第4話 闇からの声

 4 闇からの声

      

瞳孔拡散薬/これから白内障の手術をするかたは読まないでください。



 純白のパーティションカーテンがシャーっという金属音とともに開けられた。

 丸顔のまだ幼さののこっているナースがバインダーを小脇にかかえてベッドサイドに近寄ってきた。乱暴な開け方。激しい音がしたことから推察したとおり粗雑な声だった。

「木村さん。これ読んでおいてください」

 入院案内と注意事項が箇条書で連なっている。文字がかすんでよく見えない。白内障のためだ。下段の新宿J医科大学病院というゴジック体だけはぱっと目にはいった。

「どう、なにか質問ありますか」

 幼い顔で、威圧的な口調だ。

 病棟の端まで巡回してもどってきたナースの胸元には『百々百子』とプラスチックのネームカードが付けられていた。さきほどはなにも添付されていなかった。ただ白いだけの白衣の胸元だったのに。わたしは、カード上の文字を凝視していた。そんなことをしても視野が鮮明になるはずはない。ナースの顔もチカチカ白く光っていて、さきほどの看護師と同一人物かどうかも定かではない。どうもちがうらしい。なんて読むのだろう。

「かんがえてもらう時間はいくらでもありますよ」声がちがう。優しい調子、赤いホッペでほほえんだ。

 他のナースに尋ね『百々』の読みを一刻もはやく知りたくてナースステイションに出向いた。年寄りはセッカチなのだ。だがわたしは「ホショクにでかけていいですか」というじぶんの声を聞くことになった。先ほど読んだ『入院案内』に捕食に出る人は、看護師に断って下さい、と明記されていた。

 むろんわたしのジョークはつうじるわけがない。同音の『補と捕』との転換ミスだ。だれもそれにまだ気づいていないのだ。説明してもオヤジギャグはやはり全く無視された。プレデターって映画を見た? WOWOWでもやったけど。あのシュワちゃんがでる、侵略ものの映画……」

「いそがしいから、映画もテレビも見ないわ」

 しわがれた中年のナースの声がにべなく応える。

 捕食に出かける。吸血鬼にでもなって、あるいはゾンビのようにひとを捕らえて食するといったブラックユーモアが会話を成立させると思ったのだが……。

 異文化コミュニケイションをしている感じだ。世代のちがいか? ともかくこちらが老齢にたっしているのに、それを認めようとしないから、ときおりこうした齟齬をきたすのだ。頭のなかでは、手偏と衣偏がチカチカいれかわって点滅し、哄笑している。「……歌舞伎町まで捕食、補食、ホショク」とつぶやきながら歩きだすと、「お酒はダメヨ、あすは手術ですからね」ときたもんだ。とんでもないジジイだと思っている声が追いかけてきた。

(別にいまさら歌舞伎町で飲み食いしたいという飲食願望があるわけではない)

 とわたしはひとり呟いた。ただ、病室でなにもせずにぼんやりとすごしているのに耐えられなかったのだ。

 ところが街にでて、立ちすくんでしまった。わたしのほうに向かってくるひとびとに顔がない。恐怖のあまり先に進めない。動けなくなった。人々の顔が胡粉をぬりたくったように白い。眉、目、鼻、口と顔を形作るはずの造作がないのだ。わずかに眼球のあたりと鼻の盛り上がりはわかる。白い能面。白い無表情な顔が迫ってくる。

 わたしは先に進むどころか、恐怖のあまりたじたじと後退りしていた。声だけは聞こえる。なにかわたしのことを話しているようだ。

「病気なのかしら、病院からでてきた」

「あんなところで立ち止まったら危ないわ、だれか手をひいてやったら」

「そうよ、よく見えないのかもしれない」

 どうやら青ざめた顔をしているらしい。

 そうだ。とわたしは気付いた。

 瞳孔拡散薬のせいだ。まだあの薬がきれていなかったのだ。

 でなかったら、アイツラが大挙してわたしを迎えにきたのだ。まだ早すぎると思っていたが、ついに……わたしにもお迎えがきたのかもしれない。そんなことがあるわけない。アイツ。を見る。ようするに、嘲笑されることを覚悟でいう。わたしにはアノ存在を目撃できる能力が在るのだ。

