第九話 遊園地へ/妻と子供とぼく。第1章 サイクリング 

1 サイクリング


 五月の陽光に木々の群葉がきらめいている。

 その明る過ぎる光の奔流に刺激されて、ぼくは妻を誘い家族でサイクリングにでかけることになる。次女の香奈はハンドルにとりつけた椅子にのせた。桃代は子供の自転車にひとりでのれる。親子四人、三台の自転車。とりあえずこれがわが家の全家族であり、乗り物である。

「ネエパパ、カナチャンノアシ、コンナニナガクナッタヨ」

 赤い靴と白いソックスの脚が鉄製の足掛けから10センチ先にとびだしている。ソックスとスカートのあいだの素肌は乳児のものではない。きりっと肉もひきしまっている。子供の成長は実際にはやすぎる。

「パパコレアタラシクカッテヨ」

 これがなにを指示しているのか、娘がなにを欲しがっているのかわからない。訊き返す。コレヨコレ、椅子の中でおしりをもじもじさせて叫ぶ。

「よしなさい、香奈ちゃん。パンツがきれるわよ」

 けっしておこっているのではない声で妻が娘をたしなめる。

 香奈が笑う。

 金属のこすれあう音をきき、妻や子供の声に耳を傾け、〈これ〉という言葉によって娘がぼくに伝えようとした事物を眺める。ぼくにはその物を指す言葉が浮かんでこない。

 名詞……あきらかにそれにあたえられているはずの名を思いだせず、口にすることができなくて、とまどってしまう。

 それとも最初からこの事物にあたえられた名づけられた言葉を知らなかったのではないだろうか。

 一瞬、ぼくはハンドルを立て直す。考えごとをしていたので、あやうく道路の裂け目に乗りいれるところだった。

 ペタルを踏む。

 香奈は両手をあげてよろこぶ。桃代と妻がすぐ後からついてくる気配を背後に感じながら、狭い路地から表通りへとこんどこそ慎重に進む。

「あなた……もっと……ゆっくりはしってよ。とても追いつけないわ」

 陽気にだが、ためらいがちにいう。家族でこうしてでかけるのは結婚してはじめてのことなので、近所のひとたちの耳目を引くことを意識しているのだろう。

「わたし、こんなことはじめてだから、なんだか恥ずかしくて」

 案のじょう、ぼくとならんでから小声でいう。

 しっとりと、ぬれているように頬がかがやいている。

「わたしたち子供が二人もいるのね」

 ――沈黙。

 ながくはつづかない。ぼくの沈黙が、妻の言葉へ空隙のかたちで表現した反論ととらえられることを怖れたわけではない。話していなければ、言葉がとぎれてしまうようで、怖かった。

 ――そして欠落。たったいま話していた言葉がすでに発声されたそのときからぼくの記憶から消えてしまう。あるいは思いだせない、といった状態にぼくは悩まされていた。

 そしてぼくが言葉をすばやくみつけて、あいづちをうっておかないと「あなたなに考えているの?」という陽気な妻の声にわれにかえることになるのだ。

 ふいに、塩をはこぶ隊商、荷物を背にしたロバの群れにあう。ぼくの視野いっぱいにせまった光景はだが、塩とみてとれたのは子供たちで、彼らは親の背ではしゃいでいた。ひとびとは、到着するべき目的地に確信をいだいて進んで行く。

「みんな遊園地にいくのよ」桃代と香奈がいった。わたしたちも……。

 純粋すぎる。なんのためらいもない叫び声だった。ぼくがまちがいなく彼女たちの希望をいれて、遊園地に向かうだろう。「桃代も、行きたい!」「香奈も……」自信に満ちたおねだりを内在させた声。

 きらきらきらめく若葉の下を、妻と娘たちをともなって歩くのが、なぜかはれがましく淫らなことのようで、はばかられた。

 前方を直視して、なんのためらいもなく、堂々と隊列をなして遊園地に向かう群衆から離れ、ぼくらは北小学校の門をはるかにのぞむことのできる道路へ曲がる。

 ぼくはなにかつらい仕事から解放されたような安堵感にひたることができた。ひとびとのざわめきは遠のき、それは虫の羽音のようになった。

 息をつめてペタルを踏んでいたことに、あらためて気づく。隣り近所の、町のひとと行動をともにするのは、いやだった。深い吐息をもらす。耳ざとくそれをとらえた香奈が、なにか怖いものがいたのかと、ぼくに訊く。もちろん、うまく応えられるはずがない。

 妻と桃代がぼくらを追いこして、むじゃきに手をふっている。香奈はぼくの吐息への関心をとっさに忘れて、おねえちゃん追いついてくれ、とせがむが……かならずしも酷使してきたとはかぎらないぼくの脚が、思うようにペタルの回転を加速させることができず、ぼくをひどく狼狽させる。

 老化はほんのさりげない兆をみせてぼくらに近づいてくる。暗示にも似たその兆しをぼくらが認めたときには、とりかえしのつかない境地に追いこまれていることになる。ぼくはじぶんが、歳よりもふけこんでいくようで、さびしかった。父と母の看病のために、東京から帰省していらい、人並みのことを妻や娘たちにしてやれない。彼女たちを一歩も外に連れだしてやれないほど、ぼくらの生活は逼迫していた。そのうえ、父の死後、町内から村八分にあっている。悲しかった。

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