第3話 ホーンテング/きし麵の百本減らし。

3 ホーンティング/きし麵の百本減らし。


 噂の廃墟はあなたの記憶ではこの『切り通し』を越えたあたりだ。

 昼間でも薄暗い雑木林が両側から迫って来ている。この辺だろうと道端の雑草を踏んで、薄暗い小道に歩を進める。

 お目当ての廃墟が、視野に入ってもいいはずだった。上り勾配の道はどこまでも果てしなくつづいている。こんなにながい坂道だったのか。いぶかりながらも歩きつづけた。

 暑い。あなたはあまり歩きつけない。

 ひきこもりがちな、老人でもあった。

 はや、グッシヨリと汗をかいている。

 記憶の不確かさを呪いだしたころになって、ようやく展望が開けた。

 パソコンの画面に映った廃墟。そういう場所を全国的に紹介しているサイトだった。あなたの生まれ故郷だ。それも、むかし住んでいた場所からそれほど遠くないことを知り……懐かしさがこみあげてきた。

 それこそ定年退職してにわかによみがえった文芸と怪奇(ビザール)探訪の趣味からこの廃墟への旅を思い立ったのだ。

 大森の独り住まいのアパートから東京駅にでた。

 東北新幹線とローカル線を乗り継ぐ。バスにゆられてやっとついた故郷の街。

 風景が一変している。おどろいた。

 御殿山公園のこのあたりは切り通しをはさみ坂田山という地膨れ山で雑木林が連なっていて、ほとんど家などなかった。

 時折り野兎のはねているのが目撃できるような場所だった。薄暗い道で坂田山の側は山肌に鹿沼土の断層が露出していた。

 その鹿沼土の層の下に粘土質の土壌があった。小さなスコップ片手に粘土取りに来たものだった。ねっとりとした土の感触。こねまわしてつくる小動物。なつかしい幼児体験の一コマが脳裏に浮かぶ。

 遊び慣れた場所だった。だから、廃墟といえば一軒家。まわりは鬱蒼とした林を想像していた。 

 なんとあなたの眼交に開けた展望ときたら閑静な新興住宅地だった。

 ここが、林であったことをしのばせるものはなにもない。

 明るいあっけらかんとした住宅が立ち並んでいる。こんなところにほんとうにオバケヤシキ、廃墟が存在しているのかと疑がってみた。

 幽霊屋敷といわれるからには、どんなオバケがでるのだろうか。ほんとうに霊体験が可能なのだろうか……。

 まずは確かめてみようと道ゆくひとを探す。 

 人影は見当たらない。もともと貧しい街だ。

 夫婦共稼ぎで、みんな、仕事に出かけているのだろう。昼から遊んでいられる身分のひとがいるはずもなかった。点在する建売住宅とおぼしい、ちまちました家並みを眺めながら歩きつづける。

 気安く話しかけられる、同世代の老人が庭いじりでもしていればいいのだが。

 それもこの雰囲気では望み薄だ。                   

 

 あなたが育った終戦直後のこの鹿沼では価値観が反転していた。

 にわかに、朝鮮人がいばりだした。

 彼らの親睦会主催で、いまは、照明灯が高くそそり立つ、あの御殿山のグランドで蹴球の試合を見たことがあった。あなたはそこで、けっして手は使わず、頭と足だけでボウルを蹴る奇妙な運動を見ることになった。   

 この街にこれほどおおくの朝鮮人が住んでいたのかと驚愕した。

 朝鮮人を差別していた。いばりくさって酷使してきた。だからこそ、大人たちはただただ呆然としてしまっていた。躍動し活気にあふれた朝鮮人たちの蹴球大会を観戦することになった。見に来たのは、ほとんどが子供たちで、大人の姿はあまり見られなかった。

 あなたもぼんやりと初めてみる球技に身をのりだしていると、いつのまに来ていたのか同じクラスの長正男の姉のユンジュがはにかみながら話しかけてきた。

 千手山の下、ここからさほど離れていない処に朝鮮人部落があった。あなたの家もその近所にあったので、クラスではよく、朝鮮人、ちょうせんじん、チョウセンジンと、カラカワレタ。別になんとも思わなかった。どうして彼らが、差別されたり、バカにされるのか理解できなかった。