 アイツラの闇からの声を聞くことができるのだ。

 そのためにどれだけ悲惨な生活をしてきことか。

 苦労してきた……とわたしは心のなかで繰り返していた。



 アイツラ。

 まだ、まだるっこい。

 はっきりいう。笑わないでください。

 わたしがはじめてソノ者を見たのは七十年も前のことだ。

 法定伝染赤痢にかかり緊急入院した宇都宮の県立病院でのことだ。

 わたしは、ついさきほど病室の廊下で見たもののためにうなされていた。

 夢の中で悲鳴をあげつづけていた。

 赤痢からくる下痢と高熱で母に抱かれてぐったりとしていた。

 わたしが見たそれは幻覚であったかもしれない。

 隔離病棟では毎日だれか死んでいった。

 死体焼却炉からはそのつど煙がたちのぼった。

 そこはかとなく優しい煙が空に消えたときは、ああ焼かれているのは幼い子供なのだなと思った。どうかわたしの息子をお守りくださいと母は仏に念じた。

 廊下をキャリアではこばれていく患者の顔には白い布がかぶせられていた。

 母がわたしをだきしめてそれを見ないようにした。やり過ごそうとした。

 わたしは母の挙措に慈愛を感じた。

 慈母観音像を思い浮かべて記憶をよみがえらせている。

 観音様にだきしめられている幼児。それがわたしだった。


 だがわたしは、母の袖の隙間から見てしまった。

 ソノ者は青い裸体。

 角がはえ、耳がとがっていた。

 手に三叉鉾をもっていた。

 鉾の尖端がキラリと光った。

 ソノ者とは、悪魔だ。

 死者の胸に乗って得意げに喜々として笑っていた。

 ひとひとりからめとって得意顔でわたしのほうを見た。

「つぎはおまえだよ」

「あれなんなの?」

「つぎはおまえだからな」

「ねえ、おかあさん……あれなんだったの?」

「正一にも見えるんだね。見てしまったのね」

「どうして、あんなに耳がとがっているの」

 幾つもあるとがっているものを注視した。

 耳が不気味にとがっている。

 先が槍のようにとがったたけだけしい尻尾が生えていた。

 角が鋭角。

 三叉鉾。

 あれが先端が尖っているものを恐怖した初体験だった。

 それからはフオークの先のとんがりが怖い。

 塗り箸だと先がとがっているから割り箸にしてよとか。

 本人にしかわからない先端恐怖症に悩まされつづけることになった。

 母は泣いていた。

 母の涙の意味がいまなら分かる。

 つぎはおまえだ。

 ながいこと、わたしはあの囁き、闇からの陰気ないかにも悪魔的な(ダイアボリカル )声はわたしに向けられたものだと思いこんでいた。ちがっていた。あれは母に向けられたものだった。母はわたしの命とひきかえに、わたしを病魔から救い出すために、じぶんの余生をかけたのだ。

 あれいらい母が健康であったことはなかったから。そして夭逝した。

「かわいそうなことをしたわ。わたしになんか似なければよかったのに……」

 すべてこれらのことは母の口から語られたことで、幼かったわたしの記憶だけではなかった。見てはいけないモノを初めて見てしまった。

 あそこは宇都宮の県立病院だった。国立じゃなかったよな。わからない。

 赤痢の危機を脱して母に手をひかれて歩いていた廊下だった? わたしも運が悪ければ、アノ者を胸にのせて死体保管室に運ばれていた。記憶があやふやになってきた。

 完成したばかりのネオロマネスク建築様式の松が峰カトリック教会の聖堂の尖塔が見えていた。

『アンジェラスの鐘』の音が鳴り響いていた。

 夕空に響き渡る鐘の音と茜色の空を背景に無数のムクドリがとびかっていた。

 鳥の嘴がいっせいに、こちらに向いておそいかかってきたらどうしょう。

 わたしはとがったものへの恐怖におののいていた。

 あの黒胡麻を撒き散らしたような鳥の群れはキング原作の『ダークハーフ』のラストシーンとそっくりだ。 

「みたな。みたな」

 そんな悪魔の闇からの声が聞こえてきたのもあのときだった。

 見てはいけないものを見てしまった。

 聞いてはいけない闇からの声を聞いてしまった。

                        


 歌舞伎町のあまりの変貌ぶりにわたしは呆然とした。

 視界はやや回復してひとびとの顔が見えてきたものの、ともかく白内障の手術をひかえた身だ。

 街のようすはぼんやりとしか見えていない。

 とびかう声に外国語がまじっている。

 それも、わたしには全く理解できないことばだ。

 ゴールデン街を歩きまわっているはずなのだが、だれも知り合いに会わない。         

 あれから何年たっているのか意識のなかではすでに年月はない。

『蓬莱』だったかな? 

