第5話 貴婦人の立っている場所
5 貴婦人の立っている場所
1
女であった。
白いドレスを着ていた。
細いからだに白いドレスがよく似合っていた。
周囲は緑の湿原。灌木や草がむせかえるように茂っていた。
木であった。
白い樹皮の幹が緑の湿原にすらりとのびていた。
それは木であり女でもある。小田代ケ原の湿原に立つ一本の白樺の木。はじめ、「彼女」と呼ばれた。「伯爵夫人」そして「貴婦人」とニックネームはかわった。だが、いまも昔と変わらず、霧の中にその高貴な白い肌を誇らしげに曝している。
その呼び名の移り変わりに梶今日介は歳月の推移を感じていた。
「ざんねんね。わたしの赤ちゃん、貴婦人に見てもらいたかったわ」
「なに言ってるの。まだお腹の中でしょう」
娘の響子は霧が晴れれば見えるはずの一本の白樺に「貴婦人」と呼びかけている。妻の美智子は無邪気な娘の言葉に頬笑みで応えていた。
今日介が美智子と知り合ったころは、あの白樺は「伯爵夫人」だった。東京のサラリーマンがこの白樺に魅せられて「彼女」と呼んで通い詰め撮影した。
白樺の彼女を写した写真展が評判となった。
カメラマンが小田代に殺到した。誰もが彼女に会いたかった。彼女の姿を一目見てカメラに収めることを熱望した。彼女を独り占めにしたい。じぶんだけのものにしたい。まさに恋愛だ。
皆に愛されている白肌美人の白樺。そして、その気高さからまもなく「伯爵夫人」という称号が与えられた。今日介が知り合ったころは、すでに彼女は伯爵夫人という愛称で呼ばれていた。だから、今日介にとっては、彼女ははいつまでも、永遠に「伯爵夫人」なのだった。
霧に遮られて妻にも娘にも、樹齢80年と推定される白樺が見えていない。
今日介には見えている。
あの頃と変わりのない湿原がそこに在った。白樺が霧の中に見える。目前に在るように見える。いや手を伸ばせば抱きしめることができる。湿地帯から草原へと移りゆく悠久の時の流れの中の景観に比べたら、わたしの一生など刹那に等しい。
「霧が晴れれば、ここからなら白樺が見えるの」
「おかあさんの思い出の場所ね」
響子がはずんだ声で応える。
妻と一人娘の響子だけを見て生きてきた。これからも……生ある限りそうするだろう。美しい家族に恵まれて生きてきた。美しい家族に囲まれて生きてきた。幸せだった。わたしのように、体ばかり大きくて、風采の上がらない男には美しすぎる妻であり娘だ。
サワギキョウだろう。紫色の群落となって咲き乱れている。可憐な三センチほどの唇形の花。湿原や沢に生える花といったら、やはりキキョウだろう。と、今日介は思った。この歳に成り、限りある命を自覚してみると、自然の動植物の名が奇妙に気になる。再び来る年にも、これらの花を見られるだろうか。
妻は知らない。今日介は癌を宣告されていた。早世した友人でもある作家星野研治の死因と同じ肝臓癌だった。
妻と二人で、仲良く老けこんでいけると思っていたが、それはむりらしい。
星野よ。わたしも肝臓癌だ。同じ病気で死ねるなんて、因縁だよな。
星野よ。お陰さまで、わたしたちは平凡ではあるが楽しく暮らしてきた。それが、きみの美智子への愛を犠牲にしたことによって成り立ったものだということは、わたしは知っている。ありがとう。わたしも、もうじきそちらへ行くからな。まず、わたしから感謝の気持ちを伝えて置きたい。でないと、そちらで再会したときに……なんといったらいいか戸惑ってしまうだろうから。もっと早く、詫びておくべきだったのに……ついこの世ではその機会がなかった。
2
奥日光に遊ぶことをいいだしたのは今日介であった。
娘の響子が、東京から受胎告知のためにやってきた。宇都宮に住みながら今日介はあれ以来、奥日光にはきていなかった。
響子は妊娠を期に、「モデル業を引退して育児に専念するわ」と妻に話している。色白ですらっとした容姿。妻に似ている。だが、身長が180はある。
娘が子どもを産もうとしている。わたしも、そうなれば、オジイチャンだ。それまで、生きていられるだろうか。生きていたいと思った。
