第37話 これから先
夏の暑さもまだまだ健在だ。肌を伝う汗一つ一つが気持ち悪い。
あいつが居なくなってからは地下空間へ身を隠すか、納屋の周りに並び立つ木々へ登って、ぼけりと空を眺めているかのどちらかだった。
天気は曇り空だったが、お構いなしに吹く熱風が前髪を揺らす。髪の隙間から見上げた空は、今にも泣き出しそうなほど淀んでいる。
街中にいた時の騒々しさは肌に合わない。それに、どうしても人間を見るとあの日の事を思い出してしまう。そんなつもりがなくても、憎しみが湧き上がって来るのだ。とにかく人と接するのだけは避けたかった。
そう、それは例外なく人間全てを――あの子達も含めてだった。
私は逃げているのだろうか?
大事に思い、紛い物だったとしても自らの心を注いだ結果、ああやってまた失うのが怖いのだろうか?
どれだけ静かな地下空間へ身を潜めても、どれだけ美しい夕空を眺めていようと、そんな考えが常に頭の片隅にある。堂々巡りだと分かっていても、抜け出せない。
あいつとの約束を破ったのだ。孤独に逆戻りして然るべきだ、償いにはうってつけだと、自らを罪悪感で縛り付ける。
――八月に入った頃。正式に蘭と鈴の転居が決まった。もうあと一週間も過ぎれば二人は別の街へ、両親の元へと帰っていく。
そう、決まったのに。子供達の関係が大きく変化することもなく、無為な毎日を過ごしていた。また笑った顔を見せてくれ、そんな事も思えていた気がするが、今ではそんな余裕すらない。
「二人共、来てくれるかなぁ」
「ばか、このまま終わらせるなんて有り得ないだろ。最後は笑った顔で『またね』をしないとダメなんだ」
納屋の中、神妙な顔付きで蘭と鈴の二人は顔を付き合せている。珍しく緊張している様子や会話の内容を鑑みて、ある程度の察しは付いた。
この街で四人が集まれるのは恐らく今日が最後。残された時間はあと僅か……別れの挨拶をしたいのだろう。
笑った顔で『またね』を――か。なんともあいつが教えそうな事だ。
さよならを告げてしまえば、もう会う事は無いと言っているようなものだ。そうではなく、またいつか会おうと、再会の約束をするのだ。
またいつか会う日まで、互いを忘れず、健やかに生きていくための言葉。
そんな場面に私が立ち会って良いものかどうか分からず、しかし子供達を最後まで見届けたいという気持ちもまだ残っており、こうして納屋周りの樹によじ登って聞き耳を立てているのだ。
最近、周囲の人間の感情に敏感になった気がする。怒っている、悲しんでいる、喜んでいる、疑っている、楽しんでいる。私との距離が近くなったり、私がその者の感情を知ろうと意識を強く向けると、その一瞬だけ私にもその感情が伝播するのだ。
ただその受け取った感情を、私が正しく理解できているのかどうか。私が見えているものと、人間が表すものには差異が大きすぎてわからない。それもあってか、段々と人間に対する恨みが晴れず、疑心感を持ってしまうのだ。
笑っているけど、悲しんでいる。
会いたいと願っているのに、心は怯えている。
人間の心は複雑だ。多くの者が二面性を持っていて、上っ面の部分だけを見ても深層まで理解する事は叶わない。
だからこそ分からなくなってきた。信じられなくなってきたのだ。
またいつもの堂々巡りが始まってきたと、そう思っている内に遠くから砂利を踏む足音が二つ聞こえてきた。
「……そろそろだね」
「……うん」
杏は胸の前で手を祈るように組みながら、不安そうな面持ちで昌の様子を
二人は真っ直ぐに納屋へと向かい、古く軋んだ扉を開く。私もその動きに合わせて会話を盗み聞きしようと考え、登っていた木々から納屋の屋根上へと場所を移した。
「なんだか、皆揃って集まるのは久し振りだな!」
「そうね! 集まれてよかった!」
蘭と鈴が声を明るく振り絞るも、空元気だというのが声だけ聞いても分かった。そうだね、と杏は返事するも、昌は静かに黙ったままだ。
その静寂を切り裂くように、ごくりと唾を飲んでから蘭が口を開いた。
「僕達、明日でお別れだね」
あくまでも気丈に振る舞う蘭に、鈴も後に続いて言葉を紡ぐ。
「でも、また戻ってくるから、その時はまた遊ぼうね」
きっと二人で沢山考えたのであろう別れの言葉。
またいつか会うため、再会する為の言葉。
声は明るいものだったが、伝わってくる感情はひどく怯えていた。正しく二人に届いているだろうか、またいつか再会する事ができるだろうか。四人全員が、そうやって同じ気持ちでいるのだろうかと、恐れにも近い気持ちでいた。
杏は今にも泣き出しそうだった。別れることへの悲しみだけではない、後悔や自責の念、様々な気持ちが入り混じっている。