 酒場の名前も定かに覚えていない……ボケたのかなぁ……都電が走っていたような気がする……。

 探すことがそもそもおかしいのだ。

 樋口とは彼のやっていた店で会ったようなのだが……。確かめる術はない。

 みんな冥界に旅立ち、わたしだけがのこされた。

 わたしだけが、あくまでモノ書きとしての自覚だけで生きてきた。

 作品なんか書かないし、書こうと努力してもことばを紡ぎだせない。

 記憶がうすれていく。

 ムカシはヨカッタ、と独白する筒井さんの作品の老人、ソノマンマのわたしだ。

 あの作品名は? 

 思い出せない。

 のちに半村と名乗り、『収穫』で賞をとり、文壇に華々しくデビューした男とわたしは酒を飲んでいた。

 このへんだったはずだ。

 わたしは麻績部(オ ミ ベ )のネタを話していた。

 彼はみごとに『闇の中の系図』を書き上げた。

 あの中の第五章、グリーンホールの部分に麻績=嘘部については詳述されている。

 しかし、半村さんも触れていないことがある。

 伊勢大神宮の神衣職との繋がりから服部半蔵にまでは言及している。

 いまでも、遷宮のときにきりだしたご神木を運ぶのには野州の大麻をない合わせた綱を使っている。

「麻の綱なので、神木を引くとキリキリとひき締まって音を立てるので、それをありがたがるひとがいます。神が神木に乗り移った音だとよろこぶのです」

 麻を仕入れにわたしの店にやってきた伊勢の荒物屋の主人がそういっていた。

 そしてあの作品中の大学教授は神衣職と忍びのことは明言していない。

 麻績部はオミベ。麻から神官の着る布を織っていた。

 オミベは忍海(オシミ )。忍(オシ)は忍者の忍。

 そこまでしか書いていないが作者半村良の洞察力には感服している。


 むかしから『麻屋』を表稼業としてきたわが家に――。

 『いぶり勘七』という仮位牌が仏壇の隅に置いてある。

 母はよほど「いぶりっこき」――「小うるさいひと」だったので、戒めとしてこんな戒名みたいなものを付けたのだろうねといっていた。

 富山奏 校注の『芭蕉文集』で伊賀に『飯降(イブリ )』という姓があるのを知って愕然とした。

 芭蕉のそして忍者の郷、伊賀はわが家のルーツの近くだ。

 わが家は江戸時代までは姓は『但馬』なのである。

 丹波但馬の出だ。木村というのは、長男は兵役に服さなくてすむ。それで、板荷の木村さんの兵隊養子になった。徴兵令のがれで、木村と名乗るようになったのだという。それでは、長男はどうしたか。那須の千本松で酪農を始めた。但馬の姓が存続しているらしい。 日露戦争の頃のことだ。

 半村さんだったらこのことだけからでも、素晴らしい物語を書き上げたことだろう。

 能無し、残された時間も乏しく、金も無しのいまの境遇では、わたしには筋のとおった話を紡ぎだすことなど望めない。

 物語を織り上げることなど望外のことだ。


「西村寿行。森村誠一。半村良。やがて三村時代が到来する。彼らは、みな天賦の才に恵まれている。オレの力など必要とはしていない。木村、おまえはダメダ。ぜんぜん文学のセンスというものがない。地虫のように地べたをはいつくばって努力してもまずだめだろうな。天空に飛び立つことは不可能だ。そのおまえを彼らの仲間に入れて四村時代にすることだってオレには出来るのだ。どうだ。魂を売らないか? オレと契約しないか」

 闇からの陰鬱な誘惑の声が聞こえてきた。

 それとも歌舞伎町のネオンもとどかない裏路地を彷徨するわたしの耳にとどいた、あれは幻聴だったというのか。

 はやくおいでよ。はやくおいでよ。

 一緒にお酒飲もう、お酒飲もう。飲もう。むかしの飲み友だちの懐かしい声がゴールデン街の裏路地にはのこっている。

 樋口の声も中上の声もする。さっと店から手がのびてきてわたしはスタンドに座らされていた。

「あらぁ、めずらしい。何年ぶりかしらね」

 まだ若すぎるママだ。

 だれかと見違えている。

 白い厚化粧。表情が解読不能。

 これは、わたしの眼病のせいであり、まだ薬がきれていないせいでもあるのだろうか?

