8 神宮の銀杏が散っていた
8 神宮の銀杏が散っていた
下宿に置き去りにした荷物を時子が送ってくれた。
段ボールが普及していない時代だった。荷物は柳行李が一つだけだった。野田高悟の『シナリオ構造論』の間に、「早く戻ってきて下さい」という花言葉をあらわすペン画がそえられていた。
花の名は忘れた。なんの花であったか思い出すことも出来ない。
「セックスすることが怖かったの。妊娠するのではないかと……怖かったのよ……」
時子が不意に言った。
時子の声は少女のようにひびいた。
「いまは……どうなんだの」
わたしは意地悪く、荒々しく聞いた。
「もう、生理もあがってしまって、女じゃないのよ。妊娠の恐怖のないセックスなんで興味がなくなっているわ」
わたしたちの運命はある一瞬交差し、そしてそれだけのことだった。それは、これからもわたしたちが生きている間、変わりはないだろう。二度と会う機会もないだろう。
わたしたちは、鶴巻南公園のみえる街角まできて、別れた。
水玉模様が霞み、時子の影が小さくなり、街に消えた。
鼓笛隊のメロディはあいかわらず、『上を向いて歩こう』だった。
正門通りにでると、いま別れてきたばかりの時子が走ってくる。だが、服装がちがっていた。紺のベルベットのスーツを着ていた。胸にピンクのコサ―ジをつけている。
女はおそかったじゃないの、となじるように上目づかいに、わたしをみあげた。
わたしは不意にそう感じた。
わたしは時子と結婚していたのだ。これは、時子だ。
わたしは遠くをみる目で、目前の妻をみていた。
はるか時空を超えて、彼女の後ろでは青山の銀杏が散っていた。街角に消えた時子がそこにはいた。どうして、それに、いままで気づかなかったのだろう。
パレードが止まった。
休憩らしい。
憲一が金色にきらめくトランペットを高く上げて、わたしたちのほうに走ってくる。
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