T・アンソニーのバックから血の滴るような赤い口紅をとりだしている。唇にぬる。父親からでも、ゾクッとした魅力がある。背が高いだけで、見栄えのしない今日介が美しい妻と娘に伴われていると、観光客がふりかえる。おや、という羨望の眼差しを感じる。
今日介は、末期の癌患者の目に小田代が原から戦場が原、尾瀬がどう映るのか、見ておきたかった。金光花が群生し、ホザキシモツケのピンクの花はすでに季節を過ぎていた。
太古より徐々にその相貌をかえてきた草原にも林ができ、樹木が生い茂ることになるだろう。山林が出現するまでに、何世紀の経緯がいるのか。それまでに、どれだけの時が流れると言うのか。
3
梶今日介に女が追いすがってきた。
女は星野健二を追いかけてきた――はずだった。
女は高見美智子だった。星野とは同じ大学の同じ学部の学生だった。ゼミの合宿で奥日光の南間ホテルに泊まっていた。暮れていく小田代が原の景観をホテルの展望台から望遠鏡で眺めていた。その視野に星野が見えた。湿原のほうに歩いていく。まちがいない。星野だ。それで追いかけてきたのだ。
思い切って背後から呼びかけた。いまこそ星野に告白するつもりだった。ずっと好きだったのだ。就職が決まれば別れわかれになってしまう。
「星野さん」
美しい顔に落胆の色が浮かんだ。ホテルの前庭を横切って湿原へ散歩に行くらしい星野の後ろ姿を見かけたのだ。まちがいなく星野だった。星野でなければいけなかったのだ。今宵こそ星野と二人だけで話がしたかった。女は白のブラウスに薄いサマーカーディガンをはおっていた。美しい女であった。夏が去る。夕暮れると涼気をおびた気持ちのいい風が吹きだしていた。
湿原の林道を今日介は女と歩きだしたカ―ディガンのすそがときおり風にひるがえっていた。女はひとりでもどる機会をうしなっていた。女はいまさらひとりで、ひきかえすわけにはいかなかった。闇が迫っていた。どうせ、同じゼミの仲間だ。女が追いかけてきた星野の親友だった。
どこがで……すれちがってしまったのだ。星野だとおもって追ってきたのに……。いつもわたしを見る目がやさしい星野だった。好意をもってくれている。女の直感だ。ひかえめな、おとなしい性格だった。細面、そして男にしては色白な顔立ちからも見て取れた。それでいて、文学サークルでの発言は鮮烈だった。たえずなにか、問題を提起していた。そんな星野を美智子はずっと好意を寄せてきて。好きだった。
星野ではなかった。美智子は運命のいたずらを感じた。
「すこし歩きませんか」
平凡な誘いの言葉。いまならまだ断れる。でもこのとき、美智子はなぜか今日介の言葉に応じていた。誘いにのって歩きだしていた。
「梶さんは就職は……どこにするのですか」
団塊の世代で学生の数も多かった。就職もK大学の経済学部といえども、厳しかった。
「ぼくは、故郷の鹿沼――この日光の隣町で学習塾をやっているオヤジの後を継いでもいいかな――と、かんがえている」
「わたしはどうしょうかな」
高見くんは? と今日介が同じ質問をした。
今日介は会話がとぎれることが怖かった。
美智子の就職に関心があるわけではなかった。美智子に興味があった。興味というより好意だ。好意というよりも好きだった。美智子を心ひそかに愛していた。
分厚い板で作られた木道にさしかかった。濡れた板に足が滑る。ふたりは手を握り合っていた。美智子が先ほど足を滑らせた。彼が手を差しだして助けた。初めて互いに体が触れ合った。霧の湿原には夕闇が迫っていた。長い夏季休暇も明日で終わる。
経済学部の合宿ゼミの最後のよいだった。
稲妻型の木道はどこまでも伸びていた。
今日介も美智子も戻ることを忘れていた。