 もう薬はきれているはずだ。


「なにじろじろみているのよ。むかしの恋人の顔わすれるほどモウロクシタの。キムラさん」

 アワアワアワと叫びながらわたしはスタンドから転げおちた。

 頭骨前面の右の眼窩がボッカリと暗い空洞となっている。

 だがまちがいなく**子だ。

「恨んでるんだから。わたしを病院におきざりにして東京にいってしまうなんて。ひどいとおもわない」

「そんなことはない。きみがあんなに不意に死んでしまうなんて」

「想定外だっていいたいの。恨んでいるのよ」

 眼窩からだらりと蛆虫がおちた。

 だらだらと蛆虫はつながってわいてくる。

 わたしは腰をぬかした。

 はって逃げ出した。

「バア」

 悪魔が熊手をもって冷笑している。

 女の手にひかれたと思ったのは熊手で引き寄せられたのだ。

 スタンドも飲み屋も跡形もなく消えている。

 補食しようとでかけてきた。わたしは悪魔に反対に捕食されようとしている。              

「いいかげんに、気がついたらどうなのだ。おまえはおれの手のなかから逃げ出すことは出来ないのだ」

 悪魔は羊皮紙をちらっかせて、契約を迫る。

「生命保険だって……お前の年では契約できないはずだ」

「契約、契約と迫るな。いいかげんにしてよ。もうこれだけいたぶれば、気がすんだろう」

「そうは、いかないね。これからがたのしみなのだよ」

 わたしが拒絶する。

 悪魔は熊手を引っかけ鉤にかえた。

 わたしをまるでマグロを運ぶ魚市場の仲買人のように引きずって歩きだそうとした。

「たすけて。たすけてくれ」

 闇のなかで声がする。

「どうしたのおじさん」                             

 若い娘だ。

 悪魔だ。

 でも、**子によく似ている。

 ワウワウワウワワワわたしはこんどこそ泣き出していた。             

 ブアッと光が広がる。

 闇から声をかけ、わたしをいたぶっていた**子に変化(ヘンゲ )した悪魔が消える。こんどは光のなかで声がしている。                       

「わたしのこと、かたときもあなたが忘れていないのはよく知っています」     

「**子、**子なのか。姿をみせてくれ」                    

「**子」                                   

 まちがいない。

 彼女の声だった。

 光のなかにぼんやりと彼女のなつかしい姿をみた。

 **子は宇都宮のY眼科病院で死んでいった。

 そして、半世紀もたったいまわたしは、白内障の手術をすることになった。

 眼を病むことの悲しみをしみじみと感じている。

 **子をこの肉眼でもういちど、もういちどでいいから見たいとせつなく思っている。



 わたしは宇都宮に帰ってみることにした

 ……新宿から乗り継いで東北新幹線を利用すれば門限までには帰ってこられる。

 上野、宇都宮間は45分くらいだろう。むかしだと簡単にこの時刻だと往復できる距離ではなかった。


 ……あのとき駅舎から外にでると街はすっかり黄昏ていた。

 **子と駅前の『白十字』まで歩くことにした。

 彼女は目の前でひらりと手を翻した。

 優雅なしぐさだった。

 ひらり。

 ひらり。

 彼女は日本舞踊の家元の娘だった。

 そのことこそ、わたしたちの交際が認められない大きな原因だった。

 ものになるかどうか、わからないビンボー作家など彼女の両親は相手にしてくれなかった。

 ひらり。

 まるで舞をまっている淑やかな所作だった。

 だがわたしは不吉なものをその手の動きに感知した。

「蚊がとんでいるのよ」

「冬だよ。この寒さのなかで蚊が飛び交っているわけないだろう」

「だって、飛んでいるものは飛んでいるのよ」

 ヒラリ。

 ひらり。

 と舞のしぐさで、手を目前の虚空に翻している。

 彼女は飛蚊症だった。

 なるほど蚊ということばがはいっていた。


 **子の目の病を治したかったらオレのいうことをきけ。

 ひさしぶりで闇からの声が囁き掛けた。

 かわいそうだろう。おまえは彼女を愛していないのか。

 それとこれは別だ。

 わたしは誘惑にさからって応えた。

 いや、同じだ。

 契約書にサインするだけでいいのだ。

 ただ収穫の日はこちらで決めさせてもらう。

 単純明快じゃないか。

 契約書にサインするだけでいいのだ。

 おまえは、もっといい小説が書けるようになる。

 文学界の新人賞もとれるぞ。

 どうだ。

 イイ話じゃないか。

 サインしろ。

 なぜそんなに意固地になる。

 オレを毛嫌いする。

 古くからの知り合いじゃないか。

 お前が、子どものころからの知り合いだ。

 ナゼいやなんだ。

 釈明しろよ。


「飛蚊症だけではなかったみたいなの。目をとらなければだめだって。失明するだけでなく、ほかに転移すという診断なの」


 転移する? ガンなのか。

 眼球がガンに冒されるなどということがあるのか?

