鏡の先に君をみた。

たんく

第一章

第01話 再会 (昌と蘭)

 携帯のアラームが鳴り響く。煩わしいその音楽が、寝起きでまだ朦朧としている脳みそを容赦なく叩いてくる。

 少し、嫌な夢を見た。砂利道を逃げるように走り続けたあの頃の夢である。そんな思い出したくなかった記憶にばったりと遭遇したからか、今朝は一際気だるさを感じていた。このまま布団を被り直して目を閉じてしまえば、別の夢を見ることはできないだろうか。まどろみの中へ逃げ出したい気分になる。

 そうやって無意味に寝返りを打っていると、何処からともなく玄関扉の開かれる音が聞こえた。

 きっと横部屋のサラリーマンだろう。毎朝決まった時間に出勤する生真面目な人だったから、その音を聞けば大体の時間が分かる。七時十分、いつもと同じ時間だ。

 開け放たれた扉が、重力にしたがってぶっきらぼうに閉じられるのを聞き届けてから、ぼちぼちと準備を始めていくのが日課となっていた。


 朝食を簡単に済ませ、制服のシャツに袖を通す。携帯に保存してある時間割を確認し、教科書類をリュックサックへ詰め込んだらあとは学校へ向かうだけ。

 ゆるゆると歩いて行くのが好きだから、まだ時間は早いが出てしまう事にした。ガチャリと玄関扉を開け、少し錆びてきた家の鍵を差し込む。その途端、部屋の中で溜め込んだ気だるさや眠気を吹き飛ばすような、柔らかな涼風が頬を吹き抜けた。

 玄関横に張られている羽衣はねいと書かれた表札のプレートを横目に、数学路へと足を進める。高校生であれば学生寮などに入るのが一般的かと思うが、両親から特別な許可を貰って一人暮らしをさせてもらっていた。

 校則で禁止されているが、シャツの裾を出してしまいたくなるような六月下旬。せめてもの抵抗にと首元のネクタイを緩めた。

 陽射しが段々と強くなってくる季節ではあるが、これくらいの風が吹き続ければ快適なのに……。そんな事を思いながら通学路を歩き始めていった。

 景観の中には緑が多く、蝉の鳴き声や視界の端で揺れる木漏れ日が夏はまだこれからだと訴え掛けているように見えて仕方がない。


 この景色を見るのも、もう三度目になる。意外にも彩り豊かな通学路は、四季折々どの季節を見ても飽きることはなかった。しかし、それも今年で最後になる。目を閉じたって歩けてしまう程に慣れ親しんだ道だったが、高校生活は今年でお終い。来年の今頃はどうなっているのだろうか。

 その頃はきっと――この道はもう歩いていないんだろうな。

 むせ返る程の熱気が纏わり付き、いくら汗を拭っても次から次へと湧き出してくる。過ごしにくさは抜群だ。青空に映える緑の景色は好きだったが、唯一嫌いな季節である。しかし、子供の頃はそんなことお構いなしに、毎日飽きもせず服を砂塗れにしては無邪気に遊んでいたものだ。