 ユンジュに誘われるままについていく。うすぐらい林がさらに暗くみえる樫の木の根元でユンジュは立ち止まった。話があるってなんなのかきく。

 ユンジュはほほえんでいるだけだ。

 もじもじしながらチマチョゴリの裾を大胆にめくりあげた。

 ショウちゃん、あなたに見せてあげる、ショウちゃんに見せてあげると、きれいな標準語でささやいているのはどうしたことなのか。わからないでいるとふさふさした黒い毛が目にとびこんできた。

 顔がほてり胸がどきどきしていた。

 あなたは女性の陰部を見たことがなかった。                 想像してみずからの性器をいじくっていた。                 それくらいのことはする年頃になっていた。                 ……がこの不意打ちにあって、モロに黒くちぢれた恥毛を目の前にさらされ、勃起してしまった。パンツの布のなかでソレはいたいほど硬くなっていた。     ユンジュは体をすり寄せてきた。なにしているの。はやくあんたのものも見せなかったらズルイわよ、というようなことをいう。手早くバンドをゆるめ……、ズボンをさげられてしまう。パンツもいっしょにひきおろされていた。いくら薄暗い林の中とはいえじぶんの怒張したものがさらされるのは恥ずかしかった。      そんなこころの動きとは裏腹にしがみつき、彼女をだきしめ、がむしゃらに指を女のアソコにはわせてしまった。                       おちついてよ。あわてないでよ。あんたぁ、すっかり大人になっているじゃないの。うちの正男なんてまだ毛も生えてないのに。あんたぁ、いちにんまえにオッタテテすごい。やっぱりたべものがいいから成長もはやいんだね。どれ、どれ、お姉さんにも触らせてね。というよりはやくあなたのものは彼女の手の中にあった。しごかれていた。              

 ますます硬く太くなってしまった。                     アア、苦しいよ。痛いような感じがするよと訴えると、しゃぶってあげるからね、しゃぶってあげるから、わたしのもなめて……とまるで娼婦でもいいかねるような、きわどいせりふを言葉にする。                     ふたりして下草の中に倒れ込んでしまった。                 太股をおおきくひらき、恥ずかしい箇所をむきだしたユンジュはとても信じられないことであったが自らの指でそのパクッとひらいた割れ目をさらに両側におしひらいた。おたがいになめたりしゃぶったり、しごかれたり陰唇をわけてさすったりしているうちにすっかり淫欲が昂り、はじめていれた女陰のやわ襞のぬめりとぬくもりにたえきれずはげしく挿入をくりかえしピストンすることをすばやく覚え、彼女がよがってなきだすと、さらに興奮してはじめて吐淫をはたした。

 

 その思い出の樫の木のあった辺りだ、ここは――とあなたは立ち止まる。

 まちがいない。ながい歳月……年輪を風雨に晒してきた樫の切り株がある。   ひこばえが、根元のあたりからのびている。こどもの腕ででは、かかえはきれないような成木となっている。その脇の大谷石で形成された段をくだる。      またも無人の団地が開けた。                        向こうに岩山を遠望できる。                        その岩山の裾を東武電車の特急『スペイシヤ』が轟音をひびかせて日光の方角に消えていく気配だけがして……老人にしては、自慢の動体視力を発揮できるようなものを視野におさめることができないのがなんとも残念だ。

 でも、この団地を下りる舗装道路が堂々と設置されているのを見ることが出来た。団地の裏側から紛れ込んでしまったのだ。それは、そうだろう。団地なのに車が入れないような侵入経路しかないなんて、おかしいと思っていた。       

 あいかわらず、人の気配がない。                      

 ようやく……なにかしら得体のしれない不安がこころに泡立つ。        不安におののき、さきに進むのも憚られるようになってきたところでその家が視野にはいってきた。                             