 医学には全くの門外漢のわたしには、どうすることも出来なかった。

 それに、交際をみとめてもらっていない弱味もあって、なにも口出しすることはできなかった。


 たとえ、そういうことになっても結婚しよう。

 愛している。

 愛しているんだ。


「わたしが両方の目から涙をこぼせるのは……これでおわりかもしれないわ。でも、こんなにうれしい涙でさいごをかざれたなんてしあわせだわ。退院したら東京にいくわ。結婚しましょう」


 どうして、こんなことになったのだ。

 わたしは**子をだきしめた。

 彼女の背中に涙をこぼしていた。

 いつでも一緒にいる。

 いつまでも離れないで生きていく。

 そう誓いあっていたのに……。


 これではひどすぎる。


 彼女はしあわせになぞなれなかった。

 手術の当日わたしはすこし遅れた。

 なぜ遅れたのか記憶があやふやになっている。

 手術室の前の廊下には彼女の親族が結集していた。 

 和服をきているひとがおおかった。

 わたしはダメージジーンズ、黒のタートルネックのセーター。

 彼らは彼女の眼病の原因はわたしにあるというように、ジット睨みつけてきた。

 無理もない。

 わたしは尖ったペンで原稿を清書するのが嫌だった。

 苦手だった。

 苦手どころか、長いことその動作をつづけていると嘔吐の気配におそわれる。

 原稿を書くにも、ペンや鉛筆の先端を見つめていると体が震えだしてしまう。

 千枚通しで書き上げた原稿を閉じるなど思いもおよばなかった。

 ようするに、幼少の頃からの先端恐怖症が続いていた。

 そんなわたしにかわって彼女が原稿を整理してくれていたのだ。

 目が疲れる。

 とくに、原稿の清書をすると目が疲れるといっていた。


 睨まれても、無視されても非はわたしにある。

「いやあ」

 というような、絶叫が手術中の赤ランプのついた向こう側からもれてきた。

 彼女の声だった。

 わたしは心拍が停止するような恐怖を覚えた。

 いたたまれず、廊下から中庭に出た。

 噴水から水が噴き上がっていた。

 水が赤く色づいていた。

 むろんわたしの錯覚だ。

 だがなにもかも赤く見えた。                               

 彼女の声を聞いたのはそれが最期となった。                    


 彼女は病院で死んでしまった、らしい……。


 わたしに会わせないために親族が嘘をついている。

 はじめはそう思ったが、いつになっても彼女とは連絡がつかなかった。


 ボッカリと空いた目の穴をひといちばい美意識の鋭敏な彼女は、わたしに見られたくはなかったのだろう。

 穴があいている。醜い穴があいている。

 暗い穴があいている思われることがいやだったのだろう。

 そう思っても、彼女を失った悲しみしは癒されることはなかった。


 年老いてわたしも白内障の手術をすることになった。

 当然のことのように彼女への想いが生々しく蘇った。

 いや、片時も忘れたことはなかった。


 宇都宮の街はどこもかしこも餃子の匂。

 一杯飲みたいのをがまんした。

 Y眼科病院は建て増ししてむかしの倍近く病棟が広く、立派になっていた。

そしてここは、気がつけば、わたしが幼少の頃入院した病院の跡地だった。

幼少のわたしがアノモノと会った場所だった。

 教会から晩鐘が鳴り響いているではないか。

 わたしは病院に忍び込んだ。

 忍びはわが家のDNAに深く潜在している。

 先祖が忍者だったらしいのだから。

 体が自然と動いてくれた。

 彼女の入院していた部屋が見たかった。

 彼女の死んでいった部屋にいけば彼女に会えるかもしれない。

 わたしは常軌を逸していた。

 あれから何年たっていると思うのだ。

 会いたい。

 もういちど**子、会ってあなたをつれて逃げられなかったことを詫びたい。

かけ落ち、ふるさとから逃避していれば、あなたは死ななくてすんだはずだ。

世間体とか、親の反対とか、そんなことを蹂躙してしまえばよかったのだ。

 わたしが臆病であったがために……あなたを死なせてしまった。

 リノリュウム張りの長い廊下には人影はなかった。

 病院は医師や看護師、各部署のスタッフがいて、患者がいるから世間とつながっているのだ。夜の人気のひいていた病院は異界に変わる。

 異形のものが跳梁していても違和感はない。

 そんなことを考えながら歩きまわった。

 手術室の在る場所もかわってしまっていた。

