第05話 少女との出会い

 萩原に気を遣わせてしまったのを情けなく思うが……正直に言うと助かった。

 浜野達もそれを感じ取ったからか、大げさな位のリアクションを取っている。


「おっ、おぉ! 懐かしい! まだ家のことで手一杯だったから、納屋までは見に来れてなかったんだ。案外しっかり残ってるもんだな! な!?」


 鬱蒼とする草木の中をぽっかりと切り取ったかのような、狭い道から視界の開けた場所へと出る。遮る草木が無く、照り続けている日差しが尚も肌を灼いてくる。

 そんな空間にポツンと孤独に建っている納屋が、件の秘密基地である。

 土壁がすらっと伸びる茅葺き屋根。軒の部分は瓦が使われた珍しい作りだ。所々剥がれてしまっていて、屋根の基盤が丸見えになっている箇所がある。

 当時から大きい建物だと思っていたが、この歳の背丈になってもその印象は変わらない。平均的な高校男児が十人並んで寝泊まりしようとも、まだまだ余裕はありそうだ。俺の住んでいるアパートと比べてみてもよっぽど広い。


「ま、入ってみようぜ」

「さんせーい! 蘭に続けー!」


 何の抵抗も無く駆けて行く二人。俺と萩原は取り残される形になる。

 どうしたものかと視線を泳がせていると、不意に萩原と眼が合う。


「……さっきの、私が助け舟を出さなかったらどうなってたんだか。何か言うことはないんですかね、羽衣さん?」


 萩原にしては珍しく、語尾には威圧が孕んでいた。


「助かったよ、気を遣わせてごめん。本当に」

「……これから大事な場面なのに、空気悪くしたくないもの。これくらい当然だよ、謝る程のことじゃない。でも……」


 何か逡巡している様子の萩原。目線が自分の爪先と俺の顔を行ったり来たりしている。どうやら、今度はこちらから助け舟を出さなきゃいけないみたいだ。


「でも……どうした? 内緒話なら、二人になった今の内だと思うけど」


 そう言って一歩、彼女との距離を詰める。


「じゃあ……じゃあ言うけどさ……羽衣は私のことも――」

「おーい! 何二人でこそこそ話してるんだよ! 早く中に入って来いって!」


 蘭の声に驚いたのか、その拍子に肩をびくりと跳ね上がらせる萩原。


「あぁ、すぐに行く。ほら、萩原も行こう」

「う、うん。そうだね……」


 まるで逃げるような足取りで、俺よりも先を駆けていく萩原。今後機会があったらちゃんと話を聞いてやらねば。

 そう思いながら納屋の中へと足を踏み入れる。後ろ手で扉を閉めると、バキバキと今にも壊れてしまいそうな音が聞こえた。少し動かしただけでこの有様、家と同様に経年劣化は進んでいるみたいだ。

 床板は木製で、蘭や鈴が走り回ったのか埃が舞っている。

 俺達が遊んでいた当初から物置小屋として使われていた場所だったから、散らかり具合は相変わらずだ。左右には物置用の棚、中央には学校の技術室に置かれているような無骨な木組みの椅子と机。部屋の隅には、人ひとりくらいならすっぽりと入れそうなくらい大きなおもちゃ箱が置いてある。

 そして部屋の一番奥――なぜか背の低い所に作られた神棚には、今も変わらず手鏡が祀られていた。

 この手鏡は、浜野の祖母がとても大切にしていた物。俺達がこの納屋で遊ぶのは良いが、この手鏡だけは大事に扱うんだよと口酸っぱく言われていたのを思い出す。それならこんな所に置かず、常に持ち歩けば良いんじゃないかと尋ねたが、ここが一番相応しい場所だからと煙に巻かれた。

 何が相応しくてこの場所だったのか、教えてくれることは最後までなかった。

 記憶を辿るようにおもちゃ箱の元へ、埃の被った蓋を開けて中を覗く。椅子にも使えるようにと大きく頑丈に作られた箱の中には、所狭しとガラクタが詰められていた。


「わぁー! 懐かしい!」


 こちらに気がついた鈴が横並びになって箱を覗き込んでくる。


「このゲーム機、失くしたと思ってたけどこんな所にあったんだね。見て、つなぎ目の所が壊れて上半分が宙ぶらりんになっちゃってる」

「もうそのゲームは動かないだろうな……あ、こっちはゲームソフト。ゲーム機本体がまだ現役だったら遊べたんだけど」


 そうやって変わらない笑顔を向けてくれる。昔から喧嘩で雰囲気が悪くなってしまうと、必ずと言っていいほど先に動くのは鈴からだった。その優しさに甘えて会話を続けている内に、残りの二人もこちらへ引き寄せられてくる。


