第十七話 老人の食卓

台所に入る。

冷蔵庫を開ける。

独り暮らしの老人にしては豊富な食材や食品がある。

大好きな紀文の伊達巻もいくつも入っている。

先週、孫娘が来て、買い揃えてくれた。

さて、今夜はなにを料理しようかなと……考えたところで電話がなった。

旧式な卓上電話だ。

「はい、はい、いまでます。でますよ」

けたたましくなる電話に呟きかけるような返事をする。

受話器を取り上げる。

「中野。どうだ、皆で夕飯食べないか」

「いつ、帰省したんだ」

同窓生の川村だった。

「石黒と藤作も来てる。いまそっちへ車で向かっているから」

まちがいなくこちらが、快諾する。

そう信じている。

いつもそうだ。

こちらの都合なんて考えない。

さすが、大会社の会長にまでのぼりつめるだけはある。

いやだとは、いえなくなる。

強引なやつだ。

――快諾した。

川村はともかくとして、石黒と藤作には会ってみたい。

このまえの「喜の字」を祝っての同窓会以来だ。

黒の乗用車だ。

ドァがいくつもある。

運転手つきだ。

車内の3人はワインで盛りあがっていた。

トロっとした、いい香りの、高そうなワインだった。

「駆け付け3杯だ。川村のおごりだ。めったに飲めるワインじゃないぞ」

石黒が川村にお追従。

ワインの銘柄と年代を石黒がいった。

わたしにはわからない世界だ。

はやくも酔いが回って、石黒の呂律が妖しい。

もっとも、はっきり聞き取ったところで、その価値はわたしにはわからない。

着いたところは、K総合病院だ。

「この街では、ここがいちばんおいしいからな」

「美味しいかっぺよ」

と藤作がこの土地の方言でいう。

親近感がわいた。

4人がこの町で高校生までの12年。

ともにすごした連帯感がよみがえった。

「ちょっと、トイレに」

「前、立ちかよ」藤作が、たのしそうに揶揄する。

「そうゆうな。藤作も前立腺肥大だろうが」石黒がいう。

「貧乳だろう」と川村。

「それいうなら、頻尿でしょう」

と石黒がまじめに訂正する。

川村のジョークは理解されていない。

「まだまだ、巨乳にはそそられるのでな」

と色艶のいい川村が応えた。

豪快に笑っている。

3人のたわいもない会話を後にした。

フロントから入って右折して直にあるはずのトイレがない。

さいきん、物忘れが激しくなっている。

やっと探しあてたトイレ。

モップをもったオバサンが――。

バケツをさげて入っていく。

「掃除中です」という標識をだされてしまった。

幾つになっても憚られる。

女性の傍で、ジョジョと音をたててニヨウをできない。

無神経にそんなことをできない。

もつとも、音がするほど尿圧はない。

悲しいかな、チョロチョロだ。

つぎの、トイレを探さなければならない。

尿意はセッパツマッテいた。

小走りに長い廊下をいく。

ところがなんとしたことか。

遠近法を逆にしたような廊下だ。

さきに行くほど広くなっている。

不気味なのであわてて角を左折する。

「ダメじゃないですか。病室にいてください」

澄んだ声。

うりざね顔。

富士額。古典的な日本美人の看護婦さんに咎められた。

周囲をみると、いつのまにか、重病棟にまぎれこんでいた。

「ここは、中野さんのくるところではありませんよ」

向こうから顔まで白いシーツでおおわれた患者がくる。

顔はかくされている。

死んでいる。

腕がシートからはみでた。

だらりと垂れ下がる。

看護婦があわてて、何度も腕をシ―ツのなかに押し込む。

「トイレを探してたんだが」

「はいここですよ」なるほど目の前にトイレの標識が壁からつきでている。

「はい、手を拭いてね」彼女はハンカチーフをわたしてよこした。

鹿沼麻子と縫いとりがある。

結婚する前のカミサンの姓名だ。

遠近法を無視した。先に行くほど広がる廊下を走った。

過去にもどってしまったのか。

わたしは神経質だ。

手洗い場の共同タオルを使うのを嫌っている。

それを知っていてくれた。

あまりのなつかしさに、感涙にむせび声もでない。

麻子との出会いはこの病院だった。

「ありがとう」礼をいった。

ハンカチを返す。

手渡すとき小指が触れた。

火傷でもしたようにジーンと熱ばむ。

肩をたたかれた。

藤作だった。

「探したぞ。みんなが待っている」

「いっては、だめ」麻子が叫ぶ。

「はやくいこう」

「だめ。いかないで。あなた」

えっ、いまなんていった。

あなた。と呼びかけられた。すると……わたしは、麻子と結婚しているのか。

「あなた。いかないで」

「この裏切り者。中野を食卓につれてくる約束だぞ」

藤作がどこに隠し持っていたのか大鎌を麻子に振り被る。

死神の鎌だ。

「収穫」鎌が薙いだ。

麻子の首が中空にとぶ。

体は瞬時にウジがわく。

「あなたぁー」声だけが中野の耳に残った。

ウジがわいた体で麻子はよろけた。

二三歩中野のほうに近寄って来る。

中野は彼女を強く抱きしめる。

ここは黄泉比良坂だ。

病院の廊下などではない。

「収穫だ」裏切り者――。

中野を晩餐に連れてくる約束だった。

それで、現世に引きもどしやった。

中野に会わせてやったのに。

綺麗な体で、ふたりで黄泉の国に降り立てばいいものを。

ウジの山となった麻子に藤作がののしっている。

中野は逃げた。

死骨累々。

白い骨の荒れ野を中野は夢中で走りぬけた。

前方に黎明の光がさしている。

麻子に救われたこの命、生きられるだけ生きてやる。

わたしは、手を開いた。

鹿沼麻子。

彼女のハンカチを握りしめていた。

わたしは彼女のハンカチを目がしらに押し当てた。

「愛しているよ。麻子、そちらにいったら、また一緒にくらそう。もういちど、愛の告白をして、クドクからね。いいかな……」


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