第十一話 魔引かれしもの
譏(そし)るとも苦しまじ。譽むとも聞きいれじ。 徒然草
1
こんなところで、「南国土佐を後にして」の歌声をきくとは思わなかった。
歌手はだれだったのだろう……? 哀愁をおびた声は「都へ来てから幾歳ぞ」と歌いあげている。歌詞のひとつひとつの言葉にはそれぞれ懐かしさがあった。
昔のことをおもいだした。……わたしはその歌声に触発されて忌まわしい過去をふいによみがえらせてしまった。
失われた、いやむりに忘れようとして忘れた、過ぎ越しかたの記憶――。いまとなっては、過去を慈しむ心境になっているのに――。
おどろきながら立ち竦んでいるのは、故郷の町の郊外に在るリサイクルショッ
〈飛行船〉の広々とした店内だった。歌手はだれだったろうか。さいきん、とみに記憶力が低下しているのはわかっていたが、あれほどすきで、青春の季節に友だちと合唱した歌の、歌手の名が浮かんでこない。
哀調をかなでる歌声を聴いても、歌手の名前が思いだせない。老人になるとはこういうことだったのだか。歌手の名前どころではない。ともに「南国土佐を……」と歌った友だちの名前さえ思い浮かばない。
東京での生活が七十年にもなる。集団就職。東京に希望の新天地をもとめて、全国の若者が東京をめざした世代だ。
五月の連休を息子と楽しく故郷死可沼で過ごそうと帰省した。帰省して、古い友だちを訪ねてみた。記憶ちがいで、訪ね当てることができない。名前が違っていたり、死んでしまっていた。
わたしは広々とした店内でただ一人立ちつくしていた。陳列してあるのはリサイクルショップだから、むろん中古品だ。それがもうはんぱではないほど古いものがある。
木製の脱穀機、それもご丁寧に、右側に手回しのハンドルが付いている。中古の実用品というより、民芸品としての価値がありそうな代物だ。
バイクがある。自転車に金属の湯たんぽのようなガソリンタンクを後輪の脇につけた、ホンダの原動機つき自転車、通称バタバタ――カブだ。いずれも昭和三十年頃のものだ。
なつかしさに、わたしは頭がボーットかすんでしまった。この〈飛行船〉にわたしを連れて来てくれた息子の崇は埃をかぶったバイクを眺めまわしている。崇の長男、この春東京は蒲田の小学校に入学した孫のマサルは子ども用の自転車にのってハンドルを操作している。
かわいいさかりだ。孫がまだ小さいのは、わたしが晩婚だったからだ。よもや、結婚するなどとは、考えてもいなかった。
わたしは一歩だけ踏み出した。裏口の引き戸が開いていて、まるでわたしを誘うかのように明るい初夏の斜光が射しこんでいる。わたしはその明かりの中へ近寄って行った。
引き戸の外は道になっていた。表の入り口、アサハルトで舗装された道路とはなんというちがいだろう。この裏口からでた場所はリサイクルショップの敷地内なのか。遠近法を無視したような未舗装の農道がどこまでもつづいている。
ノスタルジックな、ぬかるんだ、水溜りのある農道といい、機械化されるまえの田園風景だ。
全て手作業でおこなわれているらしい田畑の景観、遥か彼方の山腹の斜面には段々畑まであるではないか。もしかして、昔の農業を体験できるテーマパーク。このお店のつづきとしての場所なのかもしれない。
でもなにかスゴク危険な感じだ。もし一歩踏み出してしまうと、もとにもどってこられない危険な場所のようだ。車のアダチの跡に水がたまって小さな流れとなっている。――いや道そのものが泥んこで液状化してしまっているようだ。
この中古品の陳列場所からでたら過去の世界に閉じこめられて、もどってこられない場所なのか。長靴でもはいていなければ、歩けそうにない道。だいいち泥濘に囚われて、足がズボッとはまりこみ、ぬけなくなってしまうのではないか。それどころか、からだが沈み込んでしまうのではないか。蟻地獄に捕らわれたよう……。引き戸の敷居を越えてしまったら――。
「お父さん、どうしたの」
崇の呼びかけで、わたしは現実にひきもどされた。
「どうしたの。固まっていたから……。なにかへんなもの見たりして……」
崇のシェックスセンスにひびくものがあったのだろうか。ふりかえった。わたしの視線は二階に上がる階段をとらえた。
ああ、二階があるんだ。上り口に表示板があり〈骨董品〉とある。
あの階段を上ったらここよりもさらにわたしの青春の日々につらなる思いでの品が――家具や、食器や本や、ぼくのノートや彼女のことを書きしるした日記が陳列されているかもしれない。そんなアンリアルな不安におそわれる。未熟な胎児のホルマリン漬けの標本が……そこまで思いいたったところで頭がクラクラして、その場にすわりこんでしまった。
もう亡くなってしまった、わたしの周囲に無いものが有るかもしれないということは、恐ろしかった。ここはバァチャルチリアリティの世界なのかもしれない。いちど入りこんだらさいごだ。もう現実にもどってこられない――?