対する昌から流れてくるのも、杏と似たようなものだった。ただ違ったのは、そこに怒りの気持ちが加わっていたことだけ。
「――嘘だ」
溜め込んだ気持ちはもう、一度流れてしまえば止め処なく溢れる。
「――そんな嘘、もう聞きたくない」
辺りの空気が急に冷ややかになる。肌がひり付き、息が苦しくなる。
「え、アキラ、何を言って……」
「今日が最後なのよ、ほら、アキラ君も笑って――」
そっと手繰り寄せるように、鈴の細い腕が昌の手を引こうと伸びる。
「――……てくれ」
が、その手を拒絶するようにして昌は怒号を上げる。
「――止めてくれ! 本当は僕の事恨んでいるんだろ? 僕のせいでおばさんが死んだんだ! 僕の顔なんて、見たくもない筈だ!」
「そんな事ない!」
あの日おねだりなんかしなければ、駆けっこに夢中で体調を崩さなければ、あの場に一緒に居てくれれば……。そんないくら願っても戻る事は絶対にないもしもの世界ばかりを考えているのが、火傷しそうなほどの熱を持って私にも伝わってきた。
間髪入れずに蘭が叫んだが、昌は聞く耳持たずで言葉を吐き出す。
「違わない! 事故のあったあの日から、僕らはもう友達じゃなくなったんだ……引っ越すなら早く行っちゃえよ! その方が、お互いの為にもなるだろ!」
誰一人として、言葉を発する事はできず――。
終始笑顔でいようと腹を括っていた蘭と鈴でさえ、その表情には深い哀しみが浮き出ていた。
過呼吸に近いくらい息を荒くして、昌は下を向いている。
パキリ。
何処からかヒビの入る音がした。
軋んだ音と共にその亀裂は段々広がり、やがて元の形も保てず後は崩れるのを待つだけ――。
「――っ!」
昌は結局、言葉を吐き出してから一度も顔を上げずにその場から逃げ出した。
あれだけ恐る恐る納屋に入っていたが、今度は突き破る勢いで扉を開け放つ。
もう、戻らないかもしれない。それでも……それでもこの四人にだけは、いつまでも変わらず純粋な心の持ち主でいて欲しい。そうあって欲しいと、心から願う。
――だから私は、皆と言葉を交わすのを今日で終わりにしようと思ったのだ。
「――どいてシオン。僕はこの場所にいちゃダメなんだ」
屋根上から立ち並ぶ樹を伝い、森の中を駆ける昌の前へ回り込んでふわりと地面へと舞い降り、その道へ立ち塞がる。
「そんな事を言わないでおくれよ、昌」
「……どこかで聞いていたのかもしれないけど、分かるだろ。もう駄目なんだ、僕はもう、皆の前から居なくならなくちゃいけないんだ。だから……どいて!」
今にも嗚咽しそうなくらい顔色が悪い。込み上げて来る感情が、言葉が、自らの心を燃やし身体を蝕んでいるのだろう。
「まだこんなに幼いのに、どうしてそれ程に抱え込んでしまったのだ」
「……馬鹿にしてるのかよ」
「違う、まだ早いんだ。世の中の善悪は分かっていても、人間としての善悪が分からない内にはまだな」
一般論で善悪を語るのは簡単だろう。でも、時としていつでも善が正しい訳じゃないんだ。悪が世を救う事だってある。
自分一人の杓子定規でしか考えられない内は、もっと大人を頼って良いんだ。お前のような年頃なら尚の事。
はは……何を勝手知ったる口調で説教を垂れているのやら……。思わず自嘲交じりの笑みを零してしまい、昌の眉間へ更に皺が寄ってしまう。
「……時が経って、お前が不条理も何もかも受け止められるようになった時。またお前がこの場所に戻ってこられるように、おまじないだ」
すっと昌の傍に近づき、その力の入った額を指先で小突く。
「……何をしたの」
「……何でもない、ただのおまじないさ」
真っ直ぐに昌を見据えていた両の目を、ゆっくり地面へと落とした。
「おまじないが叶う頃にはきっと、四人はまた笑えている筈だよ――」
困惑した表情で額を押さえたまま昌は何か言いたげな様子だったが、後から追いかけてきた蘭達の足音を聞き、再び足を前へ動かす。
地面へ落とした視界から走り去っていく昌の足元だけを見届けた後に、ゆっくりとその瞼を閉じた。
――おまじない。それはこの夏の思い出へ蓋をするもの。昌が歳を取って、物事を受け止められるようになるに近づいて、その蓋は徐々に外れるようになっている。それは夢の中で見るのか、はたまた森を見た時、夏の日差しを感じた時、誰かの無垢な笑い声を耳にした時なのか――、いつ不意に脳裏へ浮かぶのかは分からない。
まだ幼いのだから、そこまで背負う事は無い。そんな荷物はさっさと降ろして誰かに委ねてしまえ。きっといつか、許せる時がくる筈だから。
おまじないには、離れ離れになっても再びこの地に皆が集まれるようにと、そんな願いを込めた。
――そして、邪魔者である私の事を忘れ去るようにと、記憶の中の私が徐々に姿を消していきますようにと、そんな願いも込められたおまじないだ。
