第2章 香奈なんか死んじゃいな

2 香奈なんか死んじゃいな


 桃代は鉄棒にとびつきエビのようにからだをまげてしりあがりの練習をしている。

「わたしたち二人も子供がいるのね」

 香奈はといえば、砂をすくいあげ……山を築きあげようと夢中になっている。

「桃代と香奈はどうして同じことをして遊ばないのかしら……。いますこし仲良くしてくれるといいのに……あなたからもきつくいって……二人がうまくいかないのみているのつらいの」

 忙しいからとはいえ、家族でこうしたひとときを過ごすことのあまりにすくなかったことを反省する。ぼくは寡黙の底へ沈みこむ。

 妻はまだなにか話しかけている。

 乾いた風が広い校庭をなんどか吹きぬけていき、あとには砂ほこりが中空に漂う。彼方の遊園地からは音楽が流れてくる。

 やっとありついた砂場での輝かしい時間の中で、香奈は容易に砂遊びを中止しようとはしない。

「パパオヤマヨ。オヤマツクッテイルノヨ……」

 よろこびにあふれた、熱っぽい眼でぼくをみる。この子が、遊びにこれほど熱中するのをぼくはみたことがない。そして、この下からみあげてあまえている幼児の眼をどこか遠いところでみたことがある……。

 それがいつ、誰であったか、思いだせない。砂は、晴天つづきのため、過度の陽光にあふせられて乾いている。うまく山にならず……さらさらとくずれしまう。

「二人とも楽しそうね」

 と……いって妻は立ちあがる。自分でもけっこう楽しそうだ。

 いつのまにか桃代がきて香奈の作業をたすけている。

「カナチャン、ヒトリデモデキルヨ!!」

 きかん気の香奈が叫んでいる。

 すくった砂を桃代の顔にまともに浴びせる。

 痛み。おどろき。悲鳴。

 ぼんやりと子供たちの動きを眺めていたぼくは、現実にひきもどされる。

 一瞬……妻がかけよるほうが速かった。

「あなた。ねえ……あなたどうしたらいいの」

 おろおろしているのに声だけは甘くひびく。

 三人の女たちの顔は蒼白。とくに香奈は、ヒドイことをやってしまったとわかったのか……べそをかいた顔で……遠く離れて……こちらをみている。

 怒ることもできない。

 顔についた砂はすぐ拭いおとすことができた。

 しかし目は――。マブタをひっくりかえし、傷つけないように注意して……しゃぶってぬらしたハンカチでふいてやる。涙をながして、泣く桃代。

 唾液が口のなかにたまらなくなり、喉がひりひりする。妻に唾でハンカチのしぼって細くした先をぬらすようにいう。子供のように頭を横にふり、大きく見開いたままの眼。おどろいてしまって口のなかは、からからに乾いてしまっているのだろう。桃代は涙をながしたので、布の尖った先に、砂粒がついてくる。布についた砂を汚れた指でとりのぞくわけにはいかない。唇と舌でなめてとりのぞく。口のなかがじゃりじゃりする。

「ねえ、あなた。だいじょうぶ」

 妻がしつっこく訊く。これが、現実の出来ごとでなければよいのに。網膜が砂で傷つき、失明してしまったらどうしょう。極端に不幸なことをおもう。今朝からなんどかつきあげてくる悲劇的な感情、胸騒ぎのようなものがあった。だから、こうして初めサイクリングに妻と子供たちを誘ったのだ。寸暇を惜しむほどビニール芯縄の作業で忙しいのに、それに――、病気で寝ている母を残して家を出てきたのではなかったのか。このとき、ふいに蘇えった。いまこの桃代をだきしめて、ツバキでぬらしたハンカチで砂粒をとっているのは、これはぼくではない。……三十年も前の父の姿だ。時間が融けてしまった。液状化した時間が円く渦をまいている。ループ現象だ。いままでも、なんども経験している。呑みこまれる。ぼくはむかしの父になってる。父の思いでが、今朝からうずいていたのだ。ぼくは桃代になっていた。いまこの瞳でみあげているのは〈父〉そのものだ。顔をおしつけているこの胸は父のものだ。口汚くののしり喚くかわりに、父はぼくのマブタをうらがえすと、砂粒を除いてくれた。

 あとは泣けばいい。泣けば涙といっしょにながれでる。

「あなたがいてくれてよかったわ……。わたしだけだったら……おもっただけでも、ゾツトするわ」

「なんとかなったさ」

「だってマブタをうらがえすことできない」

「やってみるさ……ほら……」

 ぼくは中腰になって、顔をつきだす。

 そっと妻の指がマブタに触れて「やっぱりできないわ」とくりかえす。

「痛むのはぼくのマブタだ。おもいきつて、うらがえしてみたら、どうなのだ」

 すこしイライラする。マブタに、そっと指のハラををあて、やはりできないという。

 ぼくもあきらめる。

「香奈……怒っていないから、こっちへおいで」

 最後の一粒をとりおえて、しばらくたっていた。

 ぼくは、妻と桃代に背をむけて香奈に呼びかけた。香奈の存在をすっかり忘れていた。

「香奈なんか、だいきらい。もう遊んでやらないから」

 痛みのために言葉を口にだせないでいた桃代が、猛々しい声で叫んでいる。

 香奈は太陽の照りつける広い校庭でひとりぼっちだった。遊園地からの――ひそやかに移動する獣のざわめきのような騒音にトリカコマレテひとりぼっちで指をシヤブッテいた。

 香奈は三歳になっても、指をしゃぶることを止めなかった。そ指にタコがよるほどだった。そのクセが香奈にあらわれていた。

「そんなに、キツイことをいってはいけない」

「だって、香奈がやったんだもの。おねえちゃんが、メクラになればいいとおもっているんでしょう」辛辣なひびきがある。憎しみがこめられている。

「キライ。きらい。香奈なんか、いないほうがいい。向こうへ、いっちゃいな」

 香奈が泣きだす。泣きながら遠ざかっていく。

 どこへ、いくというのか?

 妻が追いかけようとすると、桃代がしがみついて、離そうとしない。

「ほうっておればいいのよ」と桃代。

 どこへいくというのか……校庭は広すぎて小さな香奈をやさしくかくまってくれる木立はない。そしてついに……走りつかれて……テニスコートのネットをはる柱にいきつき、そこが香奈のめざした場所だった。柱に顔をおしつけて、泣きじゃくっている。

 追いすがったぼくが、抱き上げようとしても、子供らしくない力であばれた。

 どうしても遊園地にいきたいといいだす。遊園地に連れていってくれるとおもっていたのに……と泣きだす。

 砂遊びさえしなければお姉ちゃんにしかられなくてすんだ。というのが、幼い香奈の考えだした結論だった。口惜しそうにぼくをたたく。あまり怒らせたり悲しませてもかわいそうなので、震える声で遊園地行きをねだりつづける香奈に従うことにした。

 

 父は無念だったろう。病に倒れ、ぼくの東京での活躍をみられなくなった。ぼくを苦境にひきずりこんでしまった。そして死亡。亡き父の悔しさは、いまやぼくのものだ。

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