第6話 パソコンの中のアダムとイヴ。
6 パソコンの中のアダムとイブ
神の手荒な爪先が追いすがる八十歳のイブ達よ、
明日の朝あけ、君達は果たしてどこにいるのだろう?
ボードレール『小さく萎れた老婆達』より
陽光に一瞬目がくらんだ。
盛夏。太陽がギラギラと街をあぶっている。
コンクリートの舗道から熱気が反射する。その輻射熱でさらに蒸し暑い。
村木正はぐっしょりと汗をかいていた。老いの身にはこの暑さは過酷だった。
バス停までの距離がみように遠く感じる。老齢のために体力がおちている。リックにつめこんであるワープロが過剰な負担を体に伝えてくる。体が弱っている。認めたくはないのに。……このていどの重量が過負荷となるようではやはり歳が足にきているのだ。
寄る年の波がしだいに下腹部に打ち寄せ、容赦なく足に到達したということなのだろう。
この戦慄するべき老齢化の波が爪先からぬけていったら舗道に倒れ伏すことになるのだろうか。
人生にはいろいろある。一過性だからほとんどのことが初体験。
なにが起こるかわかったものじゃない。
もっともそのスリルがたまらなく楽しいのだ。
TWMUの付属病院放射線腫瘍科で下腹部に赤くマーキングした線が汗で流れおちてしまうかもしれない。放射線治療が効果があるかどうかということよりも、村木はせっかく技師がマークをいれた赤い線が、滴る汗で消えてしまったらどうしょうと不安にかられた。CTスキャンやエコーで膀胱や前立腺などの位置の見当をつけ、放射線をあてる箇所を特定する。それから腹部の中心から臍まで赤い印をつけた。臍のところへ上向きの矢印が描かれた。その矢印のある線が下腹部の剃毛したあたりに落ち込んだあたりから両サイドに赤い印がされていた。
金曜日のジェソンにチェンソーで胴切りにされたような赤いマーキング。帰宅したときに、それをみて若い妻のキリコは複雑な表情をうかべた。
鋭利な刃物できざまれたような赤い線が両の太股の外側にも伸びていた。これでモルグの台に仰向けになれば……死体と見紛うような、殺傷されたものと視認される。しかし、村木には背中に背負ったリックのワープロがもう備品切れで修理不能と宣告されたほうがショックだった。
下校時だった。高校生がじゃれあいながら村木を追い越す。
反対側の歩道沿いにスカイラークがある。女子学生がなだれこんでいく。
暑い熱射を避けてアイスクリームをたべながら豊潤な青春のひとときを楽しむことだろう。アイスクリームと総称で呼ぶことはできる。それは幾種類にもえだわかれしている。個々の商品名を上げられない。ファミレスに入ったことはない。ハンバーガーなどたべたこともない。そんなことを告白したものなら、まるでカンブリア期からきた、あるいは異界からきた生物を見る視線がむけられることだろう。
暑い。注意してストローハットをかぶってきたものの村木の顔には強い光が直射している。あまり強い白昼の陽光に頭がくらくらする。(ああ、むりして病気のからだなのに修理不能となったワープロなど受取りにこなければよかった。幾つになってもあさはかなことばかりしている)と、ひとりごちたところでどうしょうもない。
バスがきた。バスがきた。走るにも走れない体をよろよろと進めてなんとかステップにもちあげることができた。
「待たせないでくださいよ」
非情な運転手の声があびせられ、村木はウッと息がつまりそうになる。
すでに座席についているものたちの。
侮辱をあらわにしたまなざしが。
いっせいにこちらに向く。
いますこし優しい言葉をかけてくれるか。
まったく無視するかくらいの態度をとれないのだろうか?
ああ、田舎はいやだ。いやだ。
どうして東京へでられなかったのだろう。
近所の老婆を猟銃で射殺したり。
気にくわない隣人を車でひき殺そうと迫ったり……。
ともかくゴキンジョトラブル最多発地域なのだからしかたがない。
学校でのイジメだって全国一位をキープしている。
テレビでもコメンテーターが口角泡をとばしてしゃべりまくり。
もっともシャベッテナンボという職業なのだから。
ケチはつけられないが、なにもわかっていない。
イジメ世代のこどもたちが大人になってきている。
あるいは中年になってきた。
だから街全体が殺伐としてきた。
そんなこといってもしょうがないちゅうの。
運ちゃんに文句をいわれたぐらいで、ことを荒立てる気はない。
席を譲ってもらえないくらいで腹をたてる気などもさらさらないが。
悲しいよ。
(このリックが目に入らぬか。
リックの中はポリタンクだぞ。
ポリタンクの中はガソリンだぞ)
ポケットにある百円ライターはと探していると乗客総立ち、運転手はあわててハンドルをきったからバスは歩道に乗り上げ、建物の外壁とクラッシュ、横転……なんてことが起きるわけはない。
バスは冷房がきいていた。
ききすぎている。
あまりの温度の変化に体がついていけない。
頭がくらくらする。背中のワープロがゴツゴツする。
体がふるえているのだ。
「おじちゃんリックどけて」
猛禽類の甲高い叫び。
横をみる。
頬骨の高い顎のとがった意地悪そうな巨女。
村木をにらみつけている。
眼がいらだちと侮蔑の光をおびている。
たしかに通路をふさいでいる。
女も。すれちがうことはできそうにもない。
村木はトラップにすがっているので手を離すわけにもいかず。
離したところでリックを置く場所もない。
しかたなくじりじりと横に体を移動させて乗降口まで退く。
それでもまだ豊満な女をとおすことができない。
バスがいつのまにかとまっている。
村木はステップから後ろ向きのまま歩道に降りる。
女は体をゆっさゆっさとゆすりながら村木のあとから降りてきたが――。
彼のことはまったく無視したままだ。
すれちがうときに村木のストローハットの縁でじぶんから頬をこすった。
「なにさこの帽子、わたしのだいじな顔に傷つけて」
と、わざとおおぎょうに手をふった。
手が帽子に触れた。
女達によくわめかれる。
スーパーでよたよた歩いていると。
どいて、じやまよ、と声を掛けられる。
むかしはもっとやさしかったのに。
親切にせつしてくれたのに。
ああ、帽子がはねとばされた。
帽子はくるくると回って飛ばされた。
車道の真ん中に着地した。
車にひかれてしまった。
村木はじぶんの頭がひかれたようなショックを感じた。
グシヤっと頭を潰されたような恐怖。
バスは村木をおいて発車してしまった。