「お、まだ遊べる物が残ってないか探してみりゃあ……うわぁ、年季入ってんなこれ。ボロボロだし黄ばんじまってる」


 そう言って蘭が手に取ったのは、いかにも小学生が好みそうなキャラクターがプリントされたトランプ。

 せっかくだしよ、ばば抜きでもやるか? という蘭の提案に、部屋の中央にある机を囲む俺達。

 三十分くらい様々な種類のトランプゲームに興じたが、勝ち続ける萩原と負け続ける蘭。その間は俺と鈴が上に行ったり下に行ったりと、何をやっても順位は特に変わらなかった。「トランプだから負けてるだけだ」という言い訳を始めた蘭は、UNOはないのかとおもちゃ箱に頭を突っ込む。なんとも哀れな光景だ。

 奇跡的にUNOを見つけたので、今度はそちらを始めることに。

 結局トランプの時と変わらない結果だったが、言い出した手前引くに引けなかったのか「もう一回!」と蘭が言い続けること数分。UNOだから負けるんだと言い出すまで、それ程時間はかからなかった。

 それからは、単純にカードゲーム以外の遊び道具はないかと改めておもちゃ箱に眼を向ける。オセロ、けん玉、火薬銃、縄跳び、漫画雑誌、エアーガン。袋詰めになった綺麗な石ころや、どこで拾ったのか覚えていない貝殻など、ありとあらゆるものが溢れ出てきた。

 何度口にしたのか分からない程「懐かしい」と言い合い、その度少し悲しくなった。


 時間はあっという間に過ぎ去り、辺りはぼんやりと暗くなり始め、夜の冷気が彷徨い始めていた。

 それと同時に俺達自身の熱も落ち着きを見せ、今は各自でやりたいことを楽しんでいる。鈴はさっき見つけたゲーム機が直らないかとドライバーを片手に真剣な様子だ。萩原はおもちゃ箱から掘り起こした少女漫画を手に、物語の中へ没入している。俺は蘭に捕まり、トランプの特訓に付き合わされている始末。

 蘭の手札には二枚のカードが残り、対する俺は一枚。つまり、ここでジョーカーを避けることができれば俺の勝ちだ。

 一枚ずつ手で摘んで表情を見る。右側のカードに手を掛けた瞬間、蘭の眉間にはっきりと皺が浮かんだのを見逃さなかった。

 こっちが正解か……そうだと分かれば情けは無用。容赦なくカードを奪い取る。


「はい、これでペアだな。また俺の勝ち」

「なんっでだぁっ!? また負けたぞちくしょう!」

「だから、お前は表情に出過ぎるんだって……あ、おい、止めろ」


 両の手を空に投げ飛ばし、蘭が外国人さながらのオーバーリアクションをとった為、持っていたジョーカーを投げ飛ばしてしまう。真っ直ぐ綺麗に飛んでいったカードは、奥にある神棚、浜野の祖母が大事にしていた手鏡の上にふわりと着地した。

 未だ悔しがっている様子の蘭は、呻き声を上げながらそれを取りに動こうともしない。もちろん他の二人が動く筈もないので、仕方なく俺が腰を上げることに。


「世話の掛かる……」


 そんなことをボソリと独り言ちて、手鏡の元へ。

 カードは、うつ伏せになって置かれている手鏡の上に被さっていた。そして、カードを手に取ろうとした時に、ふとその違和感に気が付く。

 他の物には埃が被っていたり、経年劣化していたりと何かしらの変化が眼に見えていた。しかし、この手鏡にはそんな様子が微塵も感じられない。埃は被っていないどころか、昔と同じく艶やかな黒い漆色。

 ごくりと、つばを飲み込む音がやけに大きい。

 いくら大事にされてきたと言っても、何も変化が無いのはおかしくないだろうか。神棚の位置は丁度よく太陽の明かりが差し込んでいるし、もう何年も経っている。色焼けするくらいの変化はあっても不思議じゃないはずだ。

