第7話 安穏作家の穏やかや日常 第一章 ああ、美智子さんオシッコもれちゃうよ。
Oh、嫉妬。Oh,shit>
毎日なにがたのしくて朝早く起きるのか。
そんなこと、〈翁〉にもさっぱり……わからない。
たぶん、地球の上にいつもの朝がくるからだろう。
ほんとうは〈叟〉という漢字を当てたいのだが、彼の語感では叟は、痩身。
年老いて身も心も枯れきってこそ〈叟〉といわれるべきもの。心身ともに脱却してこそ叟。
枯れ木のようになにもかもそげおち、痩せ細ってこそ叟。
肥満長身。体重85キロ。身長173センチメートル。73歳。
食欲旺盛。まだまだ人生これからだ。と……イキがっているのは、本人だけ。
だいぶ、怪しくなってガタのきている箇所もある。こんな矛盾した男はいくつになっても〈叟〉などと自称であっても呼ぶに値しない。
措辞においても平明枯淡の境地にあそぶべきなのに。
素地が卑しいから、なにかひとをおどろかそうなどと計るから、難解なオヤジギャグを連発するから、いつになってもこのテイタラク、原稿料にありつけない。
街には見たことのない風景があり、ききなれない若者言葉が氾濫し、侮蔑の刺を含んだ揶揄や視線が浴びせられる。耳がややとおくなっていて、内容がよくききとれないから、しあわせだ。
それでも……たえず、苛立っている。
街を歩いていても、住み慣れた故郷の街なのに、あれここはどこなの……と立ち止まってしまうことがある。
そこえきて、区画整理がはじまっているので、空前の新築ブーム。槌のひびきがして、上半身裸体の男達がたむろするかと思えば、さにあらず。電動クギウチキ。ハンマー。パワーシャベルの運転までうら若き乙女のボインチャンだ。
建築現場に木の香りはもはや存在しない。なにか、異界に迷い込んでしまったようだ。
新建材の箱を積み木のように重ねていく。外壁もピッカピッカのサイビング。雨が降れば埃も汚れも洗い落とされいつでも新築どうようのサイビング。
〈翁〉の趣味ではない。古く色変わりした羽目板が雨にぬれて黒ずんでいくのがよかったな。板塀などに雨の匂いが染み込んでいるのがよかった。
年月の風化の跡がのこっている日本家屋がいたるところでこわされていく。色褪せた板壁がくだかれ、燃やされて灰となってしまった。
道路拡張。
歩道もできたりして、それはありがたいのだが、若者が横にひろがってわがもの顔に闊歩しているので、追い越せないのはコマル。
眼にうつる家々が二階三階と高層化? して、余裕のできた敷地に庭などしつらえたから、まるで見知らぬ街に迷い込んだような錯覚におちいることもしばしばある。
いままで民家が立ち並んでいた路地が二車線の大通りになったりしている。
このあたりに鶏舎があって鶏糞の匂いがして、なんて思いにひたっているともういけない。ふいにダンプが黙示録的な轟音をたてて現れる。
小さな路地裏の公園もお稲荷さんもつぶされた。社の前のおお銀杏の樹もみるも無残に剪定されてしまった。ああ、やだ、やだ、もう、こんなところに住むのはいやだよ。
彼の頭の中にある街がガラガラと崩壊してしまった。
〈翁〉は若者にも、新しい家、町並みあらゆる新しいものに嫉妬している。
街には見たこともない風景が現出した。街の輪郭もますますぼやけていく。
ああ、いやだなぁ。
ひっこしたいよぉ。
……と彼はかって見知った街をノシノシと歩くが、勝手に知っているとおもいこんでいるだけで、あらたに生まれつつある街は迷路、よく迷子になる。
彷徨老人。マイゴノマイゴのジジイ。
ソチは何処をめざす? てなもんだから、けつこう見知らぬ街をいつもあるいているようで悲しいったらありゃしない。
あちこちにあった、道路標識がわりの古い家屋がまたたくまに消去された。