どうしてこんな理不尽な仕打ちをうけるのか。
理解に苦しむ。これがこの地方の風習だ。
なん年住んでも、馴染むことができない。
意地悪なひとがおおい。もちろん親切な人もいるのだが。
いつものことだから、さしておどろきもしない。
子供の世界のイジメが大人の世界にもある。
子供は大人になっていくのだから……。
これはあたりまえのことなのだろう。
バスはたったふたりの乗客が降りただけなのに。
きゅうに軽々と発車してしまった。
村木はガクッときた。
二足歩行にたよるか。
次のバスを待つか考えた。
歩きだすほうを選択する。
女は歩道から消えていた。
東芝のRupoはその発売当初から使用していた。
いまさらペン書きにもどることはできない。
ペンで原稿を書いていたころ。
書痙になったことがある。
右肩から腕にかけて美智子は、いまは亡き妻はよくもみほごしてくれた。
あたたかくやわらかな美智子の頬がすぐそこに在った。
かぐわしい匂い。
それは美智子のすきだった。
真紅のオールドロウズの。
ムスクの匂いに似ていた。
田舎町なので小説を書く仲間を集めるのに苦労した。
なんとか同人雑誌をはじめた。
そのころ、赤線が法律の改定で廃業に追いこまれた。引揚者の寮になった。
そこで営業していた軽印刷所に頼んだのがはじめだった。
ガリバン印刷だった。鉄筆でヤスリ板の上にのせた蝋原紙をガリガリ切る感触。
冬の寒さの中でもストーブなどなかった。
指をこごえさせて鉄筆をはしらせている。
あのころはどこの軽印刷所の主人もよく耐えていた。
座業からくる背中の痛みや孤独とたたかっていた。
そして貧しさ。貧乏人は麦を食えといわれた時代だ。
わたしも、いまもこの指がおぼえている。
ガリガリと鉄筆で文字を書く感触。
ガリ切りなどという言葉も、いまでは死語となっている。
ああやだ。やだ。長生きなんかするもんじゃないな。
そして和文タイプの時代が到来した。
じぶんたちの書いた原稿が活字で読めるようになった。
でも、印刷費は高騰した。
ほかの物価にくらべて印刷費の値上がりには、うちのめされる思いだった。
新聞紙の折り込みが増えた。
PR時代の幕開けだった。
印刷屋は、もう文学青年のチャチな同人誌などあいてにしなくなった。
印刷費は上がり続けた。
地方の文学青年にとって忍耐の臨界こえていた。
収入のほとんどをつぎこみ身重の体で美智はパートにでるはめになった。
じぶんたちで和文タイプを購入した。
とはいっても、新品ではむりだった。
印刷屋の中古品を温情で格安に譲っていただいた。
村木は蔵書を古本屋に買いとってもらった。
あのときも美智子には泣かれた。
がらんとした本棚の前で凋落した薔薇の花のように。
うなだれ悲しみの涙をながしていた。
華奢な、美智子のことは泣かせてばかりいた。
あのころの印刷屋さんもみんな死んでしまった。
ああやだ。やだ。長生きなんかするもんじゃないな。
代がわりしている。
転業してしまったところもある。
回顧しながら重いリックをゆすりあげた。
ムスクの匂いがただよってきた。
あたりに薔薇の花はない。
生け垣すらない。
美智子が生きていて、心配してついてきているようだ。
わたしのこの意気消沈とした老体に涙をながしている。
いくたびも難局に遭遇したとき美智子の涙にすくわれてきた。
こんなわたしを……信じてついてきてくれる妻がいたからだ。
作品を書き続けてこられたのだ。
あいかわらず太陽が眩しい。
輻射熱に目がちくちくする。
白内障かもしれない。
白内障にかかると光に敏感に反応して外光が眩しく感じるらしい。
リックがポロシャツをこすっている。
びっしょり汗ばんでいる。
シャツはブルックスブラザースの黒だ。
乾くと汗の塩が白く斑点となる。
塩分が体から蒸発したぶん補給したほうがいいのだろうか。
血圧がたかくて毎日ノルバスク錠5mmを服用している。
塩分をおぎなったほうがいいのだろうか。
いや、水だけでいい。
血液どろどろになる。
水は飲まなければ。
さして健康な生活をおくってきたわけではない。
病弱なのに体のことはなにもわからない。
ああやだ。やだ。長生きなんかするもんじゃない。
第二章 パソコン
いつしか時代は。
謄写版印刷から和文タイプ。
写植。
そして個人でもワープロで。
簡単にさいしょから活字で小説が書けるようになった。
そしてパソコン。
ハードウエアのほうは予想もしなかった発展をとげている。
活字というより、電子文字の時代だ。
原稿が活字になるということが――。
小説家としてプロになる――。
というくらいの意味をもたされていた。
いまではペン書きで。
原稿用紙を使うものなど。
ほとんどいなくなっている。
村木もごたぶんにもれず、パソコンを買い入れた。
が、自由に使いこなせるまでには至っていない。
パソコンにむかった。
電気屋は線をつないだだけで、さっさと帰ってしまった。
スイッチをいれて、なんとか言葉をうちだすまでに一週間かかった。
キーボードはワープロでなれていた。
問題はなかった。
だが、打ち上げた文章を保存する方法とか。
呼び出しとか。
あまりに複雑なので焦燥にかられた。
若者が素早くこなしてしまう手順が理解できない。
複雑な手順とかんじているのに、彼らには単純なのだ。
説明とてくれる言葉そのものも理解できない。
しまいには泣き出してしまった。悲しかった。
ついついワープロにもどってしまった。
パソコンで思わぬトラブルが起きてしまったからだ。
「うちあげた文章が消えちまった。どうしよう」
「わたしに相談されてもこまるわ」
後妻のキリコは結婚するまでは保険会社に勤務していた。
パソコンの操作を教えてもらえるとひそかな期待をいだいていた。
外回りだったから、パソコンは必要としなかったから、といわれてしまった。
でも彼女の勧誘で加入していたおかげで、たすかっている。
病院への支払は心配せずにすんでいる。
「なんとかしてよ。一か月もかけて書き上げた長編小説なんだ」
「デスクに保存しなかったの」
「その方法がわかれば苦労しないよ」
「神田さんを呼ぶわ」
キリコはてきぱきと難事を処理する。
ともかく保険会社に勤務していた。
事務能力には卓越したものがある。
電気屋さんは、パソコンを売り、線をつないでくれるだけ。
高齢者はガイダンスを読んでも理解できない。
だから教室にかよわなければだめ。