 めざす、病室もわからない。

 帰ろうかと思ったとき、院長室からかすかな笑い声がもれてきた。

 わたしは、その声をきいただけで身の毛がよだった。

 恐怖の発作におそわれた。

 たえてひさしい……あの忌避してきた声だ。

 取り入ろうとして卑屈。

 脅そうとして傲慢。

 いかようにも声を変えることのできる者が部屋には存在している。

 ともかく、声をきいているだけで、蛇の穴になげこまれたような恐怖を覚える。

 ぬらっく感触で体をなでまわされる。

 探られる。嫌悪感が襲ってくる。

 それはいっぽうてきにかかってくる闇からの電話の声。

 巧みな誘惑の声。

 あの声が部屋からしていた。

 こちらで呼び出しに応じなければいつまでもなりひびく悪魔からのコーリング。

 電話に出ればでたで、性懲りもない契約への勧誘。

 エデンの園からうけついできた最強のセールストーク。

 よほど強固な意思の持ち主でないと逆らえない。

 蛇がのたくっている。

 肌に感じる嫌悪感だけではすまされなかった。

 生臭い臭いまでしてきた。

 骨の髄まで恐怖が染み込んでくる。

 わたしは、それでもおそるおそるドアを開けた。

 広い洋間には黒い薄煙のようなものが漂っていた。

 いや、淡いブルーも混じっている。

 わたしは、できることならこのままドアを閉めて立ち去りたかった。

 心拍の高鳴りが警鐘だ。

 立ち去る、なんて生易しい行動ではもうまにあわない。

 逃げるのだ。

 逃げるのだ。 

 だが、そうしなかったのは好奇心からではなかった。

 怖いものを見たいという心の動きからではなかった。

 彼女が手術された現場、あるいは死んでいった部屋を見たかったのだ。

 生来、心臓の弱かった彼女が手術のショックから立ち直れないで死んでいったという病室を探していた。

 わたしは、彼女へのいまにいたるまでの強い愛にささえられていた。


 革張りのおおきな椅子にだれか座っている。

 その周囲で青と黒の霧はさらに濃く邪悪さを秘めて渦動している。

 飴でもしゃぶっているような音がチュウチュウとしていた。

 信じられなかった。Y院長はむかしのままの若さを保っていた。

 息子だとしても若すぎる。

 孫か?



「だれですか、わたしの密かなたのしみの邪魔するのは……ゆるしませんよ」

 院長は口の中になにかいれてしゃぶっていた。

 **ちゃんの***はおいしいな。

 口の中にはいっているものがおおきすぎるためか、声がよく聞き取れない。

 マホガニの豪華な机の上には梅酒のビンがずらりと並んでいる。

 淡い濁りある液体の中でなぜか梅が揺らいでいる。

 間接照明をあびてビンの中の梅の粒々がざわつくように動いている。

 振り返って正面からわたしをにらみ付けた男の手はだが老人のものだった。

 顔だけがみようにてかてか脂ぎっている。

 チュチュと口の中の梅をころがしながらしゃぶっていると、その皺だらけの手首に艶がでてきた。

 みるまに、張りのある顔にふさわしい肌の張りと滑らかさをとりもどした。

 口から玉を吐きだす。

 濡れてかがやく黒い舌で玉を中空でもてあそんでいる。

 無邪気に玩具とたわむれる幼児のようだ。

 爬虫類の尖った長い舌で玉をからめとってはなげ上げる。

 なめまわす。

 いかにもたのしそうだ。


「絶望がせつないほど目玉にのこっている、残留思念がつよい。若ささの元だ。回春剤になるのだよ」


 梅などではなかった。

 梅酒のビンなどではなかった。

 つけられているのは人間の眼球だった。

 院長がしゃぶっているのは眼だった。

 患者からえぐりとった眼球をしゃぶっているのだ。

 **ちゃんといったのがどうしても彼女の名前のように聞こえてなららない。

 壁に写った陰。

 あの枝角をはやした悪魔のものだった。


「おや、ご老人にはわたしの姿が見えるらしいですね」

「きさまなんてことをする」

「おや、あなたでしたか。その声には聞き覚えがありますよ。声だけは衰えていませんね。だれがいっても契約をとれないと伝説の男……。このインパルスの強さはたまらないな。あなたの眼球はおいしだろうな。……レンズをいれて視力を回復させるなんてもったいないことはできませんね。どうです。いまからでもその眼を譲ってくださいよ。代価は時間をもどし、彼女を再誕させて、眼ももとのままにはめこんであげますよ。あなたはもういちど、こんどは彼女と仲良くしあわせに暮らせますよ」