 住宅街からかなり隔絶した一軒家。                     外壁はモルタル。

 屋根はスレート葺。                   

 どこといって特別に異常は認められない。                  よくテレビでとりとあげられているゴミ屋敷を、なぜか連想してしまった。   ほかの家からの孤立感を漂わせていたからだろう。

 ただそれだけのことだ。  

 生活廃棄物がところ狭しと累積され、異臭を放っているわけでもない。    

 近所にとやかく文句つけられるようなものは庭にも部屋にも存在しているはずもなかった。

 むしろ殺風景であった。

 それをまるで補完するかのように閉め切られた空間になんの予告もなく……悪魔の食い滓が漂っているような恐怖が襲ってきた。 

 尋常ならざるものが潜んでいるようだ。

 ……それなのに、まだあなたはここが平凡な空き家であるかのように振る舞おうとしていた。

 それでいいのか。                             これでいいのか。

 いいはずはないではないか。

 この害意ある波動はここがやはりオバケヤシキであることの証明ではないか。

 こうした凶々しい事柄を素直に認める。これをリアルな世界に起きた変異とし認識しなければならないのだ。

 この害意はただごとではない。それを温順にうけいれれば、崩壊の兆しを予感できる。このよく見慣れた、言葉でとらえられ構成されてきた日常の世界に、凡庸ならざるものが攻勢をかけてきているのだ。

 そうなのだ。肯定的なものの見方に慣らされてしまったあなたに、革新をもたらすものがあるとしたらそれはもう視界のコペルニクス的転回が必至なのだ。    見えていない邪悪なものの気配を見て取らなければいけないのだ。       ほら……無防備なあなたのからだに……凶念を秘めた半透明な手がいよいよ部屋の隅の剥げかけた漆喰壁からのびてきているではないか。            土気色をしてミイラのように乾ききったままの手がのびてきたのを視認できた。 そのよろこびは、それはもう死人を期待して、腐乱死体を予想して侵入してきたあなたにとっては望外のよろこびとなっていた。                妨害するものもないままその半透明な手はしだいに輪郭をあからさまにして、あなたにまつわりついてきた。それはよろこび以外のなにものでもなかったのだ。  ……これでここまではるばると来た甲斐があった。              ニュルルとのびてくる手はもうゴムのように伸縮自在であなたのからだにまきつく。それがもともとはイッポンの恐怖の手であったのか。

 複数であったのか。

 などと吟味する暇もない……身動きのできない体はただただ心拍のみが高鳴る。 先に進めない。足が萎える。                        さらなる怪奇を見たい。二階があるようだからそこまでは上がりたい。などとみようにしらじらしい、さめきった感覚であたりを見回す。            この上の階に、もっとどきどきさせてくれるものが、なにかいるのではないか。 いままでのことは幻覚なのだ。もっとおどろおどろした怪奇への渇望をつのらせてる。するとありがたや階段を昇りつめて、はや、二階にいることになる。    ……ほかの空間への自由な移動は、やはりここがありふれた場所ではない証拠なのだ。見上げるとさらに上の踊り場に、なにか生き物がいる。          悪霊の鋭い牙でわが身を引き裂かれることを恐怖して再び目をこらす。     濃い霧が、とどこおっている。                       外観では二階建てだったのに。                       さらに上階があるのか。                          この家の複雑な内部構造には、おどろかされてしまう。            家のなかに濃密な霧が濛々とはいりこんでくる。

 どこか戸締まりがわるいのだ。

 破損した箇所があるにちがいない。

 穴だらけの漆喰壁や、がたぴしする唐紙がある。

 などという幽霊屋敷にはつきものの、具体的な凡慮が――脳髄から背中を流れ落ちる。ここは霊の支配する世界なのだ。

 背中の凡々たる認識力にうんざりしながら、踊り場を後にまたまた階段を昇りだす。                  

 別段なにごともない。                           階段の踏み板がばたりとはずれて真っ逆様に階下に落ち込むこともない。    ふわりとうかびあがるような夢心地のまま三階の部屋にいた。         畳の部屋に布団が敷いてある。                       白いシーツの海に漂流しているのはあなたの父だった。            どうしてこんなところに父がいるのかわからない。              