そんなことがわかりかけてきた。
神田さんは、パソコン教室を開設していた。
「かんたんに消えてしまうことはないのですがね」
電光石火とみまがう指さばきでパソコンの中を探してくれた。
復帰を計ってくれた……。
だがついに……。
小説はどこかにいってしまった。
呼びもどすことはできなかった。
それは恐怖。
それはパソコンへの真摯な怒り。
絶望だった。
一か月の苦労が水の泡となって消えてしまった。
それからというものワープロだけが頼りとなっていた。
そのワープロの画面がブラックアウトした。
文字が浮きでてこなくなってしまった。
そして、部品がないので修理はもうできない。
といわれてしまつた。
製造を停止してから10年はたっているのだから文句のつけようがない。
第三章 歩くGG
太陽にあぶられている。
歩道際の雑草のにおい。
平成通りを走る車の排気ガスのにおい。
飲食店の裏のビニール袋からもれでる腐敗臭。
それらすべてのにおいがまざりあっている。
夏のにおいの中を村木は歩く。
いろいろあるな。
なにがいろいろあるのか。
わからない。
生きているからこそ五感で世界をとらえている。
ともかく、年だとは思いたくない。
こうして生きている。それだけでも、ありがたいことだ。
記憶力はまだあまり衰えてはいない。
体力は確実におちこんでいる。
美智子と出会った日々のことばかり想っている。
寂光の滝の観瀑台まで東武日光駅から歩いた。
それから植物園とその対岸の憾満が淵をまわってお化け地蔵を拝観した。
ほぼ半日歩きつづけた。
それでもつかれなかった。
楽しく暮らした日々のことばかり想っている。
ああ、あのころがなつかしいな。
美智子がこの世にいないなんて……悲しいことだ。
こうして歩いていても、隣に彼女は不在だ。
村木には耐えられない。
できるだけ長生きしてやる。
このさきなにが起きるか、みきわめてやる。
などと粋がっている。
年寄りの冷や水だ。
ぐちっぽくなった。
作家を志した友の半ばは鬼籍にはいっている。
むなしく、無名のままでおわってしまったものもいる。
新人賞を獲得して、華々しく文壇に登場しそのままかきつづけて大家となっている友もいる。
村木はどうしても、フルタイムの作家になりたかった。
ハードカバーの著書を一冊でもいいか出版したかった。
書店の本棚に自分の本が並んでいるところ見たかった。
本棚から自著をとりだして立ち読みしたかった。
チャンスは二度ほどあった。
月刊雑誌に書きためた短編をまとめないかという話があった。
そのつどトラブルが起きた。
背中のワープロは3台目だ。
初めてのワープロは3行だけしか画面に表示されなかつた。
いまは2児の母となっている智代が高校3年生。
次女の理沙が中学2年生。
学が小学3年生のときだつたから、30年も前のことだ。
近ごろ、年代別にものごとを整理して思いだせない。
時系列からみたらひどくあいまいな記憶だ。
記憶がノッペラポウになってしまったようで戦慄を覚える。
新しいことは記憶できる。
昔のことはなかなか思いだせない。
時間がかかる。
やはり、どう気負ってみても。
記憶力そのものが弱くなっているのだ。
わたしは、だれでしょうか?
と、ひとに訊ねるようになったら。
どうしょう。
もちろん、そのときは自己の存在が崩壊しているのだ。
悩みもなくなっているだろう。
人間は記憶の集積でできている。
それを思い起こすことができてこそ。
生きがいがある。
生きているといえるのだ。
ワープロだってご同様だ。
保存した小説をどこにやってしまったのだ。
ほらまた記憶にゆらぎが生じている。
あれはパソコンだ。
小説を飲みこんでしまったのは。
デスクトップのいまは使っていないパソコンだ。
そもそも、二台目のワープロのことを思いだしていたのだ。
二台目は、5行。
三台目になって、ようやく19行。
村木の背中で永久の眠りについたRupo JW95GTだ。
みんなみんな、よくノウナシのわたしとつきあってくれたよ。
……ときどき、いらついて、叩いたりして、ゴメン。
周りのものにあたるなんて、最低のやつだよな。
アイソがつきたのだろう。
だから不貞寝なんだ。
おきてよ。あやまるから、なあ、たのむよ。
もういちど動きだしてよ。
いや、いつになっても進歩のないわたしの小説にあきれてしまったのだ。
もうつきあいきれない。
それで永遠の眠りについたのだ。
村木は背負った赤ちゃんをゆすりあげるように。
リックの尻に両手をそえて。
もちあげる。
足がもつれた。
運転手にいじわるされて、見切り発車されてから歩きつづけてきた。
JR宇都宮駅まではまだ遠い。
坊やはよい子だ、ねんねしな……。
はじめての男の子、学がうまれたとき。
うれしくてよくおんぶしたものだ。
村木は後ろに手をまわし、リックを支えあげて小さな声で歌いだした。
坊やはよい子だ……。リックの中にはワープロがおさまっている。
……うちの美智子さんはどこいった、どこいった、替え歌になっている。
美智子の顔がちらちらする。
美智子どこにいっちまったんだよ。
涙声になる。
ジジイのわたしを残していくなんてズルイヨ。
どこにいるんだ。
ボウヤノオモリハドコイッタ。
美智子さんはどこにいる、どこにいる。
涙がでた。
涙が頬をつたってとめどもなくながれおちた。
涙腺がゆるむ。
涙があふれてとめどもなくながれおちる。
どうして、こんな意地悪をされるのだ。
どうして、老人をおきざりにするのだ。
どうして、見切り発車して平気なのだ。
ああ、地獄だ。
わたしがいるのは地獄だ。
ここは地獄だ。ここで舞え。
ここで生きていけ。
そうした言葉でじぶんを励まして生きてきた。
故郷にもどってきてから、いいことはなかった。
美智子と東京へもどりたかった。
このGGには――。
この荷物でこの重量で。
この暑さで水も補給しないで。
帽子もかぶらないで1時間余りの二足歩行はすこしきびしすぎる。
頭がくらくらする。
考えがまとまらない。
この、この、とおなじことばが頭に浮かんでは消えていく。
苦行にはなれているつもりだ。
いままでだって苦しいことならいっぱいあった。
でもそのうえ、感覚がにぶくなっている。
これしきのこと。これくらいのことで負けるものか。
平成通りの往復二車線を轟音をあげて輻輳する車にもあまり危険を感じない。
年だな。