美智子は手が触れ合った瞬間、もうどうでもいい。つれない男、星野のことは忘れよう。三年越しの片思い。この男でいい。今日介が彼女を想ってくれていることはわかっていた。背は高いのだが、あまりいい男ではなかった。平凡な男だった。笑顔はいいのだが、黙っていると怒っているようだった。要するに、女から見て真面目すぎて、面白みのないおとこだった。女の心は今日介の親友星野に傾いていた。でも……潮時かもしれない。この男でいい……。この男と結ばれる運命だったのだ。
星野に声をかけた。梶がいた。間違いなく星野がいた場所に梶がいた。
美智子は事の成り行きを甘受することにした。
するとふいに胸が高鳴った。
霧が深かった。闇がふたりを包んでしまった。今日介は美智子を引き寄せた。彼女はさからった。追いかけてきた星野への未練があった。心ではもうどうでもいい。あきらめた……つもりなのに、いざとなってみると体がさからった。
湿原のにおいが濃くなった。今日介は彼女の上から離れた。離れたくはなかった。いつまでも抱きしめていたかった。
なかば、強制するような行為だった。犯している。という感じだった。
始まりはどうでもいい。彼女が体をゆるしてくれたことが、うれしかった。
今日介はずつと彼女がすきだった。愛していた。片想いだった。この女となら生きていける。彼女が側にいてくれさえしたら、それだけで毎日が楽しくなるだろう。永遠に彼女を抱きしめていたかった。辺りは、すでに闇につつまれていた。彼女が身づくろいをしていた。幽かに月光がさした。真の闇というわけではなかった。湿原の草が月の青白い光に呼応して光っているように見えた。においがさらに強くなった。幾千年となく堆積した落ち葉や草の葉が腐蝕土となって水にとけこんでいる。そのにおいだろう。昼の間にあぶられて蒸発したものが夜の大気に冷やされて下降してくる。大気には粘つくような、からみつくような土の微粒子のにおいがふくまれていた。
4
湿原が草原に、灌木が大木になる。生態系の変化をみとるまで、それまで……生きることは、われわれ人間にできるのだろうか。
今日介は回想のなかで佇んでいた。
それまでとは、いつか?
どれほどの年月が過ぎて行くのか。
5
霧が足元から湧いていた。
雲が裂けて月の光がさしていた。光は灌木の上部を照らしていた。
霧はたゆたゆと流れながら、さまざまな形に姿を変えていく。今日介が熱望する イメージするものに変化する。渦巻き、灌木にひっかかってはちぎれながら、乳 白色の霧の渦ははげしくうねる。白樺がもだえる。女体を形作っていく。
白樺からの声が聞こえた。
今日介は白樺のはなつ念波が形作る力場にとりこまれていた。霊光が白樺の幹から周囲にあふれていた。それがうねり、女の体に見えた。
「なにをお望みなの」
白樺が囁く。朧な女体の姿から声がした。
「なにを望んでいるの、今日介。言ってごらんなさい。恐れることはない。わたしはいまもここにいる。今度は、なにを望んでいるの」
声が囁きつづけた。あの時と同じ、つい昨日聞いたような声。
「なにを望んでいるの。不死を望んでいるのかしら。死にたくなくなった。生きつづけたい。そういうことかしら」
あの時のようには、今日介はすぐには応えられなかった。沈黙。
沈黙に耐えられず、高鳴る拍動で、あの時、若い今日介は応えていた。
「ぼくは感動を、死に至らしめるような感動を知りたい。死をもいとわない、歓喜などというものが文学作品で創り上げることができるのかな。あるとしたら、そういう小説の書ける作家になりたい」
愛する女の心は星野に傾いていた。
「わたしは……才能あるあなたたちが苦しむのが好き。あなたたちが、嘆き悲しむのは、わたしの快楽。もっと悲しむのよ。悩んで、悩んで狂い死にするがいい。華厳の滝に投身した藤村操は……おいしかったわ。あの男の哲学的に悩む涙は体液は、甘露、甘露、いま思い出してもよだれがでるのよ」
「おねがいします。ぼくを小説家にしてください」
「今日介、あなたの望みはちがうでしょう。あの尾崎美智子と結ばれることでしょう」
「それは……」
「星野健二も作家志望。彼には才能もある。その希望をかなえてあげることにした。今日介両方望むのは贅沢よ」