 そのことを聞こうとすると、あなたの口をついてでたのはユンジュの所在を審尋する声だった。

 父は枯れ葉を見るような無関心なそぶりであなたの後ろを見詰めていた。

 なにかにふいに気づいた……、こころの砦がいっきょに崩れ……あう、あう、ああう、とあなと悲鳴をあげながら父が指さすのは……やはりあなたの背後であった。

 あなたはいやいやながらまた背中に意識を集中する。

 そこにユンジュがいるのが感じられた。

 でも……とうのむかしに朝鮮に帰還して自殺してしまったと聞いている彼女がこの世に毅然として存在を主張できるわけがなく、これはもうオバケか、はたまた浮遊霊だ。

 

 あるいは、地縛霊か。       

 

 どこにいっていたのだと聞こうとすると返事はむこう側から鈴をならすような声でひびいてくる。

 それは懐かしい片時も忘れたことのないユンジュの声だ。

 感涙のあまりあなたはうずくまってしまう。

 抱きしめることのできない幻のユンジュを想うと涙が頬を流れ落ちた。     

 ……『キシメンの百本減らし』にしてしまいなさいよと彼女がいう。

 ユンジュの日本語はますますみがきがかかっている。

 あどけないさわやかな声だがそれはトラウマとなってあなたの暗部に潜んでいた恐怖と自虐的自己破壊力を疼かせる結果をもたらした。

 キシメンとは『異形コレクション』のある作品によると『雉麺』の転じた言葉らしい。

 あなたの記憶にあるのは幅広のヒモカワのことだ。麺の分類はその材料はかわらずヒヤムギにしてもソウメンでもそれは太さでわけいる。それだけのことらしい。 あなたはキシメンを超幅広の麺、ヒモカワと思い込んでいる。

 それが8ミリフイルムくらいあって純白のヒモカワに過去の映像のヒトコマヒトコマが焼きついているのだった。

 なにもしらない麺好きの父がさもさもうれしそうに丼からキシメンをすすっているのがまず最上段のヒトコマだ。

 酒をのんだあとはソバかウドンを食べるほど麺好きの父。           父が食べるものときたらかならず麺類だった。

 泥酔した父のところには恐ろしくて近寄れなかった。

 馬鹿とコケとどっちがバカか知っているか。

 馬鹿に踏まれるからコケのほうがバカよりもバカなのだ。

 ショウイチ、おまえは、コケだ。バカの下のコケだ。

 なにか語呂あわせのような屁理屈をぐだぐだとわめく。さいごには理不尽にも鉄拳がとんでくる。

 だから、そろそろくるなという気配になると、一升瓶の酒が底をついてくると父のそばにいるのは母だけとなってしまう。

 母は家長には逆らわないのが美徳という確固たる教育理念のもとに育てられてきた明治の女だったのでじっと耐え忍んでいた。                 そういえばあのときだ。あのときがさいごの打擲だった。めずらしくあのひとは、父は素面だった。

 朝鮮の女なんか孕ませやがって苔、こけ、コケ、とあなたは殴られた。

 庭の土を唇から流れる血で顔じゅうにこびりつかせて倒れていた。

 死ぬかもしれない。

 殺されるかもしれない。

 恐怖におののいていた。

 

 だが流されたのは、殺されたのはまだじゅうぶんな形さえ成していなかったあなたとユンジュの愛の結晶だった。

 あなたはそのことを生涯後悔する。

 もっとはやく故郷をあとにすれば……逃げだせばよかったのだ。

 悔いつづけることになる。

 だが覆水盆に返らず、いや盃洗の水だったろうかまたまた記憶のみだれが襲ってくる。盃洗だったような……敗戦のあとだったので朝鮮人にたいする思い入れは複雑なものがあった。