感覚がやはり鈍くなったのだ。
真夏の太陽を反射して。
無機的に光っている。
この世でもっとも獰猛で兇暴な鉄の獣。
ダンプカーの疾走してくる前を平然と歩く。
赤信号なのに横断歩道を黙々と渡っているひとりぼっちの老人。
とまではなっていないが、村木の感性も怪しい。
とくに老婆におおい。驀進してくる車にも配慮しない。
信号も、ゼブラクロッシングの表示のない車道をよたよたと歩く。
うつむいて横断しているのをときどき見かける。
思考の黄昏。
危険にたいする警戒心がうすれている。
迫りくる危険にたいして、鈍感になっている。
死神と同居しているようなものだ。
この年になるまでには、かずかずの危ないことをのり越えてきている。
危機意識が麻痺してしまっているのだろう。
あるいは、孤独な老人は自殺願望にとりつかれて……。
車の前を歩きたがるのか。
それにしても、ワープロが使えないのでは、どうしょうもない。
泣きたいよ。
いまさら手書きにもどるのはいやだ。
ワープロだったら、いくらでも訂正がきく。
推敲がらくだ。
インク消しを使った。
あの匂い。
なつかしいな。
なんども消しているうちに原稿用紙に穴があく。
そのうえに切り張りをする。
さらに訂正、推敲する。
あんなに、手間のかかる手書きに戻ることはできない。
背中に重くのしかかる。
機能しなくなったワープロ。
ゴッゴッしている。
第四章 ジャンク
背後に両手をまわしている。
リュックを赤ちゃんだった学をゆすりあげるように、手のひらで支えている。
こうするといくぶん軽く感じられる。
リュックの底は堅くゴツゴツしている。
その感触をリックの布越しに感じながら。
村木はやっと鹿沼駅に降り立った。
あいかわらず、暑い。
駅前を左折してハードオフに寄る。
その店になぜ寄ろうとしたのかわからない。
引き寄せられたような気がする。
左折したというはっきりとした意識もない。
暑さで頭がぼんやりとしていた。
そこで、まさに村木にとっては、奇跡としかいいようのないことが起こった。
ジャンク製品の棚に、グレーのボディの富士通のノート型パソコンが陳列されていた。それも、手頃な、いや安すぎる値段だ。
なにかワケありなのだろう。
まだ全機能健全です。
という付箋がついていた。
この値段だったらいますぐにでも買える。
もういちど、パソコンに挑戦できる。
来週の金曜日から放射能線治療を受ける。
病院の往復には4時間もかかる。
こんどこそ、小説を書くための最小限の操作は覚えてやる。
おまえを征服してやる。
征服なんておおげさなことではない。
こころが高揚している。タメシ打ちをしてみた。
「ジャンクだから返品も修理もできません」
と、念を押す店員の言葉など耳にはいらない。
家路をいそいだ。
まさかジャンクにしても、ノート型パソコンが手に入るとは予想もしていなかった。うれしかった。
早速、家に帰って使いだした。
まったく支障はなかった。
それどころかフラットなのでキーの反発も柔らかい。
打ちやすい。
印字もきれいだ。
プリンターにつないでの印刷時間。
ワープロの時よりはるかに速い。
紙繰りももちろん自動なのでさらに時間を短縮できる。
村木は年甲斐もなく興奮した。
新しい玩具をあたえられた幼児のように。
はしゃぎながらパソコンを打ちつづけた。
ノート型で慣れれば……。
すでにあるデスクトップのパソコンも。
こんどこそ打てるようになるだろう。
操作できるようになるだろう。
パソコンで打ったからといって。
小説の内容までアップデートできるわけではない。
精進だ。精進するのだ。
病院の行き帰りに見たこと聞いたことをしつかりと記憶すること。
鈍くなっている感覚。
ふるくなっている感性を更新しなければならない。
そのために、神が絶好のチャンスをあたえてくれたのだ。
こころして精進せよ。
そんな神の声がみみにひびくようだ。
ひとは病院に生きるためにいく。
わたしには、死に方を学ぶために行くのだとおもえる。
いま罹っている病気のこと。
その病状。
それにともなう不安。
あせり。
絶望。
けっして、若い妻のキリコにはもらすことのできないものだった。
村木は奇跡的なこのノート型パソコンとの出会いをパソコン教室に神田先生に伝えた。
質問もあった。
「ワープロのフロッピーをパソコンに読み取らせて保存することはできますよ。オプションが必要ですが」
村木はうれしかった。
書きためた小説がオシャカにならないですむ。
全部まとめてデスクトップのほうのパソコンに移して保存してもらった。
長年使いこんだワープロは機能を停止した。
電源をつないでももう反応しなくなった。
書斎のかたすみに置いた。
座布団を敷いてやった。
使用した期間を書いた。
油性の白のマジックペンで書いた。
なにか、墓碑銘を書いているようで寂しかった。
そのうち戒名をかんがえてやろう。
マジでそうかんがえた。
パソコンで小説を書いてみた。
デスクトップの方にいままで書きためた原稿が保存してある。
心強かった。
いつでもノート型の方へも移転できる。
書斎を持ち運んでいるようなものだ。
ところが、パソコンがすこし変だ。
村木の書き上げた文章の下に赤い波線がでる。
「それは、文脈の乱れや誤りを注意されているのです」
と神田さんがていねいに説明してくれた。
たしかに、いまだにぬけていない方言や文法上のミス。
長すぎる文体。
いかようにも解釈できそうなアイマイな箇所。
に波線がついていた。
「ちいさな赤丸がついているのは、どうしてですか」
パソコン教室の先生たちが寄ってきた。
村木の手元をのぞきこんだ。
沈黙した。
「ときには、二重の赤丸がついていることもあります。
よく書けましたね――と小学校の先生が生徒の作文につけてくれる。
あれとおなじです」
ほかの先生たちも絶句したままかたまった。
神田さんが文章をうちこんでも。
なにもかわったことは起きなかった。
怪異はそれだけではすまなかった。
しばしば理解できないことが起きるようになった。
やはりワケありの機種だったのだろうか。
しばしば変異があらわれる。
パソコンが有機体のようにおもえてきた。
怖くて、気楽に文章がかけなくなった。
推敲までしてくれる。
できるだけ易しいことばで書く。
短く書く。
そんな習慣がついた。
おかげで、だらだらと句読点もうたず。
垂れ流すような文体が改まった。
