直ぐに伸びる蘭のボール。グローブに当たる感触と共に、スパンと響く音。左手に収まったそれを右手に持ち替え、何度か肩をぐるりと回し温める。肘を引き上げ、身体を捻ってボールを投げる。こちらも同様、スパンと音がした。


「おぉ、良いなこの感じ。久しぶりだ」

「そうだね。キャッチボールはそれほど鈍ってなくて助かったよ」


 外はもう暗闇に包まれている。街灯も無ければ月の明かりも全く頼りにならない。となると、家の中から漏れている明かりを頼りにボールを目で追わなければならなかった。見えないこともないが、ふと見失う時があるから気を付けなくては。


「野球、最後にちゃんとやったのはいつなんだ? 俺は高校一年の秋が最後」

「そうだな……。多分小学生の内には辞めてたから、四年生とかそのくらいだ」

「そっか……。じゃあ、あれからすぐに辞めちまったんだな」


 山なりになってボールが飛んでくる。

 あれからというのはきっと、あの日のことを言っているんだろう。俺達が別れる最後の日……、喧嘩をして、一生元に戻れないんじゃないかと思うくらいの傷跡を残したあの日のことだ。

 俺達の間で初めて、ちゃんと昔の俺達に触れた瞬間だった。

 不意を突かれた俺は、一瞬身体が強張るも、それを悟られまいとすぐボールを投げ返した。


「なら、あの体力の落ち具合にも納得だな! 鬼ごっこしてる時の昌、なかなかの傑作だったぜ」

「その話を蒸し返すな……。あれは、お前の身体能力が高過ぎてそう見えただけだ。文化部だったらあれが平均だ……たぶん!」


 少しボールに勢いを乗せて、蘭の胸元目掛けて真っ直ぐに投げる。悪かったよ、と笑いながらも簡単にキャッチされてしまう。

 それからはお互いに、あの時はこうだったあぁだったなと言い合い、ゲラゲラと腹を拗じらせながらキャッチボールを続けた。これが嘘だったなんて、やはり信じられない。嘘なんだとしたら、今こうして笑えている俺は一体何なのだろう。


『――それぞれが心のどこかに自制をかけていて、現状に心から満足している者など一人もいなかった』


 ふと、シオンの言葉を思い出した。

 過去を忘れたいと思うのは、ここまで咎められることなんだろうか。ずっと心に残っていても、表に出さず内へ抱え込んだままだなんて、皆そうやって生きていくものだろう。それが上手な生き方というものだ。

 そんなことを考えていたから、蘭の投げたボールの行方を見失ってしまう。


「お、おい! 昌どこ見てる!」


 気が付いた時は既に遅く、グローブも構えず呆けていた俺は額で蘭の放ったボールを受け止めた。

 ゴッと鈍い音がして、視界がぼやけて一瞬意識が飛びそうになる。


「いっ……てぇ……」

「おいおい、何やってんだよ。大丈夫か?」


 幸いにも大した怪我にはならず、ぶつけた所を触っても特に変わりない。自分の石頭に感謝である。だが、痛い。堪えきれずにしゃがみ込み、唸り声を上げる俺。

 そんな俺の様子を見て笑う蘭の声にまじって、こちらへ近付いてくる足音が聞こえてきた。


「え、なんでか声が聞こえると思ったら、何してるの二人とも」


 萩原だった。普段着へと身を包み、ノースリーブの夏らしく涼しそうな格好だった。背中のリュックサックは無理矢理荷物を詰めてきたのか、膨れ上がっている。


「昌がキャッチボール中に余所見して、顔面キャッチをする羽目に」

「ちょっと、怪我でもしてたらどうするの? 見せて……あ、ほら少し腫れてるじゃない。救急箱あったよね、手当てしなくちゃ――」


 一瞬母親の姿が重なった。が、どうやら気のせいで済んだ。

 茶化せる雰囲気でもなかったから、萩原に黙って従う男二人。


「救急箱は確か……ばあちゃんの部屋にあった気が……」


 蘭がそう言うのでグローブは一旦その場に置き、今まで浜野のおばさんが使っていた部屋に向かう。いつもお邪魔していた居間とは全くの逆方向――、木板でできた廊下を踏み鳴らしながら歩いてみると、如何に広い家なのかが改めてよく分かる。