 そういう過去はよく「昔は良かった」と言い換えられる。しかしそんな言葉は、現実を見ることができない人間の現実逃避にしか聞こえず好きじゃない。

 人は変わっていくもので、どうしたって昔のままじゃいられない。

 だから、昔の事なんて忘れてしまい前を向きたいのだ。それなのに、今朝見た夢の内容が脳裏にこびり付いてしまって、それを許してくれない。

 夢というものは、目を覚ましてしまえば消え失せるような儚いものではなかったのだろうか。

 まるで誰かに見せられているような、忘れてはいけないと言われているような気がしてやけに気分が悪い。頭が重くなり、自然と足元へ視線が落ちていく。

 すると、背中から一つの人影が近寄って来ることに気が付いた。


「朝から憂鬱そうな顔……こっちまで暗くなっちゃいそうだよ羽衣」


 視界の端から、俺の名前を呼ぶ声。


「なんだ、文句言う為に声掛けてきたのか萩原はぎわら


 違うよ、と言ってこちらに近付いて来る女の子は、かれこれ十年以上の付き合いになる。

 栗色に染まった髪が風に揺れるのも、横に並んだ時の身長差も、昔と違って女の子らしさを意識させるようになった。人はどうしてこれ程に変われるものなのかと、改めて思う。


「転校生、今日だったよね。羽衣は何はどうなのかなと思ってさ」

「あぁ、噂の。これと言って何も思ってないよ……こんな中途半端な時期に珍しいけれど、騒ぎ立てる話じゃない」

らんすずかもしれないのに?」

「……それでもだ」


 噂というのは『この街の生まれで、小学校までこちらの学校に通っていた』や『年子の兄妹』であるなど様々で、『美男美女の兄妹』だという眉唾なものまで一人歩きする次第であった。

 蘭と鈴というのは、俺や荻原が小学生の頃仲良くしていた友人で、上の名前を浜野はまのと呼ぶ。兄が四月、妹が翌年の三月生まれで年子である。

 いつも四人で集まって、浜野家の裏にある納屋で遊んでいた時代があった。喧嘩はよくしたが、日を跨ぐと自然に仲直りしていて笑いの耐えない毎日だったと思う。

 俺が今朝見た夢というのはこの頃のもので、八歳前後の小学校低学年くらいの時だったか。

 なぜ、その頃の夢を嫌なものだと思うのか。

 それは単純に、喧嘩別れが原因だった。

 喧嘩は日常茶飯事だと言ったが、この件に関してだけは少し毛色が異なる。




 当時の浜野兄妹は両親の元で暮らさず、祖母の元で暮らしていた。

 浜野兄妹の両親は世間一般でいう転勤族というもので、一年から二年に一度の感覚で引越しを繰り返していた。蘭と鈴の二人が産まれてから暫くの間は、なんとか融通を利かせて辞令を免れていたようだったが、小学生になって間もない頃、誤魔化しが効かなくなった。

 引越し――転校をしなければならないとなった時には、もちろん浜野兄妹は嫌だと反発した。理由は俺達がいたから。親友といっても過言ではなかった俺達と別れるのを惜しんで、毎晩両親に泣き付いたらしい。仕方がなく両親は、子供の意見を尊重し祖母の家で預かって貰うことに決めたのだった。

 祖母は優しくも厳しい人で、遊びに行く度に良くしてくれていた。

 家の裏手にあった納屋を遊び場に使わせて貰えた時、当時は「秘密基地みたいだ」と、飛んで喜んだのを覚えている。

 浜野達の両親も定期的に会いに戻って来ており、何不自由なく過ごしていたようだった。


 しかし、そんな日々がいつまでも続くことはなく。

 小学校に入学してから数年経ち、善悪の区別も段々とついてきた小学三年生の頃。梅雨の時期に差し掛かった六月、浜野の祖母が交通事故で亡くなった。

 加害者の前方不注意で、横断歩道を歩いていた祖母は何メートルも跳ね飛ばされた。即死だった。


 俺が何の気無しに言った「桃が食べたい」という一言の為に出掛け、その帰り道の事故である。

 あまりに帰って来るのが遅かったことと、遠くから聞こえるサイレンの音を不審に思い、四人全員で祖母を迎えに行ったのが良くなかった。

 グチャグチャになって散らばった果物と、ブルーシートのかかった何か。

 まだ幼い俺達が見る光景としてはあまりに残酷なもので、現実を受け入れるまでにたくさんの時間を要した。俺は今でも桃が食べられないままだ。

 また、浜野の祖母が亡くなってから一ヶ月程の間、両親は諸々の手続きの為二人の元へ戻ってきていた。その間僕達はいつもみたいに集まってみるものの、会話は少なく、服も汚さない内に解散する毎日。その中で、時たま見せる蘭と鈴の沈鬱とした表情――。僕達に気を遣ってくれているのを痛いほど感じ取っていた。

 どうして、こうなってしまったのだろうか。

 俺の安易な発言が無ければ、こんな事にはならなかったのだろうか?

