第32話 さよならを知る2

 平凡でいて、凪ぎのような日常が続いていた。この姿や声が、あの子らに認識されてしまう恐れはあったが、それでもやはり楽しい毎日だった。

 あの子らが納屋で……秘密基地で遊ぶようになってから、緋衣は家の中に居座ったままで様子を見に来る頻度が少なくなっていた。私に任せたからもう大丈夫だろうと、そんな無責任なことを言う人間ではないと知っているが、もう少し顔を見せにきたって良いじゃないか。


 気になってふらりと様子を盗み見たことがあったが、夫と縁側に座りまったりとしている姿が目に入った。とっくに定年退職した夫も、あれだけ忙しなく毎日を駆け巡っていたのに今ではすっかり暇を持て余しているみたいだ。

 ほんの少しだけ、「そこは私の場所だぞ」という言葉が脳裏を過ぎるも、声には出さずぐっと飲み込んだ。


 年寄りくさく煎餅をかじる二人。夫の方が、喉でも詰まらせたのか咳き込んだ。緋衣は水飲みに注がれた麦茶を手渡そうとするも、その手は小さく揺れていた。


「歳だね、私も、あんたもさ」


 自嘲気味に笑う緋衣の表情は、不思議と穏やかなものだった。

 邪魔する事もあるまい。そう思って私はその場を後にする。先程から痛みを訴えている、胸に引っ掛かる小さな棘を誤魔化したまま。


 ――そんな出来事の、翌朝。

 浜野家の屋根の上、まだ少し薄暗さを残した朝焼けを眺めていると、なにやら騒がしい事に気が付いた。家の前には見慣れない自動車が一台置かれている。赤く点滅する光に、この目が焼かれてしまいそうだった。


「――なにごとだ?」

 

 声のする場所。寝室を覗いてみると、見知らぬ顔の同じ格好をした男が数人、横になったままの夫の周りを囲んでいた。緋衣は、静かにその様子を眺めている。

 慌しく家の中を走る男達は、もちろん私のことなど見えていない。覗き見していた私とぶつかるも、当たり前のように透けて通り過ぎる。その感覚が、漂う雰囲気が、この全身に悪寒を走らせた。

 その内、夫は救急車と呼ばれる物に乗せられてどこかに連れ攫われてしまった。誰の姿も見当たらない事から、どうやら一緒に行ってしまっただろう。

 私は一人、家の中に取り残された。

 一体何が起こっているのか理解できず、暫くの間ぼうっとしながら縁側に座って空を眺めていた。

 あぁ、空模様も陰気なものになってきた。このままだと雨が降ってきそうだ。

 

 そうして何時間か経つと、またしても見知らぬ自動車が家の前に止められる。

 中から現れたのは、緋衣の娘だった。

 いつ振りに見たのか分からないその顔はだいぶ老け……いや、以前よりも大人びたと表現した方がよいか、立派な母親の顔になっていた。どことなく、気の強そうな緋衣の面影を残しており、やはり親子なんだなと思う。

 娘は家の中に入り、緋衣の部屋に置かれていた私……もとい手鏡を手に取る。

 おい、何をする。私はその手鏡からあまり離れられないんだから、連れ出されると付いて行かしかなくなるだろう。


 一先ず、どうする事もできなかったから手鏡の中に潜って流れに身を任せる。緋衣の娘だから、悪いようにはされないと理解しているが……それでも不安は残る。

 初めて乗せられた自動車は、結局目的地に着くまで間で慣れる事はなかった。視界に納める間もなく景色が過ぎ去っていく。こんな速さでどうして人間達は移動できるのだろうか。こんな速度で走る機械の塊がぶつかりでもしたら、抗う術も無いだろう。人類の進歩と見れば素晴らしいかも知れぬが、私は全く落ち着けない。


 娘が自動車から降りたのを確認し、冷や汗をかきながら姿を表す。娘には見えないことが分かっているから、堂々と後ろをついていく。

 見上げた建築物はとても大きく、真っ白な壁がすらりと伸びている。数え切れない程の窓ガラスに、自然と口数が減るような静寂さ。綺麗に装飾された墓のようだと思った。


 カツカツと、廊下を踏み鳴らす靴の音がやけに大きく響いていた。チラリと娘の顔を見てみると、同じ表情を保つのがやっとだと言わんばかりである。

 広く、清潔そうな部屋に辿り着く。部屋には入らず出入り口付近に身を隠しながら中の様子をうかがう。

 そこにいたのは、娘はもちろんその旦那と、蘭に鈴。白く丈の長い服を身に纏った男と、似たような格好をした女が一人。そして、椅子に腰掛け静かに目を瞑っている緋衣、その数名だけだった。

 ベッドに横たわる緋衣の夫が目に入った途端、娘はたがが外れたようにその場に崩れ落ち、この建物内全てに響き渡るほどの声で泣き始めた。そんな娘の震える肩にそっと手を伸ばす旦那と、状況を上手く飲み込めていないのか珍しく静かにしている蘭と鈴。