 あのひとにとってはあなたが朝鮮人の女と結婚することは許せないことだったのだろう。

 あなたは父の世代の男が人種差別する理由がまったく理解できなかった。

 反抗した。ユンジュと故郷をいちどは捨てることになったのだった。      

 ところが、いちどはすてた故郷にもどってきてしまった。

 母が糖尿病で倒れたからだ。二人の姉と妹はすでに嫁いでいた。

 だれも看護するものがいない。悲惨な状況に置かれていたのでせっかく上京して故郷と縁がきれたと安堵の胸をなでおろしたのも束の間のことであった。

 ユンジュは断固として帰省を拒んだ。ついてこなかった。


 わたしはおなかの赤ちゃんを犠牲にしてまであなたのお父さんのいいなりになった。いくらお母さんのためとはいえ故郷にもどることはいやですからね。ますますみがきのかかった標準語で激怒した。わめきだした。しごくもっとものことなのであなたは返す言葉もなかった。ただただおのが身の業の拙さをなげきながらも単身帰省したのだった。                 

 

 またもや父の顔が幅広のヒモカワのフイルムに映っている。          父への復讐のこころが芽生えるのは、このずっとあとのことなのに、なぜにこのように父のイメージばかりが白い麺のフイルムにやきついてはなれないのだろうか。消えないのだろうか。

 わめきちらす。罵詈雑言。……の顔。

 恨みがましい父の顔。

 やせほそって昔日の凶暴な軍人であった面影は消えている。

 害意のあるひややかな眼差しをこちらに向けている。  

 双眸は青く燃え殺意すら感じられる。                    彼女が、妻があなたのところに、もどってきたのは何月くらい経過してのことだったろうか。

 あなたは再会をよろこび、もうこのまま死んでもいいと思った。

 ユンジュは、妻は妊娠していたのでこんどこそはどんなことがあっても産んでもらいたかった。

 育て上げると神にちかった。それこそ爪に火をともすような節約をしながら日々をおくっていくことになったのだった。       

 

 あなたの記憶はこのあたりからもういっきにふきあがってきて、序列がみだれ渦をまきイメージは鮮烈なのに時間の配分が自然の天行を無視することになる……。 直腸癌と診断されて父は倒れ、どれくらい病床に伏していたのだろうか。

 その間の時間の経緯があなたにはない。長姉がかけつけてくれたのはいいが、有無をいわせず県都宇都宮で一番有名な病院に入院させた。

 なんでも千葉医大のN先生を恩師と仰ぐ医師で、あなたがついたときにはもう手術ははじまっていた。

 あとになって知らされた。患部は切除されなかった。直腸にバイバスの穴を、人工肛門をつけただけのことであった。病状がよくなるわけもない。        それからがたいへんなことで、地元鹿沼のK総合病院に再入院。

 コバルト放射治療。ということになった。                  父は……おれは特別室でなければ入院しないと威張りだして、家政婦も昼夜交替で三人つけなければいやだと宣うくしまつだった。               街の高利貸から借金をかさねることになる。                 あなたは生き地獄をあじわうことになるのだった。              それでも、これまた家で寝たきりの母は……いま親孝行をしておけばかならず仏様がおまえを助けてくれるからね。

 助けてくれるからね。

 というので、大好きな氷菓子を口元にはこんでやりながらただただ母に、うなずくほかにしかたがなかった。                    

 

 もう、助かることはないだろうと――家にもどされた父は――予想に反して生きつづけた。


 こんなときだ――キシメンの百本減らしの話を土地の古老から聞いたのは。

 あなたの、懊悩を見兼ねて教えてくれたのは。

 そうなのだろうか。

 いや、もっと前から知っていたような気がする。

 どうも……このあたりのあなたの記憶は自然の成り行きどおりには配列されていないようだ。

 百本減らしのことはむかしから熟知していたのかもしれない……姥捨ての伝説は深沢一郎の『楢山節考』の小説で知っていた。

 百本減らしの知識は――はじめて……楢山節考を読んだ時に――こういう方法もあると――このとき――耳にしたようなのだ、時系列どおりに思考しているわけではないから……山に捨てるのとどちらが残酷なのか、かわからないとかんがえていたようだ。