 考えたって仕方の無いことばかりが、自責の念となって頭の中を駆け巡る。


 皆、俺のことを恨んでいるんじゃないのか、と。


 そして順当に手続きが進んでいき、浜野兄妹が両親の元へ引越す事が決まった。

 誰から見たってそれは必然で、その現実を受け入れるしかなかったのだ。

 あの時、蘭は「一週間後、引っ越すことになったよ」と、俺と萩原に伝えてくれた。でも、どうすることも出来なかった。

――そして、俺が嫌なものと言った原因となる日を迎える。

 別れの前日、いつものように納屋に集まっていた俺達。


「僕達、明日でお別れだね」


 気丈に振る舞う蘭の顔も、今では朧げだ。


「でも、また戻ってくるから、その時はまた遊ぼうね」


 妹の鈴が、予め用意されていたかのような台詞を吐いたのを覚えている。


 萩原は今にも泣き出してしまいそうだった。

 別れを惜しむ最後の機会だというのに、本当はそんなこと思ってもいないんだろうと、俺の頭の中は二人への猜疑心で埋め尽くされていた。

 だから、思わず声に出てしまった。


「――止めてくれ! 皆は僕のことを恨んでいるんだろう!? 僕のせいでおばさんが死んだんだ……。僕の顔なんて、本当は見たくもないはずだ!」

「そんなことない!」


 間髪入れずに蘭が叫んだ。

 それなのに俺は、耳を傾けようともせずに言葉を吐き続けた。


「違わない! 事故のあったあの日から、僕らはもう友達じゃなくなったんだ……。引越すなら早く行けよ! その方が、お互い清々するだろ!」


 それまでに溜め込んでいた全部、心の内にあったモノを一方的に吐き出した俺は、途端にその場所が怖くなって逃げ出した。後ろを振り返る事もせず、只々真っ直ぐに走った。

 そうやって逃げ出したまま、別れの言葉も無く俺達の友情は崩れ去ってしまう。




 そんな出来事を夢の中とはいえ追体験したのだ。嫌な夢と言っても間違いないはずだ。間違いなく悪夢と言ってもいい。

 何が正解だったのかは今となっても分からないまま、記憶に痛く刻みついている。

 そうやって物思いに耽っていると、横に並んで歩いていた萩原から小突くような軽い蹴りが飛んできた。


「やっぱり、まだ引きずっていたんでしょう?」


 どうやら顔に出ていたらしい。

 返す言葉を見つけられず、誤魔化しの効く言葉はないものか考えていると「あんずーおはよー!」と、萩原を呼ぶ声が聞こえた。気が付くともう学校のすぐ近くまで来ており、他の生徒の姿もちらほらと目に入ってくる。


「昔はもっと素直だったのに、羽衣も変わったね。それじゃあ」


 そう言い残し、友人であろう女の子の所へ小走りで駆けて行く萩原。

 昔は俺達も、ああやって下の名前で呼び合っていたんだけれど……いつの間にか萩原と呼んで、羽衣と呼ばれる関係になっていた。こうして会話をしたのも、いつ振りだったのか曖昧である。最近は廊下ですれ違っても簡単な挨拶で終わってしまっていた。

 変わったね――。それはお互い様だよ、きっと。




※※※




 学校に着き、三階にある自分の教室へと向かう。クラスメイトと談笑していると、ホームルームの時間はあっという間に訪れた。転校生がどのクラスに入るのかまだ知らされていない。このクラスか、それとも隣の、はたまた一番離れた所か。

 今か今かと待ち望んでいると、ガラリという扉の音と共に担任教師が教室へと入ってきた。

 浮き足立つ教室内の雰囲気に、どうやら察しがついたようでため息混じりに名簿を開く担任。


「はぁ……お前達のお望み通り、先に言っておこうか。隣のクラスと、三つ隣のクラスにそれぞれだ。噂である程度知っているかと思うが、まあ、仲良くやってくれ」


 敢えてかどうかは知らないが、名前は伏せられた。結局、胸のモヤモヤは晴れないままである。しかし、それと同時にクラスが離れたことへ一安心している自分もいた。仮に浜野兄妹だったとしても、どういう顔をして再会すれば良いのかわからなかったからだ。

 それ以降は目立った連絡事項も無く、普段通りにホームルームも終わった。そして休憩時間を知らせる鐘の音が鳴るや否や、転校生の顔を見に席を空けたクラスメイトが約半分。俗な連中だ。

 しかし、そういう連中のお陰で風の噂というものが生まれるのだ。後で聞き耳を立てておくことにして……もし仮に、浜野兄妹だった場合を考えておこう。多分今頃は質問攻めに遭っていて忙しないだろうから昼休み……いや、放課後にでも声を掛けた方が良いだろう。第一声は「久しぶり、俺の事覚えてる?」だろうか。いや、そもそも再会する必要があるのか?

