第三章 蛸壺や
3 蛸壺や
料理教室にかよう金なんかない。
TVの料理番組を録画すればいいのだ。
それでいいのだ。
それをテープがすれきれるほどみれば……。
みているうちには……。
調理法を覚えられるだろう。
「パパのつくる味噌汁は絶品だわ。いいにおい」
塾の黒板。
ワープロ。
パソコンに向かうだけの生活。
だったのに。
朝のひととき。
朝食の用意をするだけで。
なにか生活感が出てきたようだ。
〈翁〉は新鮮な喜びにひたっている。
slow life に、たのしみがふえたというものだ。
それまでの〈翁〉はただなんとなく。
ただなんとなく早起きしていた。
そして早朝の散歩に出る。
ジョギング。
とまではいかないが。
体を鍛えるために早脚で歩く。
年寄りの冷や水。
年寄りの早起き。
なんとでもいえ。
年寄りの短気は損気になりますよね。
ところが、病気をしてからは……。
二階の窓からみる朝焼けの美しさに心を奪われたり、それをなんとか……移りゆくもの……陽炎稲妻水の月をなんとか文章にとどめたいなどと考え、ペンをとる。ことはない。ただ……ぼんやりと朝のひとときをすごしてきた。淡い朝焼け色の空がしだいにうすれる。白雲となっていく。
むりなことはわかっているのに三階建ての家でも増築すればもっとよくこの天空の美観を見られるぞと、はかない夢に身を委ねるのだった。
金紅色の夕映えもいい。
景色にこだわっていれば、この街に住むのもそうわるくはない。
スローウライフを満喫できる。
西川寝具製の2段ベットの上段をとりはずし下段の寝床に足をちぢめている姿は、それこそ『蛸壺やはかなき夢を夏の月』の蛸そっくりではないか。
このところ抜け毛がひどい。
インターフェロンも打った。
放射線もあてている。
それらもろもろの治療がワルサをしているのだ。
命とハゲとどちらをとりますか?
そのうちさいごのたのみの毛髪が抜け落ちてしまえば。
タコ頭だ。
はかない吐かない吐かない、儚、さいごに転換したのが正解、ただしい表記だ。Mrワープロしっかりしてよ。
儚夢をかなえるためにこうしてモノローグをつづけているのだから……。
まだまだ生きていて小説を書き続けたいのだから……。
東の野にかぎろひの立つ見え、と謳いだした人麿さんはすごい。
いま〈翁〉は陽炎の中をさまよっている気分だ。
芭蕉の蛸壺の句碑も、柿本人麿神社も明石にあった。
震災のあと、あのころは玲菜は西宮にいたのだったな。
とりとめもなく独白がつづいていく。
閉じこもり老人はあさから本を読んで……。
雑念にとらわれ、読書亡羊のていたらくだった。
それが、朝餉の調理をするようになってからは……。
がらりと生活が変わった。
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