第十二話 孤独死
孤独死
「いまなら、朝一番に診てもらえるわ」
カミサンが、手提げ袋を持ってきた。
「リリに、餌はやらないほうがいいのかな」
「不妊手術だから」
リリは恨めしそうにわたしの手もとをみている。跳び上がる。わたしはリリの餌皿をタンスのうえに置いた。
「袋にいれたのでは可哀そうだわ。抱っこしていきましょう」
門のところで交代した。カミサンは毛布を用意してきていた。リリは不安そうに、でも「ンン」とカミサンのかおを見上げて鳴いた。リリはなぜかニャオと猫の鳴き声が出ない。生後三月ぐらいで、わが家の玄関に迷いこんで来た。
「こんなにおおきくなって、もう赤ちゃん産めそうね」
「ごめんな。パパに働きがあれば何匹でも赤ちゃん産んでいいのに」
そのかわり、リリとはずっと一緒だからな。あと、20年は長生きしてよな――。
カミサンはリリにほほを寄せて歩きだした。大通りの方ですごい騒音が高鳴る。道路工事をしていた。トラックが警笛を鳴らした。
カミサンが悲鳴をあげた。リリが車道にとびだしていた。車が来た。リリがすばやくこちらに引き返してきた。
わたしは一瞬リリがひかれたとおもった。そのイメージが脳裏に煌めいた。でもそれはなかった。リリはそのまま家と家のあいだの狭い隙間にとびこんでいった。
それっきりリリはわたしたちの視野から消えてしまった。カミサンは「リリリリ」と泣き声であたりを探して歩いた。
「リリリリ」いくら呼んでも姿をあらわさない。
どこにいったのかわからない。家に帰ってみると昼近くなっていた。
カミサンは涙をポロポロこぼして泣きだした。
「キャリーケースを買えばよかったのよ」
そう言うと、また声を上げて泣きつづける。それから、なんどもカミサンは近所を捜しまわった。
タンスの上でリリの餌皿が光っていた。斜陽が窓ガラス越しに射しこんでいた。わたしは固形餌の小さな山をくずさないように、そっとかかえこむ。水飲み皿の横に置いた。餌と水飲み皿をみて「まるで影膳のようだ」と思ってしまった。
あわてて、その不吉な考えを捨てた。裏庭のデッキでカミサンが弱々しく「リリ」と呼ぶ声がしていた。声は涸れていた。涙も涸れているだろう。
「今夜は、眠れないわ」
かみさんがしわがれた声で嘆いた。
階下の東の隅の寝室で寝ているカミサンを起こさないように、気をくばりながら静かにカーテンを開く。それでも噛みしめた歯のあいだから猫が漏らす威嚇のような「シャ―」という音がした。わたしの書斎は二階の角部屋に在る。北はずっと以前に火事で7軒あった長屋が火事で全焼した。そのまま空き地になっている。東も空き地。その向こうが青空駐車場になっている。
朝の太陽をあびて冬枯れた草が茫々と大地をおおっている。リリが道路工事の騒音と車のエンジン音に驚いてカミサンの腕の中から逃げだしてから2昼夜が過ぎてしまった。
昨日は午後から冷たい雨が降りだした。眼下の東側の駐車場の端に側溝がある。水は流れていない。リリはその辺り、わが家から50メートルくらいしか離れていない場所で姿を消した。死の恐怖におそわれ、まるで弾丸のような速さで家と家の間の隙間に跳び込み消えていった。
「この雨で濡れないかしら」
「猫だから身を寄せる場所を探しあてているよ」
「寒いわ」
「毛皮をきているのだから……」
「凍え死んじゃうわ」
「心配することないよ」
「死んじゃうわよ」
「恐い体験をすると一週間くらい縁の下にもぐりこんででてこない猫もいる。インターネットで調べた」
「調べてくれたの」
「その猫の好きな食べ物をもって名前を連呼して歩くといいらしい」
「そんなことまで書いてあるの」
「あす晴れたら、削り節をもってもう一度、あの空家の周辺を探してみよう」
「ねえ、わたしがつくったサッカ―ボールがこんなにあるの」
カミサンの手のひらにはアルミホイルをリリが咥えられるくらいに丸めたボールがあった。それを床に置いてはじくと、前足ではじきかえしてくる。カミサンは子どものように喜々として遊んでいた。ついぞ聞かれない笑い声が家のなかでしていた。リリのふわふわした布製のベッド。リリの破いた障子。几帳面なカミサンはすぐに桜の花の切り張りをした。障子の桟をつたって天辺まで登りつめたリリのヤンチャな爪痕。
いままで、元気に飛び跳ねていたリリがいない家の中は、さびしくなった。
「泣くのはいいが、いつまでも嘆いているとまた風邪が悪くなる」
カミサンは三カ月も風邪で咳が止まらない。
「だって、悲しいんだもの」
少女のようにわたしの胸に顔をふせて泣きじゃくっている。いままでいたリリが不意に消えた。ケガをした訳ではないので――死んではいない。必ずまだ生きている。ひょっこりと、迷いこんで来たときのように玄関先にあらわれる。
「もどってくるよ」
「気軽にいわないで。探しに行きましょう」
「あした晴れたらもちろん行くさ」
「キットヨ」
猫は怯えると、一週間もその場から動かない。そんな習性があるとインターネットで調べた。まちがいなく、越後屋さんの空家に居座っている。そう判断して二人で家をでた。削り節の袋をカミサンが手に、リリをさがしに出発した。リリが逃げてから三日目になる。工事現場の轟音とトラックのエンジン音を初めて耳にしたリリは恐怖のあまりカミサンの腕から跳びだした。危うく車道の中央でトラックに轢かれるところだった。よく踏みとどまり、こちら側に逃げ戻ったと思う。あのとっさの判断が生死の分かれ目だった。
F印刷屋さんと越後屋さんのあいだの狭い空間に跳びこんだ。
猫なら通れる。犬ではむり。細く狭い。この辺から、移動する訳がない。まちがいなく、越後屋さんの空家に居座っている。
空家の隣のYさんがヘンスにある扉を開けてくれた。
「リリ、ママよ。リリ、ママよ」
カミサンが削り節をヘンスの上や、地面に置いた。
「リリ。リリ」
鳴き声がした。あまり幽かなので小鳥の鳴き声に聞こえた。ニャアと猫の鳴き声ができないリリだ。
「リリだ」
「リリだわ、いた、あそこにいる。どうする。どうする」
カミサンは感極まっていた。わたしはさらに奥に進む。リリを捕獲しようとうると朽ちかけた縁側から部屋に逃げた。追いかけた。畳に親猫がいた。三匹の子猫が乳を飲んでいる。あきらかに毛並みからみても、リリの母猫だ。
リリは母のニオイをかぎつけて、ここに、逃げ込んだのだ。乳を飲む子猫はリリよりもはるかに発育がわるい。いや、リリのつぎの世代の子猫だろうか。親猫がわたしを威嚇する。牙をむき野獣のようだ。
わたしはおもわずあとずさった。襖につきあたった。襖ごと隣の部屋にころがった。ブアッとほこりがまいあがった。布団が敷かれていた。
老婆が死んでいた。
死んでからかなりたっている。孤独死だろう。わたしは大声で叫んでいた。
老婆は飼い猫が出産したのをみとどけたのだろうか。
猫の家族が老婆をみとった。
老婆は独り寂しく死んでいったわけではない。
そう、わたしは思いたかった。
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