第36話 暗く沈む
私という自我を持ってから、もう何百年も経った。この姿を得てからはまだほんの数十年。神様の少しと人間の一生とは、その間に受ける時の流れの感じ方にそう差がないと最近気がついた。
数百年前の私ならばきっと何も感じなかっただろう。あぁ、またどこかの人間が死んだのかと、無機質なままだった筈だ。
それなのに――それなのにだ。どうしてこれ程までに、あいつの存在が胸に深く刻み込まれているのだろうか。どうして、私だけが生き永らえているのだろうか。
一緒に死んでいれば良かったと、頭のどこかで囁く声が聞こえる。
死んだ方がいっそ楽だったなと、誰かが私の足を掴んで離さない。
私の本体――手鏡は歩道の上に放り投げられており、不思議と傷一つ無く済んだ。きっとあいつが反射的に手から投げ飛ばしたのだろう。本体の手鏡は物体を透けて通らないから、あんな鉄の塊にぶつかってしまってはひとたまりも無い。それを理解していた筈なのに、どうしてあいつは――。
反対に、手にぶら下げたままだった買い物袋は、無残な姿へと変わり果てていた。その袋の中身も勿論。あれだけ沢山買った果物も、菓子も、全て地面に叩き潰されていた。中の水分が飛び散り、人間の血飛沫のように見えてしまうのだから気持ちが悪い。せっかく子供らに食べさせたかったのに……どうしてこうなったんだ。
「おかぁさん……どうして……。事故だなんて、あんまりだよ……」
あいつの娘が泣いている。
あいつの夫の死に直面した時とも異なり、目の前の現実を受け止めきれていない様子だった。自らの顔を両手で覆い隠し、声も細々としていて今にも途切れてしまいそうだ。これまで歩いていた道が前も後ろも全て崩れ去るような、そんな悔恨の念に駆られている。娘の心は酷く沈んでいて、悲しみが指の隙間から溢れ出ていた。
そんな姿を見ても私は、不思議と感情にぶれが無かった。あの瞬間を思い出し、私も涙を流すのだろうかと思ったが一滴も流れない。
まるで――心の中にぽっかりと穴が空いたみたいだ。それを埋めようとどれだけ綿を詰めたとして、全てに意味を見出せないほどに深くまで続く穴だった。
「ばあちゃんは? いつ帰ってくるの? ねぇ、おかあさん」
「スズもね、早くおばあちゃん帰ってきてほしいな。お菓子なんていらないの」
知ってか知らずか、子供達のそんな言葉が両親の膝を折らせた。
今度こそ、一人になってしまった。
あいつの葬式が執り行われたが、私はその場に立ち会えなかった。誰もこの手鏡を持ってはくれず、ただあの納屋においてけぼりだったのだ。
「なんと、孤独だろうか」
呟いた言葉に重みは無く、空に向かってふわりと霧散していく。
あいつが死んでから、蘭と鈴の両親が暫くの間この家に滞在する事になった。数年振りに両親共々並んでいる光景を見たが、素直に喜べない。
「……蘭、鈴。多分この家には、もう住めない」
「な、なんで! 僕この家から離れたくないよ!」
「スズも嫌だ! だってそれじゃあ、お友達と遊べなくなっちゃう!」
娘の旦那が、うっ血するほどに唇を噛んでいた。ぎゅっと力の入った眉間には皺がいくつも浮かんでいる。本当につらそうな表情で、重く、静かに口を開く。
「ごめん。二人の気持ちは良く分かる。ここで遊んでいる時の二人の顔は、いつも楽しそうだったからね。だから……、不甲斐ない親を許してくれ……。僕らはお義母さんに頼りすぎてしまった。本当に、親失格だよ……」
うっすらと、眼の端に涙を浮かべている旦那。その小さく丸まった背中を、娘は優しく撫でる。
「ごめんね蘭、鈴。お母さんたちと一緒に、新しい場所で一緒にやり直してくれないかしら。子供のあなた方にこんなお願いをするのは間違っているけれど……昌君と杏ちゃんに、ちゃんとお別れを言ってきて欲しいの」
これまでがおかしかったのだと、いつの日かあいつが話していた気がする。本来であれば叔母の元で子供が暮らすというのは稀有な状況だ。ちゃんと腹を痛めて産んだ親の元で成長していくのがあるべき姿なのだろう。
ただ、それだけのことだ。異常だったのが、普通に戻るだけ。なんてことはない。
私はそれを見ているだけだった。あいつに子供らを託された。だが、どうすれば良いのだ。それこそ、実の親でもない私がだなんて、異常にも程がある。
子供達が秘密基地に集まる頻度もかなり減り、一週間に一度集まれば上々。気が付くと七月も終わりを告げようとしていた。
子供らの無邪気な笑顔が見たい。しかし、今の私がそれを見たとして、何も響かないで終わるかもしれないと一抹の不安を覚えた。
「やぁ、お前達。元気か?」
「……あぁ、シオン。ごめん、今日はアキラもアンズも来てないよ」
それでも、何とかしなければいけない。この約束は破りたくないんだ。
どれ程悲しみが胸を貫いていようと、子供らを放って良い理由にはならないのだ。
ニッと口の端を上げてみる。どうだ、ちゃんと笑えているか? 人間と同じように、楽しそうな顔をしているか?