 沈黙。

 わたしが応えを保留していると悪魔がつづけた。

「よかろう……プレミアをつけてあげよう。若くして文学賞をとれるようにはからってやる。これでどうだ」


 プレミアなんかつけてもらう必要はない。

 文学賞など問題ではない。

 じぶんの非才はじゅうぶん納得している。

 賞をとったくらいでどうにもなるものではない。

 だが彼女がいて、文筆で暮らしていけたらとはねがっていた。

 彼女とともにやりなおすことができるのなら。

 べつにベストセラー作家になんかなれなくていい。

 ほそぼそと原稿料で暮らせていければ、それ以上のことは期待しない。

 時間がもどり彼女とともにやりなおすことができるなら、すべてを認めよう。

 わたしはどうなってもいい。

 文学をすてたっていいのだ。

 彼女と生きていけるのなら。

 もうそれで満足だ。

 ああ、彼女に会いたい。

 愛していた。

 愛している。

 たとえ一年でもいい。

 いや一日だっていい。

 彼女に会って話をしたい。

 わたしの両方の目を捧げてもいいのだ。

 一目会えるならもうそれで死んでもいい。


「おや、承諾してくれるのですか。うれしいな。すぐに羊皮紙の契約書を用意しますから」

「だめぇ」


 悲鳴だ。

 あのとき手術室からひびいてきたとおなじ絶望の悲鳴。

 絶叫。


「ダマされているのよ。わたしはあなたの中にいる。あなたが生きているかぎり一緒にいるんだから」


 声は院長の口の中からひびいてくるようでもあった。

 ほら、眼は口ほどにものをいう、というではないか。

 悪魔の口の中にある彼女の眼球が口をきいたのだ。


「かみくだきますよ。のみこみますよ」

「やめろ」


 わたしは絶えず悪魔に監視されてきた。

 彼女もそのために悪魔に魅いられたのだ。

 もうしわけなかった。

 ごめんな、**子。

 わたしは悪魔との因果律を断ち切るべく全身の気を両手に集めて、つきだした。

 青白い光が両手から放射される。

 ということには、ならない。


「やめろ」


 わたしは男にとびかかった。

 男の頤がしゃぶっていたものをかみくだいた。


「どこまでバカ女なのだ。こいつとやりなおせる人生をどうして選ばないのだ」

「あの、ビンをうちこわして」


 こんどははっきりと彼女の声はわたしの内部から聞こえてきた。

 悪魔の口からは膿汁のような粘液が涎のようにたれている。

 ゆるさん。

 ゆっくりと彼女の眼球を咀嚼しながらのみこんでいる。

 わたしはその隙に数々の眼球が漬けられたビンをつぎつぎに床にたたきつけた。


「なんてことをしてくれたんだ。オレさまのコレクションを……だいなしにしてくれたな。よくも、よくもおれさまの長生きの秘薬を……」


 青黒く渦巻いていた霧が凝固する。

 実体をともなった人形(ヒトガタ)にみえる。

 亡霊(ゴースト)は劫苦にうめき、頽れ(クズオ )た鬼気迫る姿勢で手探りをしていた。怨嗟の呻きの底でかさかさと床を探る手つきには、賽の河原で石を求め、積み、塔を作る者たちの空しい動作を思わせるものがあった。

 そしてかれら亡き者たちの積年の願いが報われようとしていた。

 亡者は手をのばして探り当てたじぶんの眼を嵌めこむ。

 ぼっかりと黒い眼窩にそれぞれの眼をひろいあげて嵌めこんでいる。


 ありがとう。

 ありがとう。


 光り輝きながら昇天していくではないか。

 回春薬効のある目玉を失ったショックで悪魔の肌はみるまに青黒い鱗状になった。

 鱗は赤黒いかさぶたとなり、剥げ落ちた。ぶすぶす燻っている。

 なめていると回春効果があった眼球が、噛み砕いては、あまりにその薬効が強すぎて悪魔といえども、耐えられなかったのか。

 あるいは恨みのこもった**子の眼球の意思が悪魔の体を滅ぼしたのか。

 昇天していく者たちの怨念があの光の中から放射されたのか。

 光の中に神が存在していたのかもしれない。

 われわれを誘惑し恐怖をあたえ、それを糧として吸収して存在していた者が消えていく。


「またくるぞ。すぐもどってくるからな」


 それは咆哮にちがいなかったが、まぎれもなく苦鳴でもあった。

 声が中空でひびいた。

 すさまじい腐臭をのこし院長は消えた。

 あたりにはしばらくのあいだ腐肉の悪臭がただよっていた。


 わたしは、明日、左眼の手術をうける。

 そのときの執刀医がこのいま消えた男に、もどってきた悪魔に見えたらどうしょう?