「では、ぼくは尾崎美智子さんと結ばれるように、お願いします」
「素直ね。そうしなさい。幸せに暮らせますよ」
あの時、今日介も軽く噛まれていたのだ。
霧の中に潜むものの怪に……。数十年人の血の中で眠り続けるウイルス。C型肝炎ウイルス。血から血につたわるもの。……今日介は密かにD型と呼んでいる。Dであれば、すべて辻褄があう。ドラキユラのDあれば。白樺の彼女は伯爵夫人だ。ドラキュラ伯爵夫人なのだ。
そして或る日、目覚め、収穫を始めるのだ。星野の死の病を今日介も病んでいたのだった。ウイルスは悪魔……唇から首筋に伝わる……。死期がせまっている。青年期のように観念的思考だけがよみがえった。
あなたは、精霊ですか。あなたは、小宇宙で血を支配する意志ですか。
あなたは死ぬことをねがっても、死を成就することのできない存在、そのためにひとを嫉妬している、ひとの芸術への感動を吸いつくすことで、憂さを晴らしている、吸血鬼なのですね。白樺に呼びかけていた。
そうよ、わたしは昔鬼怒沼にすんでいたの。訪れる人もいないただ草花の美しく咲き乱れる村落だった。村には若者がいなかった。でも、わたしは機を織り嫁に行く日を夢見ていた。おさの音がとだえることはなかった。ところがやっと訪れた若者を見てわたしはこわくなった。おさを投げつけて逃げ帰った。若者の胸に不幸にもおさがつきたった。若者は血を流して死んだ。それを神様に咎められた。わたしが若者の血を吸ったと誤解された。わたしはここ小田代が原に幽閉された。湿原がわたしの棺なの。ここ『二荒の地――日光』からはでられない。神に寄って封印されているの。永遠にココからは出られない。
そうよ、だからわたしは伯爵夫人。わたしは吸血鬼。若者の才能ある精を吸いつくして生き続けるの。さあ……もうこの応えでいいでしょう。女との平凡な生活を選ぶのなら……いきなさい、ぐずぐずしていると、この場であなたを吸いつくすわよ。
「わたしは、女とをとる。文学をすてても生身の女への愛にいきる。尾崎さんと結婚する。できればだけど……」
「それは、心配ないわ」
木々の葉や枝が拍手するように風に鳴った。
霧がうねる。超現実的な人型の霧がうすれて、白樺が、霧の中に立っていた。今日介はそこで美智子に声をかけられた。背後から呼びかけられた。名は、今日介のものではなかった。
「星野さん」
今日介が密かに愛していた尾崎美智子だった。
彼女は間違っていた。呼びかけてはいけなかったのだ。
今日介は強引に彼女を誘った。林道を湿原へとふみだした。そして今日介は彼女と結ばれた。女は着衣の乱れを直していた。今日介の後から付いてくる。今日介からは白樺もその声も消えていた。肉ある女と交わることができたからだ。これからは、この彼女がいつも側にいる。孤独から救われたおもいで、胸が熱くなった。
6
霧の中に湖が浮かんでいた。
湯ノ湖だった。
渚にかがんで今日介は湖を眺めていた。それで、目線が低いためだった。湖面が青磁の巨大な皿をふせたように盛り上がっている。
湿原の精霊は一刻、飽食し、皿をふせてわたしたちを眺め、楽しむ気なのだ。いままで、皿の上に盛って精を吸っていた。
わたしたちをほんの気まぐれから放置して……。だが、精霊にとっての一刻とはどれほどの時の流れなのか。今日介は途方もない幻想に取りつかれていた。
わたしにとっての生涯とはこの霧のなかに棲む、ものの怪には一瞬にすぎない。わたしが妻と結ばれ時から現在にいたるまでが、ひとつながりの時空の今のことなのかもしれない。
釣り人がボートにのっていた。いいあわせたように二人連れだった。お互いに、左舷と右舷に座り釣り糸を垂れていた。
ストップ・モーションをかけられた、あるいは写真の中の点景人物のようにひとびとには、動きがかけていた。
赤や青、黄色のライフジャケットをきているひとたち。鴨が群れて泳いでいた。白鳥が一羽だけ、泳いでいた。鴨と比べて大きく見えた。白さに清らかさはなかった。疲れた色合いをしていた。北に帰りそびれ、群れから離れた白鳥なのだろう。