 蘭に連れられ部屋の前に立つ。昔懐かしい襖を横に引き、畳の敷かれてある部屋に入っていく。

 この部屋に入るのもあの頃以来だった。なんとなくなのか、無意識なのか、不思議と避けていたこの部屋は、どうしても浜野のおばさんを思い出してしまう。

 後を追って恐る恐る足を踏み入れる。蘭は救急箱を探すのに気を取られ、萩原は別のことで頭が一杯になっていそうだ。俺だけが、いらぬ不安を抱えている。


「お、あったぞ。やっぱりこの部屋に置いてあったな。この部屋だけはそのままにしてあるから、記憶違いじゃなくて良かった」

「よし。それじゃあ羽衣、頭貸して。ほら、早くこっちに座るの」


 畳を軽く叩き、こっちに来いと促してくる萩原。こうなってしまっては、いくら反発しようがピクリとも動かないのが彼女である。

 覚悟を決め、部屋の中央へ足を踏み出す。萩原と向かい合わせになる形で、胡坐を組んで座った。

 救急箱の中からガーゼや消毒液、絆創膏を取り出している。そのガーゼに消毒液を沁みこませ、怪我した部分の額に当てられる。少しだけひり付く感覚が走ったが、すぐ痛みにも慣れた。


「ほら、動かないで。もう終わるよ」


 こうして手当をされている内に、段々と懐かしい感覚が呼び起こされる。昔もこうやって怪我をする度に、浜野のおばさんに手当され叱られていたと思う。

 この部屋で、今と同じように。


『――子供の内だけだぞ、こうやって誰かから施しを受けられるのは』


 昔、おばさんによく言われていた言葉を思い出した。当時はあまり意味も理解できず、説教を受けているだけだと思っていた。しかし、こうやってある程度成長した今なら、その意味もなんとなく理解できる。

 子供の頃は誰かが守ってくれる。よく遊び、たくさん経験し、いろんな失敗を積み重ねて、いつか守る側になっていくのだと。実際にそこまでの意図があったのか定かではないが、おばさんの性格からして、そんなことを伝えたかったんだと思う。

 そんな懐かしくも温かい記憶を頼りに、部屋の中を見渡す。と、萩原の背中の向こう。仏壇が置いてあるのが見えた。

 いくつかのお供え物があり、その中心には一枚の写真。


「おばさん……」


 あんな事故が起こらなければ、まだおばさんは生きていたのだろうか? 昔と同じように叱ってくれただろうか? 稀ではあったが、俺達と一緒に外で遊び回ったこともあるくらい逞しい人だった。きっとまだ、元気に笑っていたに違いない。

 俺の安易な発言で、本来あるべきだった未来を消してしまった。


 しかもしれは、高校生になった今も同じ失敗を繰り返している。


「手伝うよ」と、あの時自分のエゴを優先させて決めたこと。自分と似た苦しみを持っているこの子だけは何とかしてやろうと思ったあの瞬間。

 姑息にも、自分と似た境遇の子を助けて過去の罪を清算しようとしていたのだ。しかし結果はひどい有様で、皆を巻き込んだ挙句、日を跨げば俺たちの人生は終わりを迎えてしまうのだ。

 あの当時も俺の勝手な言動で関係を壊した。不慮の事故だったと頭では分かっていても、気持ちを抑えることなんて無理だったんだ。


 ずっと心に残ってしまった傷――。もうあんな出来事が起こらないよう、無かったことには出来なくとも、少しでも傷を開かないようにしていたのだが――。


「……ごめん……本当にごめん」


 気が付くと、そんな言葉が口元から零れていた。

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