短編小説の部屋。

麻屋与志夫

第1話 日光憾満ケ淵/お化け地蔵

日光憾満ケ淵/お化け地蔵



 鬱蒼と茂った杉木立の影になっていた。

 お化け地蔵は山裾にひっそりと並んでいる。青い苔が一面に生えた古仏は赤いヨ ダレかけをしていた。杉の梢越しに射しこむ秋の光が並んだ地蔵の膝のあたりにかろうじて照り映えていた。

 あの頃とまったくかわっていなかった。思いでの憾満ヶ淵では、悠久の時間が流れていて、人の生きる時間などなにほどのこともなかった。

 あの頃、東京オリンピックの時代といっていいかもしれない。沼尾潔はこのお化け地蔵をなんどか訪れていた。


「あかちゃんがうまれたら、赤いヨダレかけをこのいちばん端のお地蔵さんにかけるの」

「そういう風習があるんだ……」

「この土地にはないわ。わたしがはじめるの」

 並び地蔵といわれるだけあって七十体くらいはあるのではないか。潔はそう思った。日光の老舗旅館の一人娘、安西玲子はお腹をさすりながら潔をみあげた。

「すくすくと育つようにと」

 まだ、玲子はヨダレかけのことを話していた。


 潔は妊娠の告知を玲子からうけて、それをどううけとめていいのか、わからないでいた。

 東京をオリンピックの通訳としてたまたま訪れた日光。ホテルはすでに満室でことわられた。しかたなく、安西旅館に博報堂のカメラマンの佐々木を、案内してきた。New York timesのジョージ記者も泊まることになった。そこで潔は運命の女、玲子と出会った。

 日本の風呂の入りかたを説明しているとき、たまたま玲子がお茶を入れてくれていて、同席していた。当時としてもすでに古風な五右衛門風呂だった。日本のこの種の風呂は下で火をたいて沸かすから、上は水、二段になっていることがある。下が熱くて上が冷たい。よくかきまぜる必要がある。二段になっている、という説明がおもしろかったらしい。

「お風呂が二階建になっているというような表現は、考えてもみなかった」

と、いたく玲子は感動した。それが玲子とのはじめての会話だった。

 佐々木もジョージも二社一寺、東照宮などの日光ではなく裏日光観光案内を潔に期待していた。

「それなら、お化け地蔵がいいわね」

 きらきらする目でみられて潔はとまどっていた。

「生きと帰りでは、なんど数え直しても数があわないのよ。それで、お化け地蔵というの」 

 色白の古風な瓜実形の顔をしていた。唇は薄く紅をはいたようだった。長い髪をうしろでかるくまいてまとめていた。あの髪を解いたら腰のあたりまでくるのではないかと潔は思った。

 憾満ヶ淵の南岸にあるお化け地蔵は鄙びた野趣をたたえた坐像で、七十体ちかくひっそりと並んでいた。佐々木もジョージもひどくよろこんだ。勇む心を抑えるようにひっきりなしにシャッターをきっていた。大谷川の激しい川音がしていた。不動明王の真言の一節のように聞こえることから憾満ヶ淵と名づけられたとい川音だった。

 潔はなにもすることがない。英文の日光案内で陽明門のことなどを読んでいた。

「すこし、散歩しません……」

 誘ったのは玲子だった。すごくひかえめな声で、恥ずかしくてしょうがないのだが、思い切って……というような調子だった。

 大日堂まで歩いた。大谷川の川音が絶えずふたりの周りでしていた。

「わたしをだいてください」

 あまりに唐突な願いに潔はとまどった。まだ会ったばかりの玲子だった。しかし、運命の女にやっと出会うことができたと胸をときめかしていたのだから断ることはしなかつた。それどころか、いつきに情炎が燃え上がった。そのまま草むらのに倒れ込んだ。

