いつかの遠い物語
第26話 あなたに名前を
――ふと、気が付くと。
――いつの間にか。
それ以上に表現できない程、突然の出来事だった。
陽光に差されて眼を細めた。鼻先をくすぐる畳の香りに、草いきれが頬を舐める。
そこに座しているのが当たり前だと言わんばかりに、私は縁側に腰を下ろしていた。古めかしい瓦屋根に、ゆったりとした居間。膝下からは日光にさらされており、そのまま爪先まで目線だけ追っていくと隅々まで手入れの行き届いた庭が広がっている。
手元には、濃い漆塗りで精微な花の装飾が施されている手鏡があった。
「おや」
すぐ傍から声が聞こえる。
――聞こえて初めて、横に誰かが座っている事に気が付いた。ふと見れば、一方的ではあるが慣れ親しんだ顔……確か二十代中盤だった筈だ。はっきりとした顔のパーツに、しゃんと伸びた背中。後ろで束ねられた艶やかな黒髪は風にそよいで小さく揺れている。そして、こんなに短い言葉を聞いただけでも分かってしまうその力強さ。
反射で見上げたその顔をじぃっと見つめる私。それを不思議そうに見つめ返すこいつも、流石に驚いたのか目を大きく見開いている。しかしそれも最初だけで、突然なにかに思い当たったようでニヤリと口元を緩めてこう言った。
「突然現れてだんまりか。お前、名はなんと言うんだい?」
「……人に名を尋ねるのなら、先に名乗るのが礼儀じゃないのか」
つい反抗的に返してしまう。というのも、自分自身で何がどうなっているのか全く分からないこの状況。何も考えず、浮かんだ言葉に身を任せようと思った結果がこの返事だった。
するとこいつは「ははは! それもそうだ!」そうやって豪快に笑い飛ばしては目頭を押さえる。何がそんなに可笑しかったのか息切れを起こすほど笑い続け、収まるのを待つ事数分。ほんのりと滲ませた涙を拭いながら、こいつは口を開いた。
「初めまして、
名前、名前か……?
そんな事を聞かれても、何も思い浮かんでは来ない。
「私の、名前か。そうだな、好きに呼んでくれて構わないぞ」
「……まさか、名前が無いのかい? なんて、冗談さ!」
誤魔化したつもりだったが簡単に見破られてしまい、図星を突かれる形に。
ならば次はどう誤魔化してやろうか、いや、そもそも誤魔化す必要なんてあるのだろうか? 思考と言葉が結びつかずに言い淀んでいると、頭の上に優しく手の平が被さった。
「冗談じゃないって言うなら、私が付けても良いかい? 手鏡のお嬢さん?」
「……なぜ分かる」
自覚だけはあったのだ。私はこの手鏡に宿った
私という存在を、きっと一目見た瞬間には勘付いていたのかもしれない。
もしくは、最初に私が放った台詞。お前が先に名乗れというやつは、こいつ――浜野緋衣が良く使っていた言葉だ。それを真似したと見破られていたから、あんなに笑っていたのかもしれない。
「なぜって、私が何年この手鏡と過ごしたと思っているんだ。急に手鏡を抱えるようにして現れたのは驚いたが、漂う雰囲気なんかですぐにピンときたよ」
親が子に向けるような笑顔で、頭の上に乗った手が私の髪をなぞる。なぜか心が落ち着いていくのを不思議に思いながら、「そうか」とだけ短く返した。
「それで名前、どうする?」
「……好きにすれば良い」
「任せなさい。実は私、この手鏡に愛着ってもんが沸き過ぎてしまってね、密かに名前を付けていたんだ。それをお前が引き継いではくれないだろうか?」
「あぁ、確かにお前、私に向かって名前のような単語を呟いている時が稀にあったな。いいぞ、改めて聞かせろ」
聞こえていたのか、と言って恥ずかしそうに頭を掻く緋衣。当たり前だろう、私という存在、概念はもう何百年も前から鏡に宿っているのだ。こうして話すのは初めてだが、お前の声だけはずっと届いていたよ。
「そういう事なら、勿体ぶらずに話そうか――」
真っすぐに私との視線を結び合わせて、緋衣ははっきりとした通りの良い声でこう言った。
「――
紫苑。そうだ、そんな名前だ。
「あぁ、いい名前だ。ありがたく頂戴するよ」
名が付いた。
こうやって緋衣と話す事ができた。
それを自覚すると共に、自分でも良く分からない感情が溢れ出す。同時に、顔を綻ばせてしまうのは何故だろうか。
初めて体験した感情というやつは、まだ理解できそうにない。しかし、きっとこれは悪いものじゃないなと、緋衣の顔を見て思った。
ある夏の、とある一日。
私が四人の子供達と出会うまで、数十年昔の出来事だった。
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