 死ぬまでみとってやるということでは、畳の上で死なせてやるという意味では安楽死みたいなものだと古老はいった。                

 病院のときからひきつづき頼んである家政婦たちは脇腹に穿った肛門からにじみでる糞の始末をするのだから時給に色をつけろといいだす始末でこの街ときたら知的職業の時給よりも主婦のパートタイムのほうがいい金になるシマツなのでわたしがいくら塾で働いてもいつも月末になると家計は赤字になる。

 これでは父をシマツしなくてはわたしたちがさきに死んでしまうとかんがえるにいたる。

 ユンジュは父の看病に時折見えるあなたの姉妹たちとおりあいがわるく家をでてしまっていた。 

 そのほうがよかった。あなたは身重で働く妻を不憫におもっていた。

 ふいにおくられてきた離婚届けにも判をおした。               

 父は寝返りもうてないでいた。床ずれができた背中を、あなたがアルコールでふいてややると、まるで死んで棺に納められるようだと、いやみをいう。

 脇腹にくくりつけられた糞袋をすばやく交換する家政婦をあなたはただじっとみていることにした。

 

 父の世話はやはり彼女たちにまかせたほうがいい。


 頭の中ではキシメンの減らしの方法に思いをはせていた。

 一気にへらしたらどうだろうかと残酷なことをかんがえつづけているのが怖かった。 

 父は百本減らしの伝説を知っていたのだろうか。               食事のことは、すきな麺類をまいどたべられるからか、文句ひとついわなかった。   

 部屋は糞のにおいが充満していた。                     糞尿の中で暮らしているようなものだった。                 布団の下では畳が青く黴びていた。                     青黴が人型に生えているのだった。                     いくら拭いてもすぐに青い同じ形に浮かび上がってきた。

 支払いが滞った。家政婦たちはだれも寄りつかなくなった。          ヒモカワの本数をいっきに九〇本から十本に減らしてしまった。

 人非人のなせるわざであった。

 この罪はわたし自身が生涯負っていくとかっこのいいことをいっていた。    

 こころの奥底ではユンジュとの結婚はゆるされず、彼女の胎内で形をなしつつあったわが子を堕胎しなければならなかったことへの復讐のきもちがまったくなかったとはいいきれないものがあった。                    父の味蕾はにぶくなっているのだろう、ほとんど味のついていないヒモカワをさもおいしそうにスルスルスポット一本、いっぽん、飲みこんでいく――まるで顔のまえに白い粘質のすだれがたれたようで薄気味わるいものだった。        

 あれほど暴力的で怖かった父は日増しに痩せ衰えていった。          

 あなたはすっかり温和な顔になったそのひとにあんたが生きていればいきているほどあなたと母の寿命が縮むんだよなど平気でいえるようになっていた。

 あのひとはなにも反駁しないでただただふるびた天井を眺めているだけなのがものたりなかった。

 なにかいいかえしたらどうなんだと叫びたいところをそれだけは、我慢した。だが沈黙し見下ろすあなたの視線はそのひとにとったら拷問に等しい効果があるにちがいなかった。

 あなたの背後にユンジュの幻影をみているのか。

 父は怯えていた。ユンジュに恨まれていることは知っていたはずだ。

 部屋の外、どこか近いところまで死に神が迎えにやってきている。

 そう感じさせることがいままでそのひとからうけてきたかずかずの虐待への復讐だ。ユンジュがいると思うのだったらそのままにして、否定することはない。              

 涙がでるほど死の影に怯える父を見るのはたのしかった。あなたは両親の病を心配するあまり心理の逆転現象が起こってしまっていたのだろう。        


 愛が憎しみにかわっていた。

 父は、まもなく死ぬだろう。                        死んでから肉体から解放されれば、またあなたにたいするいやがらせが再発するだろう。

 あなたを呪うだろう。

 恨んでくれていい。

 それでいいのだ。

 あなたは父があなたを虐待することに精をだしていたころがなつかしく、そうした時空にまた存在したいものだと思うようになっていたから人のこころのうごきとは摩訶不思議なものだ。           

 そうしたある日、ユンジュの弟、正男からユンジュが韓国の両親のところにもどって自殺してしまったという知らせをうけたのだった。

 ……もうこれでほんとうにふたりのなかは割かれてしまったのだ、満足でしょうと見下ろすと仰向けにねていたそのひとは干からびた口をゆがませて……にこやかに? 