覚えのあった街角が消えた。四季折々に花を咲かせた生け垣がなくなってしまった。
かわりに意味不明の横文字看板立ち並び、このへんは八百屋のリンゴ箱が道路まではみだしていたのにと、なつかしがっても駄目だ。
下のほうがむずむず、尿意むかむか。ちょろちょろ失禁しちゃうよ。たすけて。ミチコサン。
そうだ、そうでなくても そうだ。トイレを探していたのだ。
そだやの そださん ソバくって 死んだそうだ。語呂あそびをしているときではない。こっちはオシッコ堪えきれないで死にソウダ。トイレを求めて公園にとびこんだのだ。広い公園の道は、まるで迷路。
この辺にあった公衆トイレはいずこ五月のぬかる道、と芭蕉をパロっている場合かよ。そうなのだ。トイレを探していたのだ。
トイレまでどこかに移転してしまったのだ。
性欲は旺盛とはいかないが、それでも残存。でも、ハズカシイ。これはダメ。はやく男の生理があがってくれればいいのに。妻の美智子さんが受け入れてくれませんので、ハイ。このトシになって、春になるとこころもそぞろ、なんておかしいですよね。
だから、残存してはいますものの、存外粗雑に扱われ軽蔑されています。
しばしの、猶予をおかれているようなものです。
ハイ。そのうちに、まったく涸れ切ってしまうでしょう。
ところが、オシッコのほうはまったなし日にいくたびか、もよおしてジジイをナントいじめることか。
妻は慢性浪費症候群。くだいて申せば〈これいただくわ〉症候群の彼女が精神的にも肉体的にもリセプタが機能するのは商品購入時だけなのだ。
わが永遠の恋人。
ああ、ロクサーヌ。島田正吾の一人芝居、あれはよかったなぁ。ビデオ取ったはずだから、さがしだしてまたみて……泣かなくちゃならねえな。《知らぬどベル痔ラック》はほんまにラッキーだったと思う。大恋愛が大願成就した暁には、黄昏時には、いかなる体たらくにおちいっていたものやら。知らぬが得々。
〈翁〉は満身創痍。痔は悪い。親父も母かたの従兄弟も直腸癌で死んでいる。やはり下(しも)のほうに病気の因縁があるのだろう。前立線ガンだって心配だ。肝臓はいかれている。目は白内障で両眼とも手術してレンズが埋め込まれている。
歯はふんがふんがの総入歯。
慢性金欠病益々悪化中。とくらぁな。
今流行りの年金だって貧乏人だから入れなかった。なんの保障もない。
あの大きな鼻の陰(いん)に意味するところはわかりますよね? せめて生あるうちにもう一度と思ってはいるのだが、タンタンタヌキの金時計のほうだけは現役復帰を熱望中なれども……かぼそく清楚。ガラス細工のような美智子さんはいるが、これがむかしから、Hなことは話しを聞くのも嫌。ダイキライ。
夏痩せしきらいなものはきらいなり 三橋鷹女
といったわがままな性癖だからジジイはジッとがまんのコであった。シトシトピッチャンシトピッチヤンとしっぽり濡れるわけにはいきませんのです。ハイ。プラトン憎っくきラブの世界に生息している。これがよかったのだろうか。わるかったのか……そんなことわからないが……。毎夜、ひとり寝の寂しさから、ひとりシコシコとひとり……ごと……をいう習慣がつき、その妄語を金にかえることを生業としてきた。
あくまでも、ローカルの、地方作家というところだ。東京の出版社から原稿料をかすめとることなどおぼつかなくなってしまった。ああ、それが可能であったむかしが懐かしいよ!! 作家などというと体裁はいいが、代書屋に毛の生えた程度の仕事が大半だから、生活費のたりない分は学習塾を経営してなんとか世すぎ身すぎして生きながらえてきた。
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