「はじめてなの。はじめてなの。やさしくして」

 玲子はかすかにうめくようにうったえかけてきた。そして、まちがいなく処女だった。


 妊娠した。どんなことがあっても赤ちゃんを生むという手紙をもらったのは神宮の森の銀杏の葉がおちつくしたころだった。オリンピック競技場の熱気もうそのように冷えて行き、冬が訪れようとしていた。

 わたしはほんとうにうれしかった。父のきめたひとと結婚して、この宿を継ぐ。そうした定められた宿命に逆らってみたかつたのです。

 あなたが、潔さんがわが家の玄関に入ってきたときわたしも運命を感じました。この人なら、わたしをここからつれだしてくれる。わたしの運命をかえてくれる。わたしはこの人とならいつ死んでもいい。

 そんな思いで、必死であなたにおすがりしたのです。さぞや、はすっぱな女と軽蔑なさったでしょうね。

 でもいいのです。なんと思われても、わたしのおなかにはあなたの命が息づいています。


 あれから、44年もたっているのだ。潔はたまたま、インターネットで下野新聞を読んでいたところ、安西玲子の訃報を知った。『日光市稲荷町の老舗安西旅館の安西玲子(62)さんが亡くなりました。五右衛門風呂で有名な日本古来の旅館の風情を守りぬいた経営者としても有名でした』と記事は結んでいた。


 潔は安西旅館の見える坂の下にたたずんでいた。旅館の大きな玄関は昔のままだった。ガラス戸の両側に黒い筆文字で安西旅館とある。なにもかわっていなかった。会葬することは憚られた。陰ながら野辺送りをするために東京からかけつけたのだ。香や線香のにおい。読経の寂しい声。黒い喪服の人。玄関前に設えた焼香の段飾りの周囲には別れの悲しみが漂っていた。潔は手を合わせて黙祷していると不意に声をかけられた。

「沼尾さんですか? 沼尾潔さんですよね。」

 潔はとまどいながらも、頷いていた。

「玲子の娘の玲奈です」

 と名乗った。

「母にはそういうところがありました。未来を見通すような力があったのだと思います。父が早く死んでからというもの、よくあなたのことを話していました。そんなに好きな人がいるなら、なぜ結婚しなかったの。いまからでも会いにいったらとずいぶんすすめました。あの人にはもうしわけないことをしてしまったから。いつも同じ返事がもどってきました」

 夫に死なれてから玲子は長くさびしい人生を一人娘とともに過ごしてきたのだった。どうして知らせてくれなかったのだ。どうしてわたしを頼ってくれなかったのだ。わたしはそれほど頼りがいのない薄情な男として玲子の記憶にあったのか。

「潔さんがきたら、これを渡してくださいな。そう言われて預かっていたものがあります」

 なにをいまさらわたしに託すというのだ。もう遅い。もう一度、もういちどだけでいい、玲子と会いたかった。

「それはいまどこに……? なにを預かったのですか」

 潔は勢いづいてたずねた。玲子はわたしにさいごになにを手渡しかったのだろう。

「赤い、ヨダレかけです」

「それはいまどこに」

「わたしが、持ってきています。もし沼尾さんがあらわれなかったら、納棺のときに、母の胸にかけてやろうと思っていました」

「もうしわけありませんが、見せていただけますか」

 玲奈は一瞬ためらった。母との秘密を名前を確かめただけで、見ず知らずの男に打ち明けたのを後悔しているふうでもあった。ためらっている。探るような眼差しを潔にむけている。