 ほほえんでいるのだった。             

 9ホンメ目。あまり口やかましく愚痴をこぼさなくなった父は終始布団のなかで呻きだした。

 それは、空腹を訴える呻きであることはたしかだった。

 無視した。  

 8ホン目。……陰に籠った呻き声をきいていると気がたしかに滅入ってくる。  7ホン目。ただただ沈黙した表情のままじっと天井を恨めしそうに父は睨みつけていた。父の目に飢餓にたいする恐怖が浮かんでいた。

 ヒモカワがわずかに椀の底に重なっている。

 あなたはそれを一本ずつ箸でとる。

 父の口にはこんだ。

 父はあなたをとおしてユンジユを見ているようだった。

 怯えていた。

 ユンジュが恨みをはらしにきているのだろうか。

 飲食物の介護はすべてあなたの負担となっていた。よろこんで父をこんなふうにしているのではない。

 医者からも見放されていた。

 回復の見込みはない。

 安楽死をもたらす。経済的にも逼迫していたのでやむを得ないことであった。                    

 あなたと母がさきに死ぬか父が死ぬかの瀬戸際にたたされての選択だった。   それにしても万感の恨みをこめた目でみあげられるとこころがいたんだ。父の病床からはなれて仕事にもどるのがつらかった。                 そしてこれはもう畳のうえで死ぬことができるのだからと……みんなにみとられて死ぬのだからこの選択肢がベストだったなどとはいえず。

 むしろいちばん残酷なしうちをしているのかもしれない。

 と悩みだしたころには父の顔からあらゆるこころの動きをあらわすものが消えていた。


 苦しんでいるのもわからなく息をひきとったときにはおなじ屋根の下にいたのに父の病床まで駆けつけるのが間に合わないような静かな死にかただった。     白いシーツにうごめくものがある。                     もりあがりぬらりぬらりと波打っている。                  だがそのひとの痕跡はどこにもないのがただただ奇妙であなたはさらにちかよっていくとそれは幅広のヒモカワの海でやせほそり朽ち木のようになって、仰向けになった口からヒモカワを吐きだしていた。                   そのひとが波のしたで息絶えていることは確かなことであった。

 たしかに死んでいるのに白すぎるヒモカワが口からも鼻からもミミズのようにはいだしてきて増殖してこんどこそ父の姿をのみこんでしまった。

 ただただねばつくヒモカワの波のうねりが白いシーツにあるだけだった。

 キシメンの吐瀉物は父が恨みをこめて吐き出したものだ。           白く長いうじ虫のようにくねくねと畳にまではい出した。           麺類は口あたりがよく喉越しもいいはずだ。                 らくに嚥下できたはずなのに……。                     未消化のキシメンが……。

 どうしてこんなにおおくの麺がと……よくよく見ると……。

 それは蛆虫になっているのだった。

 麺ではなかった。

 蛆虫そのものだ。

 重なりあってうごめいている。                       ふいにむすうの怨嗟をこめた顔。

 やせほそった顔がその中から浮かび出た。

 その顔は親族に裏切られて、人為的に飢え死にさせられてきた老人たちの怨恨の顔だった。        

 まだ死にたくない。                            死にたくはない。

 空腹を訴える声があなたの頭に直にひびいてきた。

 喉をかきむしる。飢えて恐怖にゆがんだ顔。

 飢餓感に苦しんでいる細々とした声。

 そういえば、ホーンティングとは、たえずこころをおののかせるといった意味あいも含まれているはずだ。


 そしてここは訪れたものがいちばん恐れているトラウマを結像して提供してくれる場所だったのだ。

 おそまきながら理解する。

 この場所の怖いところは、来訪者がけっして思いだしたくはない恐怖体験や罪悪感を闇に潜んでいた尋常ならざるものものが、増幅してフラッシュバックさせる。禍々しい場だということだ。                        


