第4章 ぼくらは離婚したほうが


4 ぼくらは離婚したほうが


「あさっての手形うまく支払いがつくかしら……」

 サラリーマンの娘である妻が、手形を落とす心配をしている。

 臭いだけではなかった。父の残した借財はぼくらをすごく惨めな境地においこんでいた。病院への支払い。金の苦労はかずかずあった。

 桃代と香奈はつぎつぎと乗りモノを変えて遊んでいる。いまはお猿の電車にのっている。ポーッと汽笛がなっている。トンネルに入るところだ。暗い穴に向かって電車は進んでいる。

「お母さんに派出婦をつけなければならなくなったら……どうするの?」

 妻はさきほどから、ひとりで、そのことを、考えていたのだ。

 電車は暗い穴の入口に侵入していく。あのまま異次元に吸いこまれたら、もどってこなかったら、どうしょう。

「一日……五千円ですって」

「…………」

 ぼくは言葉をのみこむ。妻は立ちあがる。娘たちの現れるはずの電車のプラットホームの方角へ歩み去る。ぼくは不安になる。ぼくがこうしてベンチから動かずにいる間に、桃代と香奈がまたいがみあっているのではないか。血をながすようなケンカをするのではないか。

 ぼくはベンチから立ち上がり妻や娘たちの後を追い、急な傾斜を登る。

 やがて、ぼくら家族は、反対側は切りたつようなガケとなっている千手山公園の頂上に並んでいた。

 回転飛行塔。お猿の電車。観覧車。池のある遊園地。そして街々の家並み。あの屋根の下で、妻は毎日……母の便器の処理をし、消毒をしている。母がT病院に入院することになり、家政婦をつけなければならなくなったら……ほんとうにどうしたらいいのだろう。

「あなた、こんど書けなくなったら、もう、お終いよ……」

 妻が唐突につぶやく。辛辣にひびいた。

 妻の口から吐きだされたその言葉は――。まさに、ぼくの言おうとしていた言葉だった。先を越されたので、トゲのあるようにきこえたのかもしれない。

「いつか言おうと思っていたのだが、ぼくらは別れたほうが、いいのかもしれない」

 言葉が胸につかえて、ひどく弱々しくひびく。

「わたしたち、二人も子供がいるのよ」

「……別れたほうが……」

「子供がいるのよ!!」

 裏の老婆たちが恐ろしいと言っていた妻。わたし呪い殺される。猫の死骸を塀越しに投げこまれた。猫には首がついていなかった。老婆たちのイジメで妻が神経を病んだらどうしょう。ぼくとこの苦しい環境で生活を共にするのは都会育ちの妻にはあまりにも過酷すぎる。

「避難するのならいいわ。桃代と香奈をつれて東京の実家にもどっていても、いいわよ」

 妻はすずしい顔をして言う。

 沈黙。

 妻と桃代と香奈だけでも、石ツブテを浴びるような老婆たちの仕打ちから避難させる。

 それも、ありかなと……。

「パパナニカンガエテイルノ?」と、香奈。

「うわぁ、ここ高いな。いちばん高いみたいね」

「チガイマスヨ。テンゴクガイチバンタカイトコナンダカラ」

 聖母幼稚園に入園したばかりの香奈が新しい知識をヒロウする。

「ちがいますよ。天国なんてないんだから。ありませんよ」と桃代。

 ぼくは妻の肩に向かって伸ばした手が中途で静止する。ほんとうにないの、と訊きかえしたそうな顔で香奈がぼくらのほうを振りかえった。


 

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