 謝りたい? 

 許して欲しい?

 今となってはどんな言葉も薄っぺらい物にしかならない。今更戻ってきたって、俺達はもう友達になんか戻れないんだ。それを俺が許せない。


 そんな事を考えている内に、廊下が騒がしくなっていることに気が付いた。

 クラスの連中が戻ってきたのだろうか、案外早いお帰りだな。と、逸る気持ちを抑えつつ眼を向けてみた。すると、開いた扉の向こうにどこか懐かしさを感じさせる男が居た。


「あーきーらーくーん、何処のクラスだー? あき……あ、見つけたぞお前!」

「え……蘭?」


 視線が合ったその瞬間、バッと走り寄って来るは噂の男、浜野蘭はまのらんその人だった。


「おいおい久し振りだなあきら! ごめんな連絡も寄越さないで。俺の事覚えてた? いやそれにしたって、こうやって再会できるだなんて嬉しいな!」


 良かった良かったと言いながら、俺の肩をバシバシと叩き付けてくる。


「お、おい! 痛いって、ストップだ!」

「え、あ、ゴメンゴメン。ちょっとテンション上がっちまってな……許せ!」

「いや、まあ、良いんだ。気にする程じゃない。俺こそごめん……心の準備ができてなくて付いていけない」

「心の準備ってことは、やっぱり俺達が戻ってくることは皆知ってたんだな。噂を流しておいて正解だったわ。お陰ですんなりクラスに馴染めそうだ」

「噂を流しておいたって、お前が流したのか?」


 そう尋ねると、満面の笑みで「もちろんさ」と返された。

 昔もそうだったのだがこの男、意外と小賢しい。それに、挨拶がてら人の肩を叩く癖も変わっていない。見た目も万人受けする整った顔立ちで、爽やかな印象を与える短髪も相変わらず。背が高いのも昔と同じ。強いて言えば、少し体格が良くなったくらいだろうか。全体的に線が太くなっていて、尚更大きく見える。


「昌、久し振りに会えたんだ! 妹の鈴も一緒に来てる、積もる話でもしにいこうじゃねーか!」

「待て待て、こんな休憩時間の間で何が話せるっていうんだ。一旦落ち着け」

「ん? あ、それもそうか。少し焦り過ぎたな。時間は沢山あるんだ、ゆっくりいかなきゃな。わかった、それじゃまた後で来る!」


 どこか自分に向けた口振りで、言うだけ言ってさっさと教室から出て行こうとする浜野。いや、それだけ言い残されても困る。猪突猛進なのも変わっていないのだろうか。


「浜野! ちょっと待て!」

「……ん? どうした、昌?」

「次来るの昼休みにしてくれ。それで、皆で昼飯食べよう」

「おぉ! 任せろ!」


 ありきたりな言葉だが「まるで台風」の表現がピッタリだった。あれだけ悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらいに、浜野はいつも通りだった。

 そういえば、出任せに皆でと言ってしまった気がする。

 ただでさえ萩原とは、さっきの会話が久し振りだったというのに……。なぜ自分から面倒な状況へと進めてしまうのだろうか。

 そう考えると、後悔の念がどっと溢れてくる。きっとギクシャクするに違いない。数年のブランクは大きいはずだ。


 だがそれでも、もしも昔のように話すことができたら――。そんな、淡い夢を抱いてしまうのは間違っているだろうか。

 何年振りに顔を合わせるのか数えていると、期待と緊張で息が詰まりそうになる。


「お前は、変わらないな」


 過ぎ去って行く蘭の後姿に零した言葉は、誰の耳にも届きはしなかった。

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