 静かに、丈の長い服を着た男が口を開く。


「――急性心不全です。病院に運ばれた時点で、私共にはもうどうすることも――」


 その後も何か話をしていたような気がするが、もう覚えていない。

 久し振りに親子が並んでいる光景を見たというのにそれは重く、とてもじゃないが緋衣に話しかけて良いような雰囲気ではなかった。

 娘が落ち着きを取り戻すまでには長い時間を要した。やっとの事で顔を上げた娘は、鼻をぐずらせながら「お母さん、これ……」といって手鏡を緋衣に手渡した。


「あぁ、ありがとう。すまないね、わざわざ取りに行かせてしまって」

「いいよ。だってこれ、お母さんの大事な物なんだからさ」


 手鏡から伝わる緋衣の手の感触は、普段と比べても弱々しいものだった。

 緋衣は腰を上げ、部屋から姿を消す。当然手鏡を持ったままだったから、私もその後ろを付いていく形になる。

 ゆっくりとした足取りで、人気のない方へと進んでいく。

 少しだけ開けた、長椅子の並ぶ場所へとやってきた。辺りには都合の良い事に、人の気配は無かった。


「紫苑、わざわざこんな所まで来てもらって……迷惑をかけたね。どうしてもお前に会いたかったんだ」

「いや、気にするな。なにやら大事だったのだろう? 夫はどうなったのだ? 元気になるのか?」


 長椅子に腰掛ける緋衣の横に、私も習って同じように座り込む。場所は変わっても、あの縁側に座る時と同じ形になっていて、この位置関係が落ち着くんだなと心の中で思う。


「夫は……死んだよ。私にも良く分かっていないんだがね、年寄りによくある死に方らしい」


 想像以上に弱りきった声色に、私はかける言葉を見つけられなかった。


「前から違和感はあったんだ。普段から気弱な事を言わなかったのに、最近は疲れたが口癖になっていたり、咳き込むことが増えた。前兆はあったのかもしれないね……歳のせいだと楽観視してしまっていた。まさか、先に逝かれちまうなんて思わなかったよ。今まで、たくさん無理してきたのかね、この人はこの人なりにさ」


 そうやって言葉を紡ぐ緋衣の目には、うっすらと涙が浮かび上がっていた。

 初めて見る緋衣の涙に、ドキリとした。やがて溢れ出したそれらは、頬に一つの跡を残して流れ落ちた。それなのに……辛いということくらい私にだってわかるのに、緋衣は私に笑顔を向けてくれていた。

 いいんだ、こんな時くらい笑わなくたっていいんだぞ。私のことなんか気にせず、感情を抑えなくて良いんだ。

 ただそう言いたいだけなのに、どうして思った通りに口が動かないんだ。


「あまり良い夫婦ってやつは出来なかったかもしれない。それでも、私はあの人と結婚して、ここまでしぶとく生きて、子供達にも恵まれて……幸せだったんだよ。それだけははっきりと言える」


 痛い。胸が締め付けられて、どうしようもなく苦しくなる。

 そんな顔をしないでくれ。

 私が見たいのは、そんな苦しそうな笑顔じゃない。私をもっと頼って良いんだ、泣いて良いんだ。今だけは私に甘えて欲しいんだ。


「……そうか、これが人の死か。初めて直面したが、なるほど……これは、あまり気分の良いものじゃないな」


 それなのに、発せられる言葉はこんなものだ。

 どうしてこうも淡白な言葉しか掛けることができないんだ。

 ……私に、人間としての感情が足りていないからか? 私が神で、お前達人間とは違う存在だからか?

 わからない。わからないよ、緋衣。

 頼むから、もっと私に色々な事を教えてくれ。私も一緒に、お前と泣いてやりたいんだ。だから、どうか――。


「――なあ、緋衣。お前もいつか、死んでしまうのか?」


 ふと、気が付いてしまう。

 今死んでしまった者も、緋衣も、同じ人間じゃないか。

 ずっとこんな日々が続けば良いと思っていたが、それは叶わないのか?


「――死ぬさ。私だって人間だよ。でも、良いんだ。あの子らが私よりも先に死ななければ、それで良い。紫苑、お前も私より先に死ぬんじゃないぞ?」

「私は神だぞ。普通に過ごしていれば、そもそも死ぬという概念がない。だから……、お前より先に死ぬなんて事は絶対にないさ。絶対に――」


 私は今、どんな顔をしているんだろう。鏡があったら見てみたい。

 鏡とはずべからく、真実を映し出すものだ。見たくないものまではっきりと、鮮明に、見えてしまう。


「そんな顔をするんじゃないよ。お前も知っての通り、私は老いぼれにしては元気な方だ。いつか死ぬと言っただけで、そうすぐには死んでやらないさ。だが、そうだな……最期はお前に看取られて死にたいものだ……」


 そう言い私の頭を撫でる緋衣。まるで泣いた子供をあやすような手つきだった。お前が寂しそうな顔をするから、という緋衣の言葉にはいまいちピンとこない。

 そうこうしていると、緋衣の元へ近付く一つの足音が聞こえた。目線だけそちらに送ってみると、緋衣の娘の旦那だった。


「お義母さん」


 そう言いながら手招いた旦那は、緋衣を連れてどこかへ行ってしまう。そんな旦那の事がどうしても恨めしくなって、連れて行かないでくれと切に思ってしまう。私をここに置いて行かないでくれと、

 去り際に優しく微笑んだ緋衣の表情は、酷く儚いものだった。

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