第十四話 ドッぺルゲンガ―

ドッぺルゲンガ―


「こんばんわ」

 いつも出会うパジャマ男だ。老人だ。

 サンダル履きで、ピタピタ魚のヒレが道路をたたくような音をたてている。近寄って来る。すれちがう。

「こんばんわ」

 失礼なヤツだ。いつものとおり挨拶もかえさない。

「魚か!! コイツ。感情がないのか」

 宵の口なので、どの家の窓も明かりがともっている。

 またあの窓から泣き声がする。

「嫁がイジメル。嫁がイジメルヨ」

 毎晩おなじ言葉。おなじ泣き声。

 気なるので、こつそりと玄関の扉に近寄る。聞き耳をたてる。

「あら、オジイチャンお帰りなさい」

 嫁が、扉を開けてくれる。

 こっそりと忍びこまないで済んだ。いつも施錠するのを忘れている。でも、どうしておれが扉のそとに立ったのがわかるのだ。

 襖を開ける。老婆が泣いていた。嫁がついてきた。

「いつものとおりよ。じぶんがなにをしているのか、わからないみたい」

「オジイチャン。また夜歩きですか。見て。わたしがお父さんに買ってもらった着物よ。この指輪はどうかしら」

 満艦飾に飾り立てた老婆は鏡に姿を映している。

「わたし、お嫁に行くのよ」

 老婆はわたしの妻だ。言葉はしっかりしているのだが、時系列からはみだしてしまった。退行して、いまは結婚前の娘でいる。着ている着物も装飾品も全部わたしが買ってあげたものだ。おとなしくて、ひかえめだった妻の思い出のなかで、それらの品物を買ったときの喜びはいまでも覚えている。なんでも買ってあげたいと思わせるほど、妻は喜び、感謝してくれた。それが――、いまではわたしだけの記憶のなかにある。すべての品物を身に付けた妻。わたしは、装飾品をジャランと身にまとった妻をだきしめた。

 男は年と共に、脱ぎ捨てた。すべてのものを、脱ぎ捨てた。職場での役職。働く誇り。妻に対する見得――可愛い妻になんでも買い与えた。でも、もう与えられるものは、なにもない。お金も残っていない。

 妻はなにも捨てない。理想の容姿に――もっと美しくなろうと、化粧し、着飾っている。夜毎の着せ替え人形。独りだけの、ファッションショー。

 老婆であることに気づいていない。これで、幸せなのかもしれない。じぶんが、卒塔婆小町のように老いさらばえていると知ったら……。

 わたしは明日の夜も散歩に出よう。だぶん、あの爺さんに会うだろう。あれはわたしのドッペルゲンガ―だ。それを見たものは死ぬとし言われている。わたしは、肉体というさいごの衣を脱ぎ捨てるために、夜の散歩に出る。ごめんな、お前、こんなことしかもうわたしはお前にしてあげられない。


 わたしは生命保険にはいっていた。おまえには、秘密にして置いた。

 わたしはスピリチャルな存在となっても、いつも側にいるから。

 いつも一緒にいるから。

 おまえが、すべてを脱ぎ捨てて、わたしのもとに来るまで見守っているから。

 わたしの愛しいカミサン。美智子さん。愛しているよ。


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