「まちがいなく、沼尾潔さんでしょうね」

「お母さんは、右の胸のあたりに大きなほくろがありました」

 はっと、おどろいた風だった。疑った非礼を詫びながら玲奈は喪服のふところに手をさしいれた。懐紙につつんだ赤いヨダレかけをとりだした。

「わたしには、これがどういうことなのか、だいたいのことは見当がつきます」

 名残惜しそうに、それでも玲奈は潔に懐紙ごとそれを渡してよこした。


「玲子が家出した。おまえとしめしあわせての家出だろう」

 玲子の父親から青山の潔の下宿に電話がかかってきた。 

 玲子は憾満ヶ淵の霊廟閣にいた。

「朝からずっとここにいたの。死ぬ前にもういちどだけ潔さんにあいたいと仏様におねがいしていたの」

 玲子は潔にしがみついてきた。愛情をともなったものではなかつた。愛し合う男と女の抱擁ではなかった。なにか、もっとさしせまったものがあった。潔は家の娘をキズものにして、どうしてくれる。玲子の父親にののしられたことを思いおこしていた。

 玲子は潔がなぜ青山の下宿からこれほど早く、そしてここにきたのかも問わなかった。そんなことには、頓着しないようすだった。上目づかいに潔を見る目は焦点をむすんでいなかった。

「死んで。わたしといっしょに死んで」

 大谷川の激流に身をなげようとしている。男体山から噴出した溶岩を削る川音も高い流れだった。

 潔は必死で玲子をだきとめた。玲子の体はこごえていた。死人のように冷たかった。

「冷静になるんだ。おちつけ玲子。それより、なにがあったのだ」

「流産してしまったの。赤ちゃんがもうわたしのおなかにいないの」

 そこではじめて潔は玲子の下腹部がひっそりとしているのに気づいた。家を出て、東京で所帯をもち、潔と子どもを育てることをあれほど楽しみにしていたのに。そのふたりの愛の証である胎児がいない。

 赤ちゃんがいない。子どもとしての体をもつにいたらないまま、消えてしまった。

「わたしもう生きていられない。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。死にたいの。わたしといっしょに死んで。死んで」

「おちつくんだ。死ぬことはいつでもできる。玲子が死にたいのなら心中してもいい。でも、悲しいことだが流産しただけで、玲子を死なすわけにはいかない。わたしたちには、まだこれから長い人生が用意されているのだ。それを精一杯生きていきたいとは思わないか」

 玲子はわたしのいうことに耳を傾けだした。

 わたしは玲子の手をひいて岩伝いに憾満ヶ淵から離れた。川音が遠のいた。

「ねえ、このまま東京へつれていって。もう父のいる家に帰りたくない」

 どうしてあの時、玲子の願いを、かなえてやらなかったのだろうか。

 玲子の父に、人でなしと罵られたことを、気にしていたのだろうか。

 オリンピックも終わり、臨時の通訳としての仕事もなくなり途方にくれていた。 潔は小説を書きだしていた。生活に自信がもてなくなっていた。いまのようにアルバイトをして、それだけでフリターとして、あるいは派遣としても生活がなりたつような時代ではなかった。

 でもそんなことは、いいわけにすぎない。わたしが、臆病だったのだ。ふたりで、東京で同棲するだけの勇気がなかったのだ。

 潔はあれからずっと悔やんできたが、もうどうすることもできない。人生の一過性が悔やまれて、恨めしくて、それでもどうしょうもない。過去をとりもどして、もういちどやりなおすことはできないのだ。

 玲子は死んでしまった。生まれてきた場所も時も違うが、死ぬのは一緒だと誓い合っていたのに。

 あの時、死んでしまっていたほうがよかったのかもしれない。死にたいという玲子をむりに説得して家に送り届けるようなことはしないほうがよかったのかもしれない。

 そうすれば、この歳になって涙をこぼしながら憾満ヶ淵に歩みよらなくてすんだのだ。   

 慈雲寺の山門が見えてきた。お化け地蔵はあの山門をくぐればすぐのはずだ。


 玲子から詫び状がとどいた。なにもあやまるようなことはなかったのに。詫びたいのは潔のほうだった。玲子をつれだすことができず、家に帰らせたことをいまでも悔やんでいる。