 気づくのがおそすぎた。                          あなたは心臓が停止するまで嘆きつづけることだろう。            雷が近い。この地方では、この季節には雷雨が夜まで続く。          やがて降る雷雨の先触れとしても、この部屋の冷気は異常すぎる。       霊のさらなる出現を暗示しているかのように暗い靄がわずかな隙間から部屋に忍び込んでくる。                               窓のそとで稲光がした。                          雷鳴が轟く。

 なにかおかしい、どこかおかしい。                     窓から逃げ出そうと必死で立ち上がろうとする。               空腹のあまり肢体に力がはいらない。                    狼狽しながら、いざるように窓辺にはいよる。                鉄格子がはまっている。                          ひとりでに扉がしまり、あなたが閉じ込められてしまったのは……ついさきほどのことだ。                                 あなたは疲労のために、飢えからくる倦怠感のために動けないのはどうしたことだろう。                                  扉が閉まった。                              閉じ込められた。                             ついさきほどのことだ。                          まちがいない。                              それなのに……あなたは疲労のため動けない。どうしたことなのだろう。    閉じ込められた部屋の中であなたは長いながいモノローグを紡ぎだすだけだ。  ああもうどこへも逃げられない。逃げられない。               稲光がする。                               薄暗い部屋を稲妻が切り裂く。

 飢えにおののきながら、父を恨みながらあなたは動けないでいる。

 動くことができない。

 羊水に揺られてみていたバラ色の夢と共に、ユンジュの胎内からかぎだされた胎児の恨みが、恐怖に削がれたあなたの顔にへばりついている。

 ……生まれ出ることを拒まれたものの恨みは消えることがない。あなたは白いぶよぶよした胎児らしき塊に、ごめんな、ごめんな、と謝る。               

『鬼死麺百本減らし』にあったひとたちの怨念。                もじどうり飢えた餓鬼の顔がいくつも重なって浮かんでいる。

 白いキシメンのフイルムの下の段へ流れていく……。

 いちばん下段のフイルムの一コマにはあなたの近い未来の顔が写っていた。

 幅広のヒモカワに青い虚ろな顔がうかび、飢えて苦しむガイコツのように肉のついていないあなたの顔が怨嗟をこめてあなたを睨んでいる。             

 あなたは、わたしなのだった。                       最後の1コマにあなたの顔がある。                     わたしの顔がある。                            あなたは、父であったものかもしれない。

 あなたの近い未来の記憶では餓死がまっている。

 よくよく見れば、それはこの地方で飢えながら死んでいったすべてのひとの顔だ。恨みがましい目であなたを睨んでいる。 

 白い粘性の胎盤で、羊水のようなものの中にわたしは、たゆたゆとしていた。  やりなおそうよ、ユンジュ。                        どんなことがあっても、ユンジュ、なんといわれてもおまえと別れるべきではなかった。ゆるしてくれ。                           もういちど始めからやりなおそうよ。

 愛していた。

 愛している。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 原初にもどってもまた結ばれますように。

 精液と卵子とねばねばとしたものの中にわたしの意識は漂っていた。

 ああ、ユンジュ、愛している始めからやりなおそう。             おとうさん。ごめんなさい。

 百本減らしにかけてごめん。              

 ごめん。                                 ゴメンナサイ。

 白いどろどろした粘性の物質がうごめきながら塊となっていく。        わたしの心拍数は高鳴るいっぽうだ。                    粘性の塊が胎児の頭部のように見える。                   この光景にたえられず心臓は停止寸前まで追い詰められている。        わたしのとなりで形を成しつつある胎児が、塊のなかからなにかつきだしてきた。口吻のようなものが現れ呼びかけてきた。                    

「パパなにかたべたい。おなかすいた」            

 


注 なんども編集して更新しましたが、改行などが乱れたままでなおりません。古いパソコンで入力してあったためでしょうか。読みにくいと思いますが、よろしくお願いします。


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