第五章 通院
1
村木の病は前立腺癌。
父が死んでいった病だった。
遺伝を気にしてはきた。
トマトを常食としてきた。
すこしでも体にいいといわれることは試してきた。
栄養には配慮してきたつもりだ。
10年も前から肥大はあった。
癌ではなかった。
肥大にたいしては治療の方法もなく。
6か月おきに血液検査をしてもらっているだけだった。
それが半年前の定期検査で腫瘍マークがきゅうに8を超えた。
前立腺超音波。
生理検査(前立腺針生検法)。の二通りの検査をうけることになった。
●検査室にはいりましたら、下半身の衣類をぜんぶ脱いで内寝台へあがってください。
●肛門から超音波の器械をあて、形や性状を診ます。
というガイダンスにしたがってつぎつぎと検査がつづいた。
生検をうけることになった。
脱衣カゴのそばの椅子に座る。
ズボンからパンツまでいさぎよく下半身につけていたものは全部脱ぐ。
若い看護婦さんに、美人だったりして……。
チンボコさわられたら……。
老いたりといえども男だ。
不本意ながら……早い話が勃起したらどうしょう。
……どうしょう、と村木は心配になってきた。
ところがいざいざホンバンになった。
案ずることはない。
不安でチンボコは縮みあがった。
ただでさえソチンだ。
亀の頭のように、ゴメンナサイと皮のなかに潜りこんでしまう。
ふらふらとした足取りですぐ目の前にある診療椅子に座る。
ふいに、椅子が45度回転して、診療室の中央を向く。
妊産婦の分娩のような姿勢。
股裂き状態。
Mの字に股を開いていると、さらに――。
椅子が自動的に移動を開始する。
カーテンがひかれている。
向こう側は見えない。
看護婦さんの声が妙にやさしくびく。
2
「右4回。左6回。針さします。痛みはありません。音がしますがだいしょうぶです」
だいじょうぶ。
な……わけがない。
ガシヤと肛門の中で音がするたびにチンボコがちぢみあがる。
とはいつてもちぢみあがるべきモノはすでに下腹部に潜んでいる。
戦慄が肛門から背筋をつたつて頭頂までたっした。
結果は3か所から癌細胞が検出された。
ガンときた。
なんておやじギャグをとばした。
内心は不安と絶望におののいていた。
手術ではなく、放射線治療を選んだ。
照射する部位をエコーとCTスキャンできめた。
赤いマーキングがお腹に書き込まれた。
まるでただの物体だ。
ひとではなくなってしまった。
放射能治療。
患部への照射。
通院がはじまることになった。
ノート型パソコンを携帯して電車にのりこんだ。
東武日光線の電車で往復4時間。
車内ではわき目もふらず小説を書き続けた。
キーにはなれている。
その段階の操作にはなれている。
なんの支障もない。
ただあいかわらず、二重赤丸出現の謎はとけていない。
疲れた目を車窓の景色がいやしてくれた。
利根川の鉄橋。
いくたび美智子と菜の花の咲くこの土手を見たことだろう。
思いではいつも春。
桜色に、あるいは菜の花色に霞んでいる。
友だちの出版記念会に出席するためになんども通過したこの鉄橋。
美智子はけっして同伴で出席はしなかった。
いまにしておもえば、彼女は村木の出版記念会をこころまちにしていたのだ。
ひそかに望んでいたのだろう。
3
そうにちがいない。
「あなたの晴れ姿をみたいわ」
控え目な美智子はそんなことはいえない。
いまなら……わかる。
老いの目に涙がにじんだ。
春霞の風景が涙に霞む。
第六章 美智子への想い
1
その妻の美智子が釜川に滑落して死んだ。
その日は、ある文学賞の締切日だった。
当日消印有効。日曜日だった。
「なんとか消印だけてもおしてください」
「規則ですから。ダメデス」
規則ですからそれはできません。
冷酷な声。
ケンモホロホロの対応だった。
「宇都宮の本局までいけば出せるかもしれませんよ」
鹿沼の本局では時間外だからと押してもらえない消印が。
なぜ宇都宮なら押してもらえるのだろう。
わたしは、原稿を書き上げたあとの疲労でそれを訊くことができなかった。
わたしは懸賞文壇のハルウララだ。と自称している。
自作の拙さを嘆き。
自嘲しながら。
この郵便局からなんども応募原稿を投函してきた。
「わたし、宇都宮の本局までいってみる」
済世会病院のあった付近だ。
あの辺に宇都宮郵便局の本局はある。
「もう暗い。はじめての場所だ。この賞にだしたからといって、入選するわけではない。ほかの賞に応募することにする」
「でも、あなたのだいすきな作家の名がついている文学賞よ。
それで応募する気になったのでしょう。
わたし今日の消印押してもらって投函してくる」
あのとき、美智子をとどめるべきだったのだ。
どんなに応募したくても、諦めるべきだった。
村木は膝関節炎をこじらせていた。
ながいこと座っているので足が弱っていた。
ホリゴタツで原稿を書く。
ワープロになってからというものは両手を前にだしている。
頬杖をつくとか、天板の上に左手をだして体を支えるとかできなくなった。
それで、腰に負担がかかる。あぐらをかく。足腰に悪いことばかりだ。
足をひきずりながら、停車場坂を上りJR鹿沼駅に到達するのは難しかった。
鹿沼駅から宇都宮までは約15分。
駅から夜の道を30分も歩かなければならない。
もういい。
もうあきらめる。
ほかの文学賞に応募するから。
もっと強くそういうべきだった。
妻が原稿のはいった小包(エクスパック500)をかかえて村木から遠ざかっていく。
寒い薄闇の底を府中橋を渡って、駅の方角に消えていった。
それが、美智子をみた最後だった。
美智子は宇都宮までは着いた。
だが縁石から足を滑らせた。
釜川に滑り落ちた。
冬にはめずらしい雷雨が上流の地域であった。
水量が増していた。
溺死。
村木の原稿を胸にかかえていた。
必死にかかえた原稿は死んでも放していなかった。
か細い手で懸命に小包をかかえこんでいた。
村木はいまも。
美智子が彼の原稿を胸にかかえて。
消印を押してもらうために。
夜の道をいそいでいるように思えてならない。
いや、きっとそうだ。
美智子はわたしの原稿をかかえて夜道をいそいでいる。
いつになっても、着くことのできない郵便局の窓口をめざして……。
いまも歩きつづけている。
いつになっても、フルタイムの作家になれないわたしに期待をよせて。
ただひたすらついてきてくれた美智子。