 ごめんなさいね。いつも、迷惑ばかりかけて、こんなわたしを許してください。

わたしは父のいうとおりこの旅館を継ぐことにしました。もう潔さんと会うこともないでしょう。

 あなたとのことは、生涯でただいちどの恋、賭けでもありました。このひとなら、わたしをここからつれだしてくれる。約束された結婚。そして宿屋の女将としての暮らしから解放してくれると思ったのです。

 でもわたしはまちがつていました。ここでの生活を、家族と共に全うしたいと思います。わたしは、負けたのです。わたしは負けた。悲しいけれどなぜ反対できなかったのか、泣けてきます。流産ではなく、堕したのです。

 

 ごめんなさい。未婚の母になることなど許さない。父の叱責と命令には逆らえませんでした。

 さいごにもういちどごめんなさい。わたしはあなたに、潔さんほんとうにもうしわけないことをしてしまいました。


 潔はあれほど玲子がとりみだし、自殺までしようとした原因を知った。

 そういう時代だったのだ。家業を守ることが至上命令として成り立っていた。

 シングルマザーなどという言葉がまだない時代だったのだ。まして地方ではまだまだ戦前の古風な考え方がまかりとおっている時代だったのだ。

 潔は返事を書いた。

 わたしはいま小説家になろうとしています。作家になってみせます。そうすれば、どこにいても、玲子さん、あなたにはわたしの所在がわかるくらいの作家になりたいと思います。そうしたら、ぜひもういちどだけでも、会ってください。会いにきてくれ。そうならなかったら、もう二度と会うことはないでしょう。あなたは、あなたの道をすすんでください。わたしはわたしの道をいきます。さようなら。

 それが、玲子にとって、どんなにつらく、どんなに残酷なしうちか、わかいわたしは分らなかった。わたしは、ようやく、歩みだしたじぶんの道を行くのに夢中だったのだ。

 わたしは、玲子に再び会うことはなかった。でも、それから六年くらいたって、日光を再訪したことがあった。友だちの友だちに頼まれ東照宮を見たいとしいうアメリカからの観光客を案内したことがあった。わたしは、安西旅館と表示のみえる玄関を坂道の下に立って見上げていた。

「お母さん、はやくはやく」

 四歳くらいの女の子が、玄関から飛び出してきた。

「お母さんはやくうー」

 娘は急かせていた。わたしは玲子の娘だと思った。玲子の幸せそうな顔を想像してから、あわててその場を離れた。

 これでいい。これでよかったのだ。と潔はじぶんを納得させた。

 あの時の娘が、玲奈なのだろう。いま会ってきた玲子によく似た娘だった。

 あれでよかったのだろうか。                           

 あれしかわたしたちの生きる道はなかったのだろうか。

 わたしが玲子のもとに入り婿となるという選択肢だってあったはずだ。

 わたしは、あれからずっと小説を書き続けている。賞を獲得するほどの実力もないまま、雑文を書き生きてきた。

 こんなことなら、旅館のおやじとして過ごしてもよかったのではないか。謝らなければならないのは、わたしのほうだ。山門をくぐった。潔は憾満ヶ淵に向ってとぼとぼと歩いていた。

 生まれてこなかったわしと玲子の子どもに会いたい。

 あの世で三人で暮らしたい。小説家になりたいために犠牲にしてきたものの大きさを、潔は痛感していた。

 こんなことなら、玲子、あなたの言うことを聞いて憾満ヶ淵から大谷川に入水していればよかった。

 そうすればなにもかも思うようにいかなかった過去を悔いて生きているあわれな老人にならないですんだのだ。

 潔は赤いヨダレかけをとりだした。手がふるえていた。よく見ると裏側に『強』と縫い取りがしてあった。玲子が生まれてくる子を男の子と期待してつけた名前なのだろう。潔はじぶんの名とみように語呂があっているような気がした。

 玲子が望んでいたようにいちばん手前のお化け地蔵の胸にそれをかけた。

         

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