渡去の時期を逸したはぐれ白鳥を眺める。わたしは、妻である女を愛している。始まりはどうであれ、あまり一方的であったかもしれないが、これからも愛しつづけていく。死ぬまであなたを愛するだろう。死後も愛している。桟橋が湖につきだしていた。だいぶ古く、分厚い板には傷んでいるところがあった。いたるところに窪みができていた。水分を含んだ板は京介の足音まで吸収してしまった。音の途絶えた世界で、霧がさらに濃くなった。桟橋の突端にでて湖底を見下した。わずか数十メェートル湖心に向かって突き出ているだけなのに、意外と深みがあった。青みどろに濁った水で、湖底は見えなかった。波が桟橋の杭に打ち寄せていた。ロープで繋がれたモーターボートも揺れていた。
雨になった。岸辺のブナの群葉にも、張られたままの無人のテントにも雨は降っていた。砂浜に置き去りにされた炊事用具には雨水がたまりはじめていた。雨足が激しくなる。雨が激しくなる前に、キャンパーたちは浜辺からホテルへと居場所を移したのだ。ここを離れていった。テントを見捨てていった。いまごろは、カフェのテラスからこの雨を見ているのだろう。砂がじんわりと重みをました。湖心に向かって突きだした岬でも、緑の樹木が風にそよぐさまは見ることができなくなっていた。湖面の島は霧に塗りこめられ、彼の周囲ではかすかに波が砂浜を打つ音だけが存在していた。
広大無辺な湿原の沈黙。人間の一生など刹那に過ぎない。広漠たる広がりの中で、芥子粒ほどの存在なのだ。
今日介はけ深く息を吸い込んだ。
ここは、彼が妻との出会いの場所、霧の流れる高原、ひとの、動植物の気配すら希薄な湿原であった。今日介は人生を踏み出した場所に回帰してきていたのだった。
わたしは梶今日介。
でも、星野健二でもある。彼はわたしの中にいる。と、今日介は唐突に思った。
わたしたちの個体差など、自然を前にして何ほどのことがある。
星野もあの時ここで、伯爵夫人の声を聞いたはずだ。どうしていままで、それに気づいてやれなかったのだろう。星野も今日介も同じ女を、尾崎美智子を愛していた。彼女の片思いなどではなかった。星野も確かに彼女と結ばれることをねがっていた。今日介は何度も星野からそれを聞かされていた。
ただ、星野は文学を選んだ。プロになれたら命はあなたに捧げます。
と――、羊皮紙に血で悪魔との契約書に署名した。
今日介の世代では、栄光の頂点で死んでいった芸術家が多すぎる。彼らは……。悪魔と契約したものたちだ。
夏をこの湿原、小田代が原で過ごしているはずだ。これは、そうかんがえることは……早死にした者たちへの冒涜だろうか。
星野は美智子を選ばずに文学への道を進んだ。
でも、未練はあったはずだ。
でも……わたしに美智子と結ばれる運命を譲ってくれたのだ。
今日介は思う。……自分にこだわり過ぎたから、星野の心情が見えていなかったのだ。
7
霧が流れてきた。
視野をおおった。
霧がたなびき、うねり、乳白色の濃淡のみの世界になった。
霧にはやさしさがあった。
慈悲を感じた。
やりたいようにやるがいい。
そして、霧はさらなるうねりで完全に湿原を隠してしまった。
すべてが無に帰した。
8
今日介は老いた。
コンクリートの模造丸太で作られた柵に寄りかかった。息をととのえるためだ。
娘が母になにか話している。彼はもう先に進めないでたる。
いままでにも、なんどか柵にもたれて休んだ。人は朽ちることを忌み、コンクリートで丸太を作り、柵で危険領域への歩みをこばむようにしむけている。
しかし、彼には柵の向こう側の世界がよく見える。
太古より普遍の摂理が感じられる。かれは断崖に沿って何処までも伸びる模造丸太の柵によりかかって……息をととのえていた。
「おかあさん、わたしが生まれたとき、うれしかった」
娘が母親に訊いた。
霧が深い。
すぐ側にいるはずの、彼女たちが見えない。
「それは……もう……」
妻が娘に応えている。
声がはずんでいた。
9
