第九章 シトシトピッチャン
9 シトシトピッチャン
シトシトピッチャン。
シトピッチャンとくらあな。
そういえば。
そういわなくても。
拝一刀の中村(萬屋)……ちゃんと、萬屋とおぼえているのだ。
……錦之介よかったなぁ。
『紅孔雀』はまだテレビで放映されているのかな。
シトシトシトと尿の切れがなんともわるい昨今である。
蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと 芭蕉
すごい尿の量なのだろうな、馬さんのおしっこは……うらやましいよ。
〈翁〉の尿はあいかわらず、なんとも切れがわるい。
爽快な排尿感がない。
胴垂木の、一刀のきれあじはすごかったな。
ホイ、ワスレテイタ。
ケイタイにでなければ。
軽快にオシッコがでないかららといって携帯にやつあたりして、でない、なんてことしてもはじまらない。
「パパ、あと15ふんよ。わたしは駅にむかっているわ」
あらあら忘れていた。
散歩じゃなかった。
美智子さんが忘れ物をして家にもどった。
〈翁〉は駅にむかってとぼとぼと歩いていたのだ。
公園などで道草している時ではなかったのだ。
尿意がはげしかった。
必死に堪えてトイレを探しているうちになにもかも忘却してしまった。
忘れさってしまった。忘却とは忘れさること。君の名は。
「ごめんなさい。ゴメンナサイ」
「だいじょうぶ、時間はまだあるわ。それよりタバコ屋さんの角で待っていて」
「はいはいはい。わかりました。タバコ屋さんの角ですね」
けっしてわかっていない声だ。
どうして駅に直行してはいけないのだ。
「それはね」
「それはね、見栄はって回り道」
「ああ、見栄はってね」
たったそれだけでこんどは、意味を感知する。
50数年にわたって生活空間を共にしてきている。
お互いを知悉している。
たのしくなってくる。
たいしたものだよな。
そのうちに顔をみあわせただけで。
すべてを知ることになるだろう。
携帯からの息遣いを聞いただけで。
互いの心がひびきあう。
そしてこれからふたりのあいだに起きることまで。
予知できるように――まあ、そこまでいくことはないだろうが。
おもしろくなってきたなぁ。
これが発展すれば……。
擦れ違いざまに。居合い抜きの辻切りみたいに。
ひとの思考するところをスパッと理解できるように――なりはしないか?
「そう、見栄はってなの。いますぐいくと特急に間に合うでしょう。それに乗らないで、10分まって快速に乗るのってみじめじゃない。特急料金1200円けちっているようで、いやなのよ」
みなまでいうな、わかっているよ。
でもそういうのは、倹約というので……。
なにも恥ずかしい行為ではないよ。
とはいわなかった。
せっかくいいご機嫌の美智子さんに。
ストレスをかける必要なんてさらさらないもの。
……それよりうれしいな、デイト、デイト、美智子さんとデイト。
わずかな時間ではあるが、ふたりで街を歩けるのは、うれしいな。
うれしいな。
特急に乗車したからといって。
どうせ北千住到着は15分くらいしか早くならないのだ。
〈翁〉は癌の 生体検査の結果をきくのが怖いのだ。
腎臓科のI先生に診察をうけるのをすこしでも遅くしたいのだ。
早く病院につくことはない。
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