第十一章 倒れ伏すとも妻の膝。

11 倒れ伏すとも妻の膝。


 ピテカントロプスエレクタス。

 二足歩行直立動物の尊厳も喪失し……。

 ウイスキー色の尿が股間からとめどもなくふきだす。

 どうしていまごろになってこんなに多量の尿がでるのだ。

 タラタラの頻尿のはずなのに……。

 尿は太股をつたい靴底にまでたっした。

 靴音がへんに粘稠性をおび。

 よろよろと……。

 もう歩けないよ。

 視界が急速に狭まりゆがみジジイはよろめく。

 クソまみれ尿びたりで街じゅうほっつき歩くことはできないよ。

 脚は濡れガーゼのように頼りなく萎縮して歩行もままならず。

 そこえきて痔もとびでている。

 尿をがまんして堪えていたのがわるかったのだ。

 尻の穴から頭頂葉にかけて青白い痛みの稲妻がはぜのぼる。

 もうだめだ。

 尿どころか、大腸から直腸をへてなにか異物が尻からほどばしりでる。

 そして激流となって。

 尿とまざりあい。

 もうなにもかもおしながしてしまう勢いは。

 とどまるところをしらず。

 靴からもあふれ。

 街角に流れだす。

 そうなのだ。

 人間とはながい一本の管。

 なのだ。

 体内のながい管をぬけると。

 糞尿まじりの。

 クソッタレジジイの股間だった。

 ジジイはさすがに。

〈翁〉なんて。

 哀れ。

 きどってはいられない体たらくだ。

 そうなのだ。

 こうなったらただのジジイだ。

 排泄可能なものは。

 なんでもかんでも。

 このさいたてつづけにひねりだし垂れ流し。

 下半身糞尿。

 まじりで。

 歩きつづけようと。

 もがいているのだ。

 彷徨をつづけられるうちは。

 呼吸はとまらないのだ。

 生きているのだ。

 いままでつめこんで。

 後生大事。

 に蓄積してきたものは。

 なにもかも体外に排除するのだ。

 それでも死にはしない。

 安心して……でもでも、もう歩けない。

 バランスがくずれて倒れこんでしまった。

 たったいままで歩いていた記憶の残像が。

 頭の中でチカチカ明滅していた。

 もう一歩も前に踏み出すことはできない。

 いつさいの可視物が視野から消えてしまった。

 ただ頭の中だけに。

 フラッシュバックのように過ぎ越しかたの怨念。

 が浮かびあがっては消えていく。

 あのときはこうしておけばよかった。

 とか。

 あれはしなければよかった。

 などという、たわいのない愚痴。

 世迷い言めいたことばかりだった。

 どうしてイイ小説がかけなかったのだ。

 唐突に、ジジイは悔恨の情にかられる。

 いちばんの欠陥はひとが興味をもつことに無関心であったこと。

 ひととおなじように。

 感動できない性格に改変されてしまったことだ。

 そうなのだ田舎町にもどってこなければよかった。

 むかしトウキョウにいて。

 同人雑誌に参加していた。

 セピアイロに色褪せた記憶がある。

 あのころは物語のなかで。

 人を動かしてみるのが。

 たまらなくすきだった。

 おたがいにコミニケイションが成り立った。

 あのころの友だちがなつしい。

 なつかしい。

 田舎でのこの50年の生活があまりひどかった。

 その迫害。

 とたたかうだけで。

 心がずたずたに切り裂かれた。

 文章も断片的になり。

 みじめなものだ。

 妻に恵まれ。

 あたたかで平凡な家庭にめぐまれたこと。

 だけが唯一の救いだった。

 愛する妻がいて。

 子供たちがいて……。

 家族に恵まれたため。

 かえっていい小説がかけなくなった。

 そんなことを秩序よく書いていければいいのだろう。

 あるいは、まったく私小説的な発想法からぬけだせればいいのだ。

 それもいまとなってはおそすぎる悔恨だ。

 愛するものがいて。

 守らなければならないものたちがいる。

 あいだはジジイは死をねがうわけがない。

 ねがうわけがなくても。

 あちらさんがすり寄ってくる場合だってある。

 

 船底型の細長い盆地の街は2007年で皐月のどんよりとくもった鈍色に空のもとでひとびとの姿がとおのきジジイは薄暗い薄明の虚空にただひりとうずくまって、汝の性の拙さを泣け、胎児のように体をまるめた形態で……泣け……じぶんの無能無芸ぶりを……ナゲケ……行き行きて……。ソラソラソラ……いますこし歩け。街の音が消えた。街の光景がゆがんでうすらいでいく。どこにいるのかわからない。マロニエの木に寄り掛かっているようだったのに……いまは木の根元に倒れているようだ。もう歩けない。身動きできない。どこにいるのだ、ここはどこなのだ。ミチコさんはすぐそこだ。おまえを待っているのだ。すぐそこにいる。すぐそこだ。携帯をみみにあてている。返事を期待しているのだ。待っているのだ。不安……。妻がさめざめと泣いている。泣くことはない。下痢や痔の痛みで死ぬことなんかない。

 

 それより意識がおかしい、なにも見えない……。


 明日の朝、妻は鏡にむかうだろう。

 すこし化粧のノリがわるいみたい。

 特別な朝なので、化粧はふだんより丁寧で、ながくつづくだろう。


 高価な化粧品を買って上げられなくてゴメンナサイ。


 行き行きて……倒れ伏すとも……妻の膝。

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