 誰かがずっと手入れしていた、というのも考えにくい。そもそも漆は、経年変化で自然と色合いが明るくなっていく物ではなかっただろうか。


 誰も俺のことは気に留めていなかった。手に取るのは……たぶん初めて。

 おばさんによく言われていたのもあってか、大事に扱わなければという意識が残っており、慎重にその手鏡へと触れた。手鏡の下に敷かれた赤いクッションが、力を加えた分だけ沈む。恐る恐る、柄の部分を掴み取る。

 背面のまま近くまで引き寄せる。丁寧に装飾された白塗りの花模様が、とても煌びやかで美しい。その花の模様をゆっくりと、指の腹でなぞる。スーっという指と木面の擦れる音を聞きながら、この花の名前は何だっただろうかと考えてみるが、どうにも思い浮かばない。

 手元から視線を上げ、神棚を見る。

 こういう物は、もう少し高い所に設置するべきじゃないかと、今になっても思う。俺の胸くらいの高さにあるそれは、子供でも十分に手の届きそうな位置だ。大事だと言うのなら、もう少し高い場所へ取り付けた方が良いんじゃないかと浜野の祖母に聞いておけば良かった。

 こうして手に取っても何ということはない。考え過ぎだったかなと肩の力を抜く。

 改めて視線を手元に落とし、今度はひっくり返して鏡面部分を見た。傷一つ無い透き通った鏡面は、見ている者の感覚を狂わせるほど綺麗だった。

 角度を変えてみる。ここへ向かう途中に蘭がやってみせた自撮りの真似事をするみたいに、正面へ。続けて右へ、左へ。

 そうやって様々な角度から世界を反射し、鏡越しに皆を覗いてみようと左手に持った手鏡を斜め四十五度に持ってくる。


 その時、丁度俺の右後ろへぴったりとくっついた位置に、セーラー服を着た女の子が立っていた。


 思考が急停止する。人は本当に驚いた時ほど声が出ないものだ。というか出せない。全身から冷や汗が吹き出ていた。身動きが取れないまま、視線だけを鏡越しに合わせる。何もかも飲み込んでしまいそうなほど不自然で真っ黒な瞳。雰囲気というのか、オーラというのか、景色が少し歪んですら見える。

 なぜか自然に、死んだなと感じていた。

 血の気が引いてきたのか、思考がクリアになっていくのが分かった。

 あぁ、背中の汗が酷い。シャツが張り付いてきて気持ち悪いな……なんて悠長に思っていると――。


「何をしている」

「うおあぁ! し、しゃべっ……う、動いた!」

「はぁ……死人じゃあるまいし、そりゃあ動くだろう。全く失礼な男だ」


 驚いた拍子に後ろへ飛び退き、神棚が肩甲骨に直撃して鈍痛が走る。その様子をジッとした眼で見やる女の子。

 そりゃあ、見知らぬ女の子がいきなり後ろに現れたら驚きもするだろう。ましてやこんな古ぼけた納屋の中だ、霊的な何かと勘違いしても不思議じゃない。

 呼吸は乱れたまま、心臓の鼓動は一向に鳴り止んでくれない。


「ちょっと羽衣、何を騒々しくして……って、え? 誰、その子」


 萩原がこちらの動揺に気が付く。となれば、残り二人もその異変を察知してざわつき始める。流石の浜野兄妹も驚いている様子だ。

 いかにも気だるそうに、腰に手を構えてわざとらしいため息を吐く女の子。


「肝試しでもしに来たか? こんな時間からよくもまぁ……夜になるまで辛抱できんのかね。最近はこの手の輩も減ったと思っていたんだがなぁ」


 改めて見ると、まだまだ幼い顔だ。セーラー服を着ているので中学生以上だとは思うが、どう贔屓して見ても高校生の見た目ではないだろう。前髪を額の所で揃えたおかっぱ頭で、くりっとした大きい瞳。傲岸不遜ごうがんふそんな物言いではあるが、まだ乳臭い声だ。

 しかし、それなのに。やはり恐れを抱いている自分がいた。

 鏡越しに視線が合った時、一秒でも早くこの場から逃げなければと思った。まるで心臓を鷲掴みにされたように、一歩も動けない。死を悟らせる程の、計り知れない恐怖をあの一瞬で植え付けられた。