あいつと最期に触れ合ってから他人の感情が流れてくるようになっていた。直接触れた相手には、その感情の源――記憶にも少しだけ関与できるようになっていた。
楽しかった思い出を浮かび上がらせる、悲しい記憶を植えつける、嫌な事だけ切り取ったように忘れさせる。
やったことは無いし、只の気のせいかもしれない。でも、不思議と出来るような気がしていて、だからおまじないという言葉を使って昌の額に触れた。
もし実現できていたとすれば、ますます化け物と言われても仕方がないな。
私が居なかったら、もっと良い未来が訪れていたかもしれない。
あいつだって……まだ生きていたかもしれない。
だから、またいつか子供達が出会う時には、私のことなんか忘れてしまって普通の人間らしい人生を歩むんだ。人と化け物、やはり交わってはいけないんだよ。
その為の鍵を握るのは昌、お前なんだと思う。
本当は最後まで見届けたかった。でも、昌が、皆が、自らを許して再び交われるようになるためには、私は居ちゃいけないんだ。
約束を守れなくてごめん。本当にごめん。
でも、こうする他なかったんだ。
「……っ! シオン……どうしたの? あ、アキラはどっちに――」
「あぁ、蘭か。少し、近くへ――」
昌の後を追って飛び出してきた蘭にも同じく、おまじないをかける。
私の事を忘れ、普通の人生を送ることができますように。
「……ん? え、なに、一体なにが……」
「引き止めてすまんな。早く追いかけるといい」
追い払うように手を振って、その足を再び前へ向かわせる。
きっと昌が再び立ち上がった時、支えになるのは蘭、お前の筈だ。だから少しでも近くにお前が行ってやるんだ。
「ラン! あっ……シオンちゃんも、いたのね」
「あぁ、鈴。お前もこっちへ」
蘭の後を追って鈴も飛び出してきた。同じようにおまじないを掛ける。
この先もずっと、変わらぬ笑顔と明るさで、みんなを元気にさせるんだぞ。暗い顔をしているお前ら兄妹など見たくないからな。
同じく鈴も困惑した表情を浮かべたが、直ぐにその先へと視線を戻して昌の後を追うために走り出した。
「……杏」
あと一人、まだおまじないを掛けていない子が居る。
未だ納屋の中から出てきていなかったから、こちらから向かっていく。
開け放しになっている扉をくぐり、その中に一人呆然と立ち尽くしている背中に声を掛けた。しかし返事は無く、様子がおかしいと思い正面へ立つ。
杏の視線は右往左往としており、狼狽している様子が感情を読み取らずとも簡単に理解できた。じわじわと脂汗のようなどろりとした汗をかいていて、上着の裾をぎゅっと握り締めている。
「――大丈夫か、杏」
何度か問い掛けてからやっと口を開いてくれたが、それはとても弱々しく、今にも消え入ってしまいそうなものだった。
「……私、動けなかったの」
「……蘭と鈴のように、ということか?」
「……そう、何も動けなかったの。気持ちが追いついていなくて、アキラ君があんなこと思っていたのも気が付かなくて、ラン君もスズちゃんも、あんなに悲しそうな顔を見るのも初めてで……。何も分かっていなかった自分がひどく馬鹿みたいで、皆それぞれ、これまでの事を考えて生きていたのに、私だけ……私だけが……!」
杏の頬を伝う透明な線が、床板を濡らしていく。
それを拭ってやろうと手を伸ばしたが、何度拭ってもその肌が乾く事はなかった。そして段々と、感情を抑える事もままならなくなっていた。
「大丈夫、私は知っているよ。お前が四人の中で誰よりも優しい子だって事を。きっとお前なら立ち上がれる。私が保証するんだから、ほら、顔を上げて」
両脇に手を差し入れて、無理矢理にでも立たせた。
「他人の痛みをそれだけ感じ取って、悔やむ事ができる。悲しむ事ができる。それは誰もが出来る事じゃないんだ。だから、まだ間に合うぞ、杏」
同じく頭を撫でる。ほかの三人と同様におまじないも掛けた。
「追いつけるのかな」
「大丈夫」
不安そうなその子の背中を押し出した。
その勢いのまま走り去っていく杏を見送り、やがて茂みの中に消えていった。
心の荷が落ちきってしまったのか。それとも、彼らともう会えないという現実を、その消失感を、まだ実感しきれていないだけなのだろうか。
何故か、やけに清々とした気持ちになっていた。
もう私があの子達と交わることは無い。あの子達は普通の人間として、健やかに大きくなっていくんだ。
「だから、さようなら――」
化け物と人間は相容れない。相容れない存在なんだ。
――だから、私の頬を伝うそれにも、暫くの間気が付けないままだったんだ。
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