「どうしたの、おとうさん。おとうさん」
胎児にははっきりと口までついていた。つぶらな瞳がこちらをすがるようにみつめて、わたしに呼びかけている。「おとうさん。おとうさん」わたしに呼びかけているのはまだ見ぬまま消息がわからない、生まれたはずの子どもだった。
おとうさん。オトゥさ―ん。孫の手をひいて息子が笑っている。
「帰るよ」
わたしは未練たらしく裏口から見える田園風景に目を転じた。
「帰るよ。おとうさん」
息子がせかしている。あの田畑のはてに古賀志山がある。中腹に県の保養所があった。学校の夏季講座で泊まり込んだことがあった。窓を開けると段々畑か見下ろせた。そうだ、わたしたちは山の上にある浄土宗の寺、雲竜寺にきている。そして保養所の大広間で講義を受けていた。彼女がいる。彼女がわたしのとなりにひかえめにすわっている。
まだいちども口をきいたことのない彼女だ。どうやら、受験しようとしている大学がいっしょらしい。はじめての言葉は「わたしの希望校とおなじね」だった。……はずだ。
つぎの記憶の一コマでは――二人唇がとけあった。
二コマ。桜の季節――入学シーズン。彼女は約束を破りわたしと同じ大学を受験しなかったのだろう。入学式にあらわれなかった。彼女の実力からして不合格ということはありえなかった。ところが、なぜ彼女が合格者発表の掲示板のまえに、あんなに約束したのに、現れなかったのか。その理由は追求したのだろうが、記憶からは欠落している。
三コマ。彼女は消えた。桜色の嬰児とともに永久にわたしの目前から消えた。いや、彼女が赤ちゃんを産んだというのはウワサだけだったのか。もういちど、あのころの季節をくりかえしたら事実を確かめることができるだろうか。彼女のふいの事故死で、大学生になったら同棲しょうという約束は、はたせなかった。わたしはみっともないほど泣きつづけた。それなのに、なにか言い争ったことは覚えているのに、なにを言い争ったのか記憶からぬけおちている。「帰ってこないで。どんなことがあっても、二度とわたしのまえに、姿をみせないで」彼女はそういって、わたしを悲しませた。
四コマ。わたしたちの〈愛〉はたった二カ月で生涯を共にしたような波乱のうちに費やされてしまった。彼女が泣いている。なぜ泣いているのか、思いだせない。もどかしい、うすれかける映像。
五コマ目。「わたしもうだめ。さようなら」彼女がわたしの視野から消えていく。たった五コマのわたしだけの懐かしの映画。そして彼女が事故死したというのはウワサだったと知るのは上京してしばらくたってからだった。時系列どおりに、記憶は重なっているとかぎらない。時系列どおりに――、思いだすとは――かぎらない。
でもたった五つのシーンからなる短いみじかい、わたしの記憶。彼女はまだこの街で子どもと暮らしているかもしれない。
彼女との愛を全うできなかった。作家になることがわたしの禊だ。死ぬほど苦しみつづけて無名作家でおわればいい。彼女にあんなヒドイ仕打ちをしたのだから――。
小説をかきつづけることが、わたしじしんのための、彼女への、とりわけ――せっかく形をあたえられたのに中断されてしまった者への贖罪だろうと思ってきた。だが、本当にそういうことがあったのか? いまとなっては、なにもわからない。
哀惜の情にささえられた行為でもあったが、あれからずっと間引かれたもののことを、書きつづけてきた。こんなことで、許される訳がない。残された者のいまがあなたの犠牲の上になりたっている。だからわたしたちはあなたのぶんまで生きぬいて幸せになります。
そんな償いのことばなどうけいれてくれる神はいない。ただ地虫のように汚れた土地の上をはいずりまわって、生き地獄に落ちる日をまつだけだ。
なにかヒドイことを彼女にいったらしい。
なにをいったのか、その言葉が思いだせない。
茫洋とした。浮遊。断片。猛烈に焦る。――記憶のなかで、思い起こすことの出来ない。それが思い浮かばない。たった一言それが彼女と別れることになった言葉。
――それが欠落している。
記憶の海に浮遊している言葉。言葉の断片。短い端的な言葉だったはずだ。このまま思いだせないのかと猛烈に焦る。
ここはリサイクルショップの店内だ。これらの中古品がまだピカピカの新製品だったころに思いをはせ、もういちど時間を巻き戻し、過去に遡行して、人生を反芻してみたい。
よけいな心痛のタネがまたふえた。
どういうことなのか? なにがあのとき、起きていたのか。
思いだすことが、できるのだろうか?
ペギー・葉山。そうだ。歌手の名前はペギー・葉山だ。
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