 そもそも何処から湧いて出てきたんだという話だ。確かにこの納屋に入る時は俺達四人しかいなかったし、納屋へ向かう途中もそれらしい女の子はいなかった。納屋の中に入ってからかなりの時間が経過しているが、俺達以外に誰かいた様子はない。


「き、君さ、何処から入ってきたの?」


 震える声で尋ねた。情けないが、身体が震えてどうにもならない。


「普通に出入り口からに決まっているだろう。お前は、床下や天井裏から家に入るとでも言うのか?」


 もし外から入って来たのだとしたら絶対に分かるはずだ。扉周辺には萩原や鈴が居たし、あの脆くなった扉のことだ、気配や音で気が付けないなんてあり得ない。

 ともかく、今は安心を得る為にも、この子のことをもっと知る必要があると思った。理解する事が安心への最短距離だと思っているのが俺という人間なのである。


「その通りだな……ごめん変なことを聞いてしまって。ちなみに、この時間まで何をしてたんだ?」


 中学生は家に帰らないと駄目だろう? とも聞こうとするが、声に出す前に女の子の言葉でかき消される。


「ふん……この場所を囲む樹の上で昼寝をしていたら、こんな時間になっていただけだ。お前に心配される程のことじゃない、余計なお世話だ。お前達こそ、人の隠れ家に断りも無く侵入して……さっさとお引取り願いたいのだが?」


 なんと小生意気な。子供の対応は苦手だ、特にこういう腹立たしいガキ。

 先程まで抱いていた恐怖が、怒りへと移行していくのが自分でも分かる。怒りという感情は支配力は凄まじいなと、深く実感した。

 このままでは余計なことを言ってしまいそうだ……と思っていた辺りで、蘭が間に入る。ここまでの会話は聞いていたな? 下手に出ると面倒になるから気を付けろよ。

 そんな気持ちを込めて視線を送ると、任せろといった風に親指を立ててみせる蘭。自信満々な顔で勇んで行くものだから、期待は大きかった。しかしそれと同じだけ不安も抱いている。やきもきとした感情で見守っていたその瞬間。


「おうお嬢ちゃん! そんな怖い顔してんじゃねーよ!」


 がっしぃ! と女の子の頭を鷲掴みにするではないか。

 わしわしと髪の毛をかき回し、頭を撫でているつもりなのだろうか? だとしたら下手糞すぎる。

 蘭の手に覆い被さった女の子の顔が、怒りで徐々に歪んでいく。止めさせなければ大変なことになる。「蘭そろそろやめ――」そこまで言い掛けたが、当の本人が口を開いた事で遮られてしまう。


「お嬢ちゃん名前は? その制服、この辺の中学か? どこ校なんだ? 歳はまだ中学生上がりたてって所だろう。てか、女の子一人でこんな場所に来たら危ないだろ。家まで送るから一緒に帰ろーぜ、な?」