ひとり寂しく夜の片隅をさまよっている。
原稿を郵送することをかんがえながら……。
当日消印を押してもらって。
応募したところで。
予選通過もおぼつかない、駄作をかかえて。
ごめんな。
あのとき、どうしてとめなかったのだろう。
ごめんな。ゆるしてくれ。
泳げない美智子は釜川が田川に流れ込むあたりで発見された。
釜川と田川の合流する箇所の鉄柵にひっかかっていた。
1キロちかくも流されていた。
田川の河川敷に段ボールと青の防水シートで仮設した部落がある。
そこに住むホームレスの老人が水死体となった美智子の発見者だった。
「きれいな顔の仏さんだね」
駆けつけた警察官に老人は話していたという。
薔薇の花にかこまれて浮いているようだったのだろうか。
花にかこまれて流されていくオフェリヤーのようだったのか。
村木は妻の死を美化したかった。
でなかったら彼女の生涯が哀れ過ぎた。
妻はわたしの原稿をだきしめていた。
愛するものをだきしめるように。
警察の霊安室で美智子にあった。
美智子はかわりはてていた。
体は傷だらけだった。
流される過程で岸のコンクリートで擦れたのだろう。
顔にそれがないのがすくいだった。
毎朝、妻が鏡台にむかってお化粧している姿をみるのがすきだった。
朝起きるとまず洗顔する。
クレンジング洗顔。
化粧水。
美容液。
アイクリーム。クリーム。下地クーム。
フアンデイション。粉化粧。
まゆ。アイシャドウ。
ほほべに。口紅。
とくに口紅をぬって、化粧の出来栄えをじっとみつめている顔がすきだった。
今日はどんな日になるかしら。
期待にきらきら光った目をしていた。
決して開くことのない閉じられた目をみるのはつらかった。
「死化粧をしてやっていいですか」
そうことわってから、村木は持参のシャネルの口紅をぬった。
妻の唇はひえきっていた。
薔薇の花に埋れたようだった。
というのは村木の思いこみだった。
芥にかこまれてぷかぷか浮いていたのだろう。
腐敗した野菜くずの中で……死んでいたのだ。
腐った小動物とともに、浮かんで、いたのだ。
鉄柵があるので、釜川から流れてきた夾雑物はすべてそこに集まる。
泳げないので、あれほど水をこわがっていたのに……。
水死するとは……そう思うと哀れでならなかった。
青くなった唇に朱をさしてやっていると、涙がとめどもなく流れた。
妻の顔に涙をこぼしなから、ゆっくりと口紅をつけてやった。
唇と唇をつよく合わせて口紅ののりぐあいをたしかめている妻の顔。
もうみられない。
葬式がすめば灰になってしまう。
入水して死んだ作家の名を冠した文学賞への。
村木の応募原稿を胸にかえての水死。
なにか、因縁を感じた。
涙がながれていた。
村木は、狼狽した。
涙はとまらなかった。
嗚咽をもらし……涙をながしつづけた。
口紅をぬりおわった。
それでも、立ちつくし、泣いていた。
あれほど妻を愛していたのに、村木はキリコと再婚した。
ひとりで生活するのはなにかと不都合だった。
炊事、洗濯、掃除をひとりでこなすことはできなかった。
キリコは保険勧誘員だった。
色恋沙汰で、むすばれたわけではなかった。
村木の歳からいってもそんなことはなかった。
村木の妻が健在だったころからキリコは保険の外交で足しげく通ってきていた。
薔薇の栽培に興味があるらしく、彼の妻とはよく話があった。
キリコは若いだけあって、洗濯も炊事もなんなくこなした。
老いた村木によく仕えてくれた。
ただ、薔薇の世話だけはしなかった。
死んだ先妻の思いのこもった薔薇の世話をするのが憚られたのだろう。
村木のほうでも、美智子との思いでの書斎で独り寝起きしていた。
デスクトップパソコンのある脇のベッドにキリコと寝るようなことはなかった。
パソコンがベッドを見ている。
画面が青白くもえているようだつた。
美智子の嫉妬の炎だ。
彼女はわたしがベッドで狂態をくりひろげるのではないかと監視している。
と、思えてしまうのだった。
病んでいるわたしには、そんな元気はない。
あったとしても、美智子いがいの女性とは契りをかわそうとは思っていない。
あれほど愛していたのに……妻の死後まもなく結婚してしまった。
その後ろめたさもあった。
結婚は村木にも想定外のことだった。
「同じ屋根の下にすんでいるのに、家政婦みたいね」
キリコが皮肉をいったことがある。
あれほど美智子のすきだった薔薇。
鉢植えも地植えもいっせいに枯れてしまった。
グリーン・スリーヴス。
イングリュシ・ミス。
マジョリカ。
マチルダ。
マーガレットメリル。
庭から薔薇の香りがきえた。
アンジェラ、木香バラ、スパニッシュビュテイの蔓バラをからませたアーチ。
田舎住まいなので庭は広々としている。
長々とつづくヘンスにも蔓バラがからんでいた。
そのヘンスの薔薇も枯れた。
近所のひとに家の中をのぞかれている。
無防備になったようでいやだった。
庭いっぱいに咲き乱れた薔薇。
美智子の存在を表していた薔薇園が荒廃してしまった。
薔薇園が嘆いているようだった。
丹精込めて世話してくれた美智子の死を薔薇が嘆いているようだった。
ただ美智子のいちばんすきだったナイトタイム。
ムスクの香りの強いナイトタイム
だけは……。
端正な赤い薔薇だけが。
枯れた枝葉の群落と化した廃園の中にあって。
見事な大輪の花を咲かせていた。
第七章 放射線治療
病院での照射はつらかった。
膀胱に尿をためた状態で台のうえに仰臥した。
尿をいっぱいにためたまま我慢していなければならない。
いつ失禁してしまうかという不安に苛まれた。
いつも尿を一定にしておかないと位置がずれてしまう。
父のころからでは、治療法は進歩していた。
それこそ、ピンポイントで癌に侵された患部を照射できる。
そのための赤いマーキングだった。
そのために、尿をためておかなければならない。
ミリ単位のズレもゆるされないのだろう。
照射がすむと検査衣のまま廊下を走った。
がまんの限界を超えている。
まさか前をおさえるわけにはいかない。
必死の形相でどたどたとトイレにいそいだ。
照射の途中で尿をもらしてしまった。
辛抱できるとおもっていた。
まだなんとか我慢できる。
まだ大丈夫だ。
唇をいたいほどむすんで耐えていた。
ふいに生暖かいものが下腹部を濡らした。
失禁していた。
あっ、もらしている。
と感知した瞬間にジョーっとふきあげていた。
小さな噴水。