「その……なんだ、蘭よ。もちろん鈴もだが、お前達の気持ちは痛いほど理解できる。でもな、あまり引き摺ってばかりもいられない。そんなんじゃあ、ひご……あいつに、笑われてしまうぞ? なあ二人共――」
思わず口を結んでしまった。
それは、二人の視線が、私に向けられた二人の目が、悲しみに溢れていたから。
「僕、そんな顔してるシオンに言われたくない」
「シオンちゃんがそんな顔をしていると、もっと悲しくなっちゃう」
何を――と、出かかった言葉は飲み込まれた。
恐る恐る、自らの頬に触れる。確かにこれは自分のものだろうかと確かめながら、ぺたりぺたりと触れてみる。
「はは……何を言っているのだお前達」
何とか振り絞って出た声は、まるで自分の物ではないように聞こえた。
蘭と鈴は、瞼を痛く細めて私に向けていた視線を地面へと落とした。落とされたその目は、再び私に向けられる事もなく、二人は納屋を後にしていった。
すれ違いに触れた蘭の手から、鈴の肩から、寂しさや苦しみ、様々な感情が流れ込んできたような気がした。
その後姿をぼうっと眺めて、あんな年端も行かない子供にまで心配されるような顔をしていたのだろうかと思う。
――机の上、ぶっきらぼうに置かれた手鏡を手に取った。相変わらず傷の一つも無い、あいつと出会った時と変わらない、艶やかで目を惹き付ける漆黒の色だ。
背を向けていた手鏡を、くるりとこちらへ向ける。
どんな顔をしているのか見てやろうと思って、正面へ。続けて右へ、左へと手鏡を動かす。
「ははは、なるほど。確かにこれは酷い顔だ」
そこには鬱屈とした表情の自分が映っていた。目の隈は黒く深く、所々赤く充血しているようにも見えた。
ニッと笑顔を作ってみる。引きつったその顔は、誰が見たって痛々しい。
笑えてなんて、これっぽっちも出来ていないじゃないか。
子供達を不安にさせるだけになっている私は、あの子達にとって必要か?
誰も彼もがあいつの死を乗り越えられていない。乗り越えれる筈がないんだ。
鏡とは、真実しか映し出さないもの。現実を突きつけるだけだ。まやかしで時には誤魔化す事もできるかもしれないが、そんなものは空っぽに過ぎない。空になってしまったその穴を、どうやって埋めるのか。それが分からないままでは前に進めない。
あぁ、本当に嫌になる。全くもって全てが嫌になる。
人というモノも、世に蔓延る常識や理屈、何年何十年と発達させてきたのであろう文明とやらも……私が生まれてきたことすらも、あいつと出会ってしまったことすらも、全てが憎く――。
「――っ、違う!」
何をそんな馬鹿な事を考えているのだと、手を払い頭の中から消し去ろうとした。拍子に、握っていた手鏡を投げ飛ばしてしまう。
机の下に飛んでいったそれを目で追いかける。頭に鋭い痛みが走った気がした。不気味なほどに、鏡に傷は付いていない。
情けないと思いつつ手鏡を追いかけ、机の下に身を落とした。掴もうと手を伸ばすと、その手が震えている事に気が付いた。
どんっ!
震えを押さえようと握った手を、そのまま床に叩き付けた。どうしてそんな行動をしようと思ったのか、その感情は自分にも分からない。
このまま消えてしまえば、楽になるのだろうか。
そんな考えを頭に思い浮かべ、身体から力を抜いた。このまま床に倒れ込んで、誰にも見つけられず、いっそ一人で朽ちていこうかと。やけに弱気な思考が頭の中を巡る。
「なるほど、頭の中がぐちゃぐちゃだ。こういうのが、人間らしさ、なのかな。なぁ、教えてくれよ……」
静かに目を閉じ、重力に身を任せる。すると床の下へ落ちていく感覚が身を襲う。
私は向かう先に空間さえあればどこでも透けて通り抜けられる。気を張り詰めていれば物質に触れられるが、こうして意識を手放してしまうと途端に駄目になる。
たかが数秒だが、落ちていく感覚は続く。
五秒か六秒ほどか経って、ぼとり。地面と衝突した。これ以上下には落ちられないみたいだ。
辺りは真っ暗で普通の人間だったら見えないだろうが、そこは岩肌に囲まれた広々とぽっかり穴の空いた空間だった。
あの納屋の下に、こんな場所があっただなんて知らなかったな。この場所こそ、秘密基地みたいじゃないか。あの子達に教えたら喜びそうだ。
でも、今はゆっくり休ませてくれ。頭が痛くなってきた。
少しだけ目を閉じ、静かにしていたいんだ。
ここは音もなく、ひんやりとしている。一人に戻るには丁度良い。
暗く沈んだ場所でただ一人。響く音は一切無い。
普通の人間と、自分という存在の違いを改めて身に染みる。普通の人間は、こうやって地面を透けて落ちる事なんて出来やしない。手を触れずに物を動かす念力なんて使えない。
次いでこんな酷い顔をしていれば……そう、それこそ化け物に違いないのだろう。
……今日は余計な事ばかり考えてしまう。もう、考えるのはやめよう。
そう最後に思って瞼を閉じるが、思い浮かぶはあの子達の姿ばかりだった。
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