 頭上の手を払いのけ、今度は女の子側から蘭の口を塞ぐように鷲掴み、わなわなと震える唇を開いてこう言った。


「色々言いたいことはあるが、まず相手に名前を聞くならば自分から名乗るのが礼儀だろう」


 額に青筋を立てて女の子はそう述べた。あからさまに怒っている。


「おご、おえごおうあ」


 おぉ、それもそうか。多分そう言って手の平をポンと鳴らす蘭。口を塞がれているので何を喋っているのか分からないし、昭和的リアクションでもあった。

 手の中でモゴモゴと話され吐息を掛けられたのか、なんとも不快そうな顔をする女の子。汚物を触ってしまったかのように手を離し、蘭の口を自由にさせる。


「お、離してくれたな。俺の名前は浜野蘭だ! よろしく!」

「……浜野」


 何が引っ掛かったのか、思議するような、はたまた怪訝そうな顔をする女の子。

 ほら、次はお前らだ。そう言わんばかりにアイコンタクトをこちらに送ってくる蘭。


「こんにちは、私は浜野鈴! 恥ずかしながらその馬鹿の妹だよ、よろしくね!」

「私は、萩原杏です。えっと、よろしくね?」

「え、俺も? 羽衣昌だ……よろしく」


 全員が名乗ったのを聞き、なぜか蘭が満足気な顔をしている。女の子は少し様子が変わり、随分と気の抜けた顔であっけらかんとしていた。


「さ、嬢ちゃん、お前の名前も教えてくれよ!」


 少し間を空けてから、女の子は肩を震わせながら口を開く。


「そうか、もうそんなに時間が――あぁ、よく立派に育ったな。私の名前はシオン、あまり気負わずに、そう呼んでくれ」


 柔らかく、歳相応に表情を綻ばせて、女の子は自らをシオンだと名乗った。

 まるでどこかで会ったことのあるような物言いに疑問を感じたが、気負わずと前置きをする辺り、これまでの物騒で恐怖を与えるような雰囲気は意図したものだったことが分かる。実際に、さっきまでは幻を見ていたんじゃないかと思うくらい微塵もそれ感じさせない。それどころか、こうして普通に口を開いている分にはなんとも可愛げな女の子ではないか。なんだか狐につままれたような感覚だ。


「ありがとう。それじゃあ、シオンはここで何してたんだ? さっき隠れ家がどうのって聞こえたけどよ、もしかしてこの場所を遊び場にしてたとか?」

「惜しい、半分は正しいぞ。ここは私の隠れ家ではあるが遊び場ではない」

「遊び場じゃない、としたら何の用があって?」


 にやりと笑って、彼女は得意げな様子だ。


「いいだろう、お前達には特別に教えてやる。付いて来るといい」


 何が彼女をご機嫌にしたのかは分からないが、さっきまでとはまるで別人だ。

 第一印象が最悪だったため、俺は未だに一歩距離を置いてしまっている。が、他の皆はそれを知らない。俺だけ別の世界を歩いているみたいだ。

 俺だけが知ってしまった彼女の顔。いや、それが本質かを決めるにはまだまだ情報に欠ける。易々と付いて行こうとしている皆を引き止めたいが、迷った挙句その手を伸ばすことは出来なかった。は何か変だ、行っちゃ駄目だ。ただそれだけの言葉が出てこない。

 シオンは部屋の中央、机のある場所へ移動する。彼女の移動する姿はとても静かだ。

 机の縁に足裏を引っ掛け「よっ」という掛け声と共に机を蹴り飛ばす。綺麗に倒れずそのまま横に数十センチ、机のあった分だけズラされていた。女の子にしては力強い脚力と、机を動かす絶妙なテクニック。器用なやつだと思った。


「ほれ、開けてみるといい」


 露わになった床板部分に、明らかに違和感のある取っ手口。木目の床にごつい銅製の床扉がそこにはあった。

 ……こんなものあったか? 記憶の棚を片っ端から開けていくが、どうにも該当するものが見当たらない。困惑した表情から、皆も同じく床扉の有無を思い起こしているのだろう。


「おい開けないのか? 何も臆することは無いだろうに……怖いモノなど潜んじゃいないぞ?」


 二の足を踏んでいる俺達に痺れを切らし、シオンが煽ってくる。覚悟を決めたのか、やすい挑発に乗ったのか、蘭が勢いに任せ取っ手口を掴んだ。

 ギィ……と見た目通りの金属音を響かせながら床扉を開く。思ったよりも薄いそれは、重さはそれほどに見えたが錆びて動きが鈍い。

 中を覗く。暗くてあまり見えないが、この扉からは想像し難い小綺麗な空間が広がっていた。

 入り口には、十メートル以上に及ぶ梯子はしごがスラリと伸びている。


「ほら、後は降りるだけだぞ」


 急かすようにシオンが言う。

 四人全員に緊張が走る。それを感じ取ったのか、鈴が明るく声を上げる。


「ちょっと! 男子は後で降りてきてよね!」


 鈴がスカートをわざとらしく押さえ、ワザとらしくふざけてそう言った。

 まさか……先に降りて待ち構え、スカートの中を覗いてやろうぐへへ。だなんて考えていると思われたのだろうか? 高校生にもなってそんなことする訳がないだろう? 全くもって心外である。まぁ、蘭ならやりかねないかもしれないがな?