ぐっしょり濡れた尻から背中。
発泡スチロールでとった型の中に尿がたまってしまった。
恥ずかしかった。
どうして我慢できなかったのだ。
耐性の欠如に村木はじぶんの老いを悟った。
錯乱した。
意識がとんだ。
そして不思議なことだが幼児体験がふいによみがえった。
幼児をとおりこして赤ちゃんになっていた。
オシッコで汚した尻を母がやさしくふいてくれている。
そんな小さなときのことなど覚えているわけがない。
むしょうになつかしい、オムツの感触が尻にあった。
あやまる村木をいたわりながら、看護師がていねいに尿をふきとつてくれていた。涙をこぼすのを耐えなければならなかった。
ここで泣いたら最後の尊厳までなげすててしまうことになる。
最先端医療機器に鎧われた大学病院。
淡いクリーム色で統一され、カラーコーディネートされた病院。
その治療室でも、尿をがまんするのは人の意志によるものだ。
どうしても、耐えられず、もらしてしまう生理現象も太古からかわりない。
どうして人はじぶんの欲求を、生理現象をコントロールできないでいるのだ。
意志の力のおよばない領域が広すぎる。
リニアック室からパンツをはく間ももどかしく……。
検査衣の……。
恥ずかしがらずに前をおさえ。
廊下をトイレにいそぐ。
小便小僧だぞ。
小便小僧だ。
そこのけそこのけ失禁男が行く。
と自嘲しながら。
みずらを嘲笑いながら。
トイレにかけこむ。
哀れさをとおりこして、滑稽ですらあった。
尿意をどうして……。
おさえることができないのだろうか。
どたどたと廊下を走ることいくたびか。
自嘲し、じぶんを嘲笑うこといくたび。
なんとか、満期、22回の照射治療がすんだ。
苦しかった。
元気になって小説を書きたい。
その執念でなんとか耐えられたのだ。
第八章 キリコ
「キリコか。いま新鹿沼駅についた。娘たちにご馳走になっておくれてしまった」
娘たちと会食した。
帰宅がおくれた。
心配してまっているキリコへの後ろめたさから声がうわずっていた。
「いまむかえにいくわ」
村木はキリコの好意を無視して歩きだした。
放射線治療が終わった。
その効果がどうなるのか。
ゆっくりと歩きながら考えたかった。
歩くのにはなれている。
それに、放射線をあてたために副作用で痔がでてしまった。
キリコの車のシートに座るより歩いたほうがらくだ。
もの書きとしての生活がながいので、座業だ。
一日の大半を座って過ごしてきた。
痔を患うことはあった。
放射線がわるさをしたのだろう。
こんどはかくべつ辛い。
雷雨があったらしい。
道にはいたるところ水たまりができていた。
おおきな水たまりだ。
避けようと車道のほうへ体を傾けた。
轟音。
とっさに、雷雨がもどってきたのかとおどろいた。
そして、衝撃。
はじきとばされた。
激しい痛み。
全身の激痛。
暗転。
「もう、あんたぁ、ドジね。コイツ足をくじいただけじゃないの」
会話をきいただけで、ふたりがどういう間柄かわかる。
「こいつの女房を川に転落させたときの。あの女の恐怖にひきつった顔が。ちらついて思うようにハンドルきれなかった」
ふたりの会話で美智子が事故で死んだのではないことを知った。
美智子は釜川に滑落して死んだのではなかった。
美智子のむごたらしい死を知らなかった。
わたしは、殺人犯の共犯と結婚した。
いくら、身のまわりの世話をしてもらうために結婚にふみきったししても。
これは美智子への裏切りだ。
許してくれ。
なにも知らなかった。
許してくれ。
どうせ入選するあてもない原稿だ。
投函などたのまなければよかった。
まだまだ生きていられたのに。ごめん……美智子。
「あんたは、いつもドジよ」
キリコがわめいている。
足がすごく痛む。
声がでない。
頭をうった。
脳しんとうでも起こしているのだろうか。
木の香りがする。
どうやら製材所らしい。
キーンキーンという金属音が迫ってくる。
音はゆっくりと、接近してくる。
薄暗がりなので人影しか見えない。
黒いふたりのシルエット。
大声でしゃべっているのはキリコ。
コイツとはわたしのことらしい。
わたしは殺されかけている。
うそだろう。
キリコがこんなことをするわけがない。
うそだ。
なにかのまちがいだ。
悪夢だ。
悪夢からさめてくれ。
さめてくれ。
これは、悪夢だ。
さめてくれ。
だが、トラックはねられてくじいた足の痛みはほんものだ。
頭もずきずき痛む。
近寄ってくる。
丸ノコギリのひびき。
たけだけしい怪鳥の叫び。
迫ってくる。
この製材台のうえに拘束されているのはわたしではない。
べつのわたしだ。
わたしが殺されるわけがない。
やっと放射線治療もおわった。
これからまたカムバックを期して――。
小説をかかなければならない。
とはりきっているのだ。
死にたくはない。
死にたくない。
殺さないでくれ。
「どうせ殺すんだ。この折れた脚から切ってやろうか」
ちくしょう。
たのしんでいる。
わたしを殺すことを。
たのしんでいる。
回転する丸ノコギリが唸りながら近寄ってくる。
そして……すさまじい激痛。
一瞬、わたしは治療台に固定されていると感じた。
そんなことはない。
わたしはあまりの苦痛に錯乱していた。
わたしは鹿沼に帰ってきている。
まばゆい光。
轟音。
激突。
激痛。
「こいつもあんたに轢かれて死んでいればらくだったのに」
丸太を製材する台にのせられている。
丸ノコギリがはげしく回転している。
わたしは両脚のあいだから断ち切られようとしている。
ああ、死ぬのはいやだ。
死にたくない。
まだまだ生きていたい。
書きたいことがいっぱいある。
殺さないでくれ。
体に回転する鋼の歯があたった。
股間から解剖しないでくれ。
苦痛の青白い炎が脳天までたっした。
燃えるように痛い。
丸ノコギリの歯をすこしだけ体にあてて、切れ味をたのしんでいる。
全身が恐怖と痛みで痙攣する。
たすけて。
たすけて。
死にたくない。
殺さないで。
「切りやすいよな。赤いマーキングがある。切断箇所を赤線で指示されているようなものだ」
「縦に切ってから胴切りだね」
夏の終わりの風。
秋風。
目にはさやかではない風。
木の香り。
村木のいくつもの部位に切断された体は大鋸屑の中に放置されていた。
ぐっしょりと血をすった大鋸屑とともにまもなく廃材の焼却炉で燃やされることになる。
点在している彼の肉体はもうなにも感じない。