「かかったな。ついに罠にはまったな」


 そんなことをいいながら悪魔にみえる医師がメスをわたしの左眼にさしこんだらどうしたらいいのだ。


「さんざん手こずらせやがって。メンダマくりぬいてやる。玉をえぐってやる。命(タマ)をとってやる」


 とメスをきらめかせて威嚇されたらどうしたらいいのだ。

 とても手術用の椅子に座る勇気はない。

 ジジイだって命は惜しいのだ。

 いや老い先みじかいからこそ一日でも長く生きていたいとねがうのが人情というものだ。

 悪魔にメスをつきたてられて、羊皮紙に契約の署名を強要されるのだけは御免被りたい。



 わたしは病院の近くの餃子屋の暖簾をくぐった。

 とても一杯やらずには女子医大の病室に帰れなかった。

「旦那、目が悪いんですか」

 東京から餃子を食べに来たのだ。

 というと、おやじは饒舌なになった。

「あれ、旦那はあそこの病院にかかってるんじゃないんで」

 わたしがちがうというと、男は声をひくめた。

「あそこは、悪い噂がたってるんですよ。まあ、あまり大きくなったので、街のひとのやっかみでしょうがね。だれかれかまわず、白内障の手術をして、金儲けしてきたって噂ですがね。悪くないのに目玉摘出までやっているって……」

 街のひとは『目玉御殿』と呼んでいるとのことだった。

 さすがに眼科病院の近くの店だ。

 餃子で飲んでいるわたしの目が、白く濁っているのを看破した。

「Y病院も大きくなったもんだな」

 といったとたんに、とんでもない情報を聞かされた。

 隣の焼き鳥屋にしなくてよかった。

 だいいちあの串のとんがりが怖い。

 わたしは悪魔との戦いのなかで、先端恐怖症が再発してしまった。

 尖ったものが怖い。

 尖ったものを考えると体が震える。

 悪魔の三叉鉾は三つの尖った先端を持っている。

 考えただけでも戦慄する。

 頭頂から足のさきまで震えが走る。


「木村さんダメジャナイ。明日は午後からオペですからね」

 ナースの声は**子の声。

 やさしいやすらぎをあたえてくれるような声。

 胸元のネームは、カードはついていない。

 たしか、このナースの名前は……。

 ****という文字が蚊が飛んでいるようにみえる。

 もういちど見直そうとした。

 ナースの声は隣室でしている。

 オペのとき、彼女のように恐怖の叫びをあげて、すべてがプツンと断ち切られ、闇の世界にいかなければならないのだろうか。

 それがわたしの運命なのだろうか? 

 わからない。

 そのときはそのときだ。

 わたしは、半村良の嘘部シリーズを増殖させて長編小説を書きたい。

 そんなイタズラをしても彼はゆるしてくれるだろう。

 その小説を書きあげるだけの時間が欲しい。

 その小説の中で、わたしは、彼女への《愛》を書き上げたい。

 この年になるまで愛しつづけてきた彼女のことを書きたい。

 だいいち、それだけの時間がわたしには残されているのだろうか。

 わからない。

 先が読めないからまだわたしはひとの世に住んでいるということなのだろう。

 そうよ、あなた、と彼女の声が聞こえる。

 生きていて……わたしのぶんまで長生きして。

 わたしは、いつもあなたの中にいる。

 愛しているわ。

 いつまでも、あなたのそばにいる。

 あなたとともに生きて、あなたを愛しつづける。

 わたしたちは、ふたりでひとりなのよ。

 これでいいのだ。

 これでよかったのだ。

 なにも不平はない。不満があると悪魔に魅いられる……。

 闇を見てきたわたしに、闇の声を聞いてきたわたしに、しばしの静謐がおとずれようとしていた。

 死に臨んで、いままでの生涯の出来事が、フラッシュバックとなって再現されている。脳裏に蘇っている。だいいち、白内障の手術くらいで、死に臨むなんて、大袈裟過ぎる。

 ステンレスの皿に、よく尖ったメスがならべられている。

 金属音がする。

 尖ったほうを丹念にまちがいなく並べて、揃えているのだ。

 カチャカチャと音がして、ナースが近付いてくる。

 いまのところ、闇からのコールはない。

 わたしは目を閉じて深呼吸した。

 ひんやりとした手がわたしの額にふれている。

「さあ、目を開けてくれますか。始めますよ」

 医師の声がする。


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