 そんな期待をある意味で裏切るように、蘭が口を開いた。


「はっ、同じ家で暮らしてんだからお前のパンツなんざもう見飽きたね。洗濯する時に見てたから種類も言えるぜ。試しに答え合わせでもするか? なんかぱっとしねぇパンツばっかりで何も唆られないんだけどよ……あ、お前そろそろキャラクター物は捨てた方がいいんじゃ――」

「うっさい黙れ! 休日用だから良いんだよ!」


 また喧嘩を始めた浜野兄妹。それを他所に、するっと梯子を降りていく萩原。


「おーい。私はもう降りたよ。早く鈴ちゃんも来て」


 よくもまあ得体の知れない空間へいの一番に飛び込めるものだ。意外と肝が据わっているんだな萩原。

 呼び声に反応した鈴は、矢のような速さで梯子に捕まり、半分以上進んだ所からぴょんと飛び降り着地。慌てて萩原が「スカート捲れるって」とフォローをしている。さっきの喧嘩は一体何だったのだろう。

 追い掛けるように蘭が下へ飛び込む。鈴が飛んだ所よりも少し高い所で飛び降りた。こんなところで負けず嫌いを発揮しなくても良いだろう。

 まったく、どんな場面でも元気なやつらだ。呆れつつも、その楽しさをしっかりと噛み締めて、俺はゆっくりと梯子を降りて行く。

 地面へ足を下ろして分かったが、恐らく納屋の大きさよりも断然こちらの方が大きい。大理石のようなつるりとした壁面で、薄ぼんやりとしたこの空間。きっとこの床扉からしか灯りが入っていないのだろう。壁にいくつか照明が設置されていたが、明かりは消えたままだ。


「うわ、思ったより広い」


 特に遮るものも無いため、自らの声も足音も全て反響して聞こえる。


「まさか秘密基地の下にこんな場所があるなんてよ……全然知らんかったぞ」


 あれだけこの場所で遊んできたというのに、浜野ですらこの場所の存在を知らなかったとは。

 しかし、この空間。今は廊下しかないが、その先を見ると大きな扉が立ち伸びている。きっと、シオンが見せたい物はあの先にある。それがお約束なのだから間違いない。異質な空間を更に際立たせるあの扉。無闇に進んでもいいものか、とりあえずシオンへ尋ねようと、まだ上にいるはずの入り口部分を振り返った。


「シオン、早く降りてきてくれないか」


 俺がそう呼び掛けると、返って来る筈のない俺の背中から返事が聞こえた。


「全く、お前らは梯子一つ降りるのに何分かかるんだ。だが、相変わらずの賑やかさで私は安心したぞ。思わず笑ってしまった」


 そう、一番初めに降りた萩原よりも遥かに前。当たり前のようにその位置から返事をしてきたのだ。


「うわ! いつの間に下りてきてたのシオンちゃん! あれ? 私一番最初に降りたよね……あれ……?」

「お前らがコントをして余所見をしている内にな。なに、少し驚かせてやろうとふざけてみただけだ、許しておくれ。おっと……それよりもほら、あっちが本題だ」


 シオンが指を伸ばす。その先にはもちろん例の扉。

 聞きたいことはもっと沢山あったのだが、シオンは早くそれを見せたいのかどんどん先へ進んで行ってしまう。

 カツカツと足音を響かせ、扉へ近づいていく。シオンが扉の前で手を振る動きを見せると、何処からともなく機械的な振動音が聞こえ、眼前の扉が開かれた。

 ゆっくりとしたスピードで開かれた扉の先は、この廊下部分とは打って変わり明るかった。扉の隙間から零れた光で、思わず眼を瞑る。

 慣れるまでは薄目でゆっくりと扉の先を見る。すると、そこにあったのはまた更に広大で真っ白な部屋。ハリウッド映画にでも出てきそうな重厚感が漂っていた。

 地下という空間に似つかわしくないその光景に、思わず息を呑む。

 物自体は少ないが、まるで納屋の中を再現した造りになっている。左右に並ぶ物置用の棚、中央には机と椅子。隅の方にはおもちゃ箱。用途のわからない機械が所狭しと敷き詰められている。


 ――しかし、あえて一つ違う点を挙げるならば、誰もがそれを指摘するだろう。アレは一体何なのかと。


 味わったことのない不快感。人工的な青白いライトに照らされた中央部分。至る所からチューブと機械に伸びる配線が繋げられている。酸素マスクでやっと息をしているのか、その眼は虚ろだ。十代後半くらいの背丈だが、幼子よりも痩せ細った四肢に血の滲んだ包帯が雑に巻かれている。


「さぁお前達、よくぞ来てくれたな。ここが私の隠れ家だ。そして、机の上を御覧あれ――。アレこそがお前達に見せたかった本題、ヒトのクローン生命体だ。……強請ねだっても、くれてやらないからな?」

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