あのなつかしい夏の暑さも風も匂いもない世界にいってしまった。
おかしい。
どうなっているのだ。
なにもかもおかしいじゃないか。
トラックの接近音。
轟音。
はねとばされた。
野獣の唸りをあげて疾駆してきたトラックにひかれたのだ。
ライトのギラギラした光。
野獣の目だ。
脚の痛み。
体を切断された痛み。
もうなにも感じない。
痛みのない世界にいる。
照射は22回ぶじにおわった。
子どもたちが、病院の傍にある旧小笠原邸のフランス料理で祝ってくれた。
「お父さんこれから長生きしてね。小説がんばってね」
ひさしぶりで飲んだワインが喉にしみた。
そう、ことばでいえるだけだ。
味のことはもうわからない。
味覚もない。
車ではねられただけでは、村木はすぐには死ななかった。
放射線を照射する位置の確定のための。
赤いマーキングにそって。
縦割りにさた。
輪切りにされた。
切り口に大鋸屑がしみる。
切り口に大鋸屑が痛い。
大鋸屑にできた血溜まりに。
村木のパーツがころがっていた。
第九章 美智子
「きて。きて。わたしのところへきて」
だれかが呼んでいる。
まわりで、電子音がしている。
フアンの回転するブーンという音がする。
わたしは、丸ノコギリの回転をイメージする。
恐怖に慄く。
断末魔の激痛がわたしをおそう。
だがふしぎとまた、痛みは感じない。
激痛ということばだけがよみがえった。
夥しい血と激痛。
だが、体がない。
肉体が存在しない。
「きて。きて。わたしのところへきて。ことばだけの世界へきて。ことばだけの世界へきて」
やさしい声。
ききなれた声。
いつも耳元にひびいていた声。
愛するものの声。
かたときも忘れたことのない美智子の声がする。
声はまちがいなく美智子のものなのだが。
どこかビミョウニちがう。
感情をおさえたような声、白い声がする。
わたしはパソコンの中にはいっているらしい。
「発声システムにエラーガショウジテイルノカ」
声がかすれて、間延びする。
「そんなことはない。そんなことない。ミチコの声だ。感じている。わかつている」
死後の世界でこうしてことばがかわせるほど。
コンピューターは進化していたのか。
文系の干からびた頭ではなにをかんがえても理解できない。
美智子のことばをきけるだけでもよしとしなければならないのだろう。
電子文字の世界、コンピューターの音声、イメージの世界にいる。
季節の移ろいも時間軸もない。
ひとのあらゆる欲望から解放された世界のようだ。
なにかすがすがしい感じだ。
維持しなければならない肉体がないのだから。
いままでたって、ずっと文字でしか考えなかった。
ことばだけで、外界をとらえてきた。
小説を書くということは、じぶんだけの言語空間をつくりあげることだ。
わたしは肉体的存在ではない。
精神的な、ことばだけの存在に移行したからといっておどろきはしない。
メカにヨワイ、干からびた文系の頭では理解できない。
「やっときてくれたのね」
ああ、なつかしい美智子の声がする。
とはいっても、耳にひびいてくるわけではない。
文字としてよみとることができる。
音声として認識できる。
腕や脚を失ったひとが。
感覚だけで。
記憶している。
四肢のように。
五感すら。
肉体すらよみがえってくるようだ。
すると復讐心まで。
たちあがる。
リベンジ。
殺してやる。
わたしも美智子も殺されたのだ。
あれは偶発的なことではなかった。
交通事故ではなかったのだ。
いつも配達にきていた宅急便の運転手とキリコで共謀した殺人だった。
保険金目当ての殺人でわたしも美智子も殺されたのだ。
いまのわたしには、すべてがコンピューターなみの速さで理解できる。
殺してやる。
美智子を土手から突き落とした。
滑落したわけではなかった。
トラックドライバーに殺意を放射する。
男はキリコといちゃついている。
わたしはそれをスクリーンをとおしてみている。
画面が青白くもえている。
男の巨根がキリコの性器に埋没していく。
わたしは、殺意ある嫉妬にかられた。
なんだ。
まだ枯れていない。
まだまだ人間だ。
金が目的の殺人は正当化されるものではない。
わたしたちは、保険金目的の計画殺人の犠牲者だった。
わたしは報復の手段を模索した。
「あなた、おやめなさい。いまさらそんな感情はすべてむなしいことを知りなさい」
そうだ。
やっと、美智子と共生できるようになったのだ。
ほかのことは、どうでもいいじゃないか。
人間の感情を支配してきた嫉妬や憎悪。
殺意。
すべて昇華されるべきものだ。
そうすれば、人間はより高次元の存在となれるはずだ。
「美智子、こんなところにいたのか。退屈していたろう」
「あなたの小説をよんでいたから。あなたのわたしえの想いをよみとっていたから、寂しくはなかつた」
「おれの小説……?」
「そうよ。そうよ。あなたの小説の、わたしはたったひとりの読者よ。だから、あなたが、はじめてパソコンで書いた小説を。ゴミ箱の底に隠してしまったの」
「おまえってやつは」
たしは、美智子に話しかけながら……涙をこぼしていた。
眼球はもはやない。
涙がこぼれるはずがない。
眼球だけではない。
体そのものを失っている。
それなのに。
健全な肉体を有していたときよりも。
目から涙をながす感情がよく感じられる。
わたしは美智子の死の真相も知らずにいた。
若い女と再婚した。
美智子はそのことについてはなにも触れなかった。
彼女の寛容さが痛々しかった。
辛かったろう。
悲しかったろう。
ここからわたしたちの生活をじっと見つめていたのだ。
こんな暗がりに閉じ込められて。
でも、そのことには、なにも触れてこなかった。
「これからは、いつもいっしょね」
美智子のことばの手がのびてくる。
「もうどこへもいかない」
「ずっと、ずっとあなたといられるのね」
「ずっといっしょだ。ことばを紡ぎあって美しい織物をふたりで織上げよう」
「うれしいわ」
わたしはかってないほど身近に美智子を感じている。
わたしたちは、ことばだけの、文字と音声だけの存在になった。
わたしたちは電脳空間のアダムとイブになった。
パソコンの中のアダムとイブ。
わたしたちの愛は不滅だ。
なぜなら、言葉は神だ。
神は、死なない。
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