第3章 首つりの足引っ張り


3 首っりの足引っ張り


「ネ……ヤッパリキテヨカッタ。ヨカッタデショウ」

 観覧車の向かい側の席で香奈がいう。からだのすみずみまでよろこびにあふれている。お姉ちゃんのほうは肩を寄せあってはいるが、まださきほどのことにわだかまっている。

 ウラミの感情が口元にあらわれている。学校の砂場がみえると……香奈のほうははしゃいでいる。

「カナノオヤマドウシタカナ」

 姉にひどいことをいわれたのも、すでに記憶にないのか? この幼い年頃では忘れるのが早いのだろうか。先ほどのことはもう頭にないらしい。

 ぼくらの乗った席は、いま頂点にあり、遊園地のある山のふもとの学校の全景はおろか、田舎町の静かなたたずまいも一望できる。スピーカーの音――がさつな音楽も、新緑を眼下にするここまではかすかにしかきこえてこない。

 香奈がふいに立ち上がって、万歳をする。

 ゴンドラが激しくゆれる。

 桃代が、ぼくよりも、速く妹を抱きかかえるようにして席に着かせ、肩をおさえる。すっかりお姉ちゃんの顔になっている。「おちると、死ぬよ」いままでの不機嫌な表情は消えている。だめじゃないの、といった顔をしている。

 ゴンドラはまだ不安定なゆれかたをしている。ぼくの視線は妻をとらえる。観覧車に乗って高いところにあがると、めまいがするのよ、といった妻はひとりベンチに座っている。

 上からみおろしているため、小柄な妻がよけい小さく頼りなくみえる。こちらを見上げてはいない。静かだ。こんなに静かなひとときがあっていいものだろうか。

声にならない声で妻に呼びかける。わたしたち二人も子供がいるのね。耳元でそんなささやきがいまさらながら、きこえてくるようだ。

 結婚してからはほとんど話しあう余裕はなかった。東京から呼びもどされた。永遠の劫罰を科せられたような……両親の看病に明け暮れた日々。そして町内から村八分。理由は分からない。「ここへゴミだすな。バカ。都会モンはバカだ」老婆たちのイヤガラセは妻に集中している。猫の首なし死体を投げこまれた。妻の悲鳴に裏庭にかけつけたぼくは絶句。

この苦境の十年という歳月、ぼくは観覧車のなかで……二人の子供を前にしたまま、苦しかった越しかたを思っていた。

 たぶんそれは、あまりの不遇つづきのため……ほんの一瞬でもこうした平静な時間の中に身をおくとかえって不安になってしまう……そんな習性がついてしまつたのだろう。

〈こんなはずではない。こんなに静かな時間が有っていいはずがない〉

 自分だけが、すべてのものからきりはなされて苦労している。幽閉されている。東京で辛苦をともにしていた文学の朋から、はるかな距離あるところに隔離されている……そんな考えはもつべきではない。たとえそうした悲観的な考えをもつ自由はあるとしても、そうしてはいけないのだ。

 だから……香奈がいうように、香奈が望んだように最初からあの群衆に逆らうことなく流れに身をまかせ、遊園地にきていれば、子供たちを泣かせなくてすんだはずだ。

 子供たちを泣かさずにすむならば、ぼくはどんな道でも進まなければ……。

 観覧車は、少しずつ降下している。周囲の音がもどってくる。さあ、現実にもどらなければ、ぼくの周りでは子供たちが大声でさわいでいる。池のアヒルに餌をやっている同世代の若い夫婦は子供たちに負けない華やいだ声を上げている。……そしてこの時になって、きょうが連休の、春のゴールデンウイークの初日なのだと気づく。

「なにみているの」と桃代が訊いたらしい。

 ぼくは応えない。ぼくにはわからない。

 ぼくはなにをみていたのだろうか?

 父の死は、四歳になる香奈の生まれた月だった。死因は直腸癌。五年わずらっての死だった。人工肛門から糞をしぼりだす苦行の末の死。

 やがて今年も梅雨がくる。部屋々々にあの異臭がヨミガエル。……だから、あの陰惨な記憶はぼくら夫婦に一生涯つきまとうだろう。

 畳。家具。柱。フスマ。障子。天井。あらいる事物の奥深くあの臭いはしみこんでいる。梅雨時のよどんだ空気に誘いだされ、これからもぼくら苦しめるだろう。だから、ぼくはこのからりと晴れた五月の薫風に吹かれて、梅雨のやってくる予兆から逃れようとして外出したにちがいない。


 老婆たちのイジメから妻と子供たちを守るためには、家に閉じこもるしか方法はなかった。「この町からでていけ」病人をかかえて苦境にあるのに、さらに、石ツブテを投げつけるような言葉の暴力。

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