わたしは女を選び、結婚した。
平凡に生きたい。
いま、妻は娘の声に幸せそうに応えている。
星野は作家への道を選んだ。
ここで、小田代が原で別れて以後、星野が書いた膨大な作品群はもちろん彼の天賦の才によって達成されたものであったが、それだけとは、才能だけとはいえないものがあった。
作品の影には、甘露、甘露と悦楽にうねる白樺のそして霧の精霊の女が見え隠れしていた。収穫の時季がきて、女が大鎌をふるったのだ。作家となった星野はもう十年は生きたいと慟哭していた。
表向きは肝臓癌で、五十代半ばで死んでいった。星野の悲しみは、はたして、もっと作品を書きたい、未完の作品を書きあげたい、それだけだったのか。星野の死から、さらに十数年が過ぎた。
一日に三十枚も書けたのに、もう五枚書くのも億劫だ。筆で日記を書けるような心境、そうした文学を楽しめるような老境まで……せめて……あと十年でいい……生きていたい。彼は朝日新聞のコラムにソンナコトを書いていた。
あの切り抜きも黄ばんで色あせている。妻の日記に挟んであった。彼は美智子を好きだと言うことを、わたしに伝えてくれ。といっていた。わたしは伝えなかった。
美智子にはいわなかった。わたしは、星野が彼女を好きだ、ということを伝言しなかった。無視した。
あのコラムが、彼の絶筆となった。どうして、会いにいっていやれなかったのだ。筆で日記をつけたい。というのは、わたしの口癖だった。
書家の家に生まれ、父の遺髪を継げなかったわたしの自懐だった。筆で日記……最後には彼はわたしを許していたのだと思う。彼も美智子を、いまは今日介の妻となっている美智子を愛しつづけていたのだと思う。彼が彼女を愛していることを告白されたが、あの夏……今日介はそれを彼女には伝えていなかった。
今日介は白い霧の中へ潜むモノの怪に話しかけていた。
あの夏がすべての始まりで、終りだったのですね。
でも、星野の美智子への愛も、ここで終わった訳ではなかったのだ。
ここでわたしたちは結ばれたが、星野の愛は彼女を愛する心は結晶化を拒まれたまま、在り続けたのだ。死に臨み、すべてが失われようとした時、まだ美智子を想い、わたしのことを思ってくれていたのだ。
筆で日記を……と星野が書いたのを読んで、わたしたちに、あるいは美智子に……宛てたメッセージだと気づいていたのに。せめて、美智子だけでも、星野に会いにいかせればよかった。
妻を星野に会いに行かせる――。
「あなた、星野君やせ細って……苦しそうで、見ていられない。わたし帰れない。いいかしら。許してくれるかしら。わたしこのまま星野君のそばにいてあげたい」
そういう事態になることを恐れずに、妻を星野の見舞にいかせるべきだった。わたしは、なんと、度量の狭い男なのだ。
わたしも星野もあの時、白樺の伯爵夫人の、同じ誘惑の声を聞いていたのだ。
「ぼくは小説を書くことを選ぶ」
悲しみながら星野はそう返答していたのだ。そう応えてくれたのだ。
「おれにはどういうことか現実がぼやけてしか映らない。霧の中の風景のようで、なにもかも薄い幕をとおしてみるような感じなんだ。女が入ってくる場所はないんだよ。おれは、じぶんの小説をかきつづけて死んでいくのがふさわしい気がするよ。それが、運命なのだと思う。今日介、おまえさんは美智子さんと結婚するといい。彼女を幸せにできるのは今日介だ。さぞや美しい娘を産むことだろうな。これからは、おれときみらとの生活圏は重なることはないだろう」
心の底に封印して置いた、あの夏の感触がよみがえってきた。
視野いっぱいに広がる湿原の緑。むせかえるような緑の洪水。
白い幹が微動している。光のパルス……発散される緑の精気。
星野は美智子との結婚をあきらめた。彼は、小説家になる道を選び、伯爵夫人に精をすわれつづけて死んでいった。わたしは、美智子との結婚を選び、浅ましくも、生きながらえた。
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