第41話 我慢と胸騒ぎ
開け放たれた窓から、爽やかな皐月の風が吹き込んでくる。草木の青い匂いと、太陽の匂いが鼻をくすぐる。季節はもう五月の半ば。春の名残は既になく、青々とした木々が窓の外でざわざわと揺れている。その木々の影がグラウンドの砂地に落ちて、校舎にいる二人にも届いていた。
「我慢大会って……」
そんな中で、瑠依は呆れたように美園の言葉を繰り返す。風が彼の黒髪を薙ぐ。美園は暴れる自分の黒髪を抑えながら「さむっ」と呟いた。衣替えはまだだが、彼女は体育会系の典型で、長袖の裾をまくっていた。それをくるくると降ろしながら、唇を尖らせる。
「だってそうでしょ? 楓はあんたから離れたくないし……。あんたも楓を独りにはしたくないけど、耐えていられるのも時間の問題じゃない?」
「……俺が耐えればいいだけの話だろ」
「ほら、やっぱり我慢大会じゃん」
頑なだな、と美園は呆れたように呟いて瑠依を睨み付けた。「仕方ないだろ」と瑠依は首を振って美園を見た。
「他に楓を助ける方法があるなら教えてくれよ」
苦しげに顰められた顔を見て、美園は一瞬ぽかんとした。
その顔に、瑠依が「何だよ」と訊く。
「いや、あんたが私を頼るなって珍しいと思って……」
美園が呆けたように言って、そう、と誰に向けるでもなく呟いた。
「そんなに切羽詰まってんのね」
そう言った美園はもう気の抜けた顔ではなく、真剣な表情をしていた。
切羽詰まっているのだろうか、と瑠依は自分に問いかけた。
……確かに、切羽詰まっているのかもしれない。
このところずっと頭を占めるのは、このままでいいのだろうかという懸念ばかり。
支えたい。傍にいてやりたい。消えてほしくない。
今でも、全力を尽くそうとはしている。なんとかして支えてやりたい。できることなら何でもしてやりたい。
でも、そう思って自分のしていることが、本当に楓を繋ぎ止められる正答なのか、確証がない。
自分の不甲斐なさは増すばかりだ。
できることなら、誰か教えてほしい。俺は、どうすればいい?
瑠依が思わずこめかみを押さえつけると、美園は大丈夫かと彼の顔を覗き込んだ。
「……心配しすぎなんじゃない?」
美園が放った言葉に、瑠依は「は」と思わず声を漏らしてしまった。
美園を見ると、彼女は心配そうな表情で瑠依を見つめていた。
「それよりも、私はあんたが限界に見える」
あんまり、根詰めすぎないほうが良いんじゃない、と言う美園に、瑠依は訳が分からないと言った顔を向けた。
「お前は楓の友人だろ。気にならないのか」
「気になるわよ」
美園は心外だとでもいうように顔を顰めた。そのまなざしは強く、きりりとした眉は怒りを表していた。
「私はあんたの友人でもあんのよ。どっちも心配して何が悪いの」
美園は「だから、」と続けた。思いの籠った強い声だった。
「だから楓を守るためにあんたが犠牲になるのは違う。瑠依が自分の気持ちを押し殺して、楓を優先させるのは絶対違う」
真剣な面持ちに、瑠依は二の句が継げなかった。美園の剣幕に、周囲までがどうしたのだろう、と注目している。
しかし、
「あ――――!」
瑠依が返答するよりも先に、美園が大声を上げた。瑠依だけでなく、周りの生徒もびくりと反応する。
美園は叫んでから、ばさっと顔を上げた。その表所は清々しいほどの笑顔だった。憑き物が落ちたような顔だった。
「すっきりしたー。ずっと言いたかったんだ」
やっぱ、溜め込むのは性に合わないわ、と美園が快活に言い放つ。
瑠依はそんな美園の姿を呆然と眺めることしかできなかった。それほど美園の挙行は唐突だったのだ。
そして、瑠依が我に返る前に美園はなおも言い募った。
「あんたが自分の気持ちに自覚しても伝えないとか言い出すから、楓はあんな奴に良いように搔き乱されてんのよ。見てるこっちが腹立たしいわ。何が守るよ。全然守れてないじゃない」
「……あんな奴?」
瑠依はやっと反応することができた。その一言が瑠依にとっては大きな打撃だったのだ。
問い質された美園は口にするのもおぞましいというように顔を顰め、
「安藤。あいつ、さらに楓にアプローチしてる」
と吐き捨てた。また顔に皺ができている。
しかし、瑠依は構っていられなかった。
口をついたのは疑念だった。
「あいつには近づかないように言ったぞ」
瑠依はあの夜、楓の胸の内を明かされて、安藤の事情も知ることになった。楓と同じ事情———つまり、親がいないということも。瑠依は同情したが、それで楓自身が混乱するなら安藤と接触するのは避けたほうが良いと思った。しかし、それを切り出そうとした途端、楓の様子がおかしくなった。なんとか落ち着かせたが、その理由は分からないままだ。だが、その出来事で尚更、楓は安藤と関わらないほうが良いと思った。だから、楓に言ったのだ。「安藤と極力関わらないほうが良い」と。楓の反応は微妙だったが、しつこいほど釘を刺したから大丈夫だと思っていた。
それなのに、まだ関係を保ち続けているのか。
「楓は関わらないようにしてるみたいだけど、あいつの押しが強いのよね。あの子も断り切れるほど根が強くないし」
美園が悔しそうにため息をつく。
瑠依は自分の前髪をくしゃりと握った。
また、この感情だ。
楓を守るために安藤を遠ざけたほうが良いと思っている自分はいる。確実に。だが、それ以外の感情もふつふつと紛れているのだ。
今現れているものを嫉妬と呼ぶのなら、それは昇華しなければならないものだ。『家族』にそんな感情はいらない。
それなのに、その感情は瑠依をあざ笑うかのように見え隠れする。そのたびに自分は楓の傍にいる資格なんてないかのような気持ちに追いやられる。
自分の中の自分が言うのだ。
そんな感情を持ち合わせて、よく楓を守るなんて言えるな、と。
お前は楓にふさわしくない、と。
その声を何度もかき消す。
楓が自分を必要としているのだ。
自分の代わりは誰もいない。
自分以外楓の傍にいられるものはいないのだ。
そうやって何度も言い聞かせて―――。
しかし、マグマのようなどす黒い感情は消えない。へばりついて離れない。
もういっそ、この感情をぶちまけてしまおうかという感情すら湧いてきてしまうのだ。
楽になりたいだろうと。罪の意識にさいなまれるのは苦しいだろう、と。
そして、美園すらそうしてしまえと言う。
「……なあ、俺が楓に思いをぶちまけたらどうなると思う?」
瑠依が額に手をやりながら訊ねると、美園は一瞬息をのんだ。
しかし、すぐさま考え込むように唇を尖らせ、顎に手を当てる。
そして、慎重に言葉を選ぶように、一音一音を丁寧に発していく。
「あんたが考えるより深刻なことにはならないと思うけど」
「……それはどういう意味だ」
瑠依がまたも尋ねると、美園は、これは憶測だけど、と口を割った。
「あの子さ……」
「瑞谷くん」
美園の言葉を遮る声があった。二人が声のしたほうを振り返ると、内藤が教室の戸口から体を出してこちらを伺っていた。
「あの、お取込み中ですか……?」
申し訳なさそうな表情を浮かべた内藤に、瑠依は、ああと言いながら近づいた。
「修学旅行の事?」
「……はい。ちょっと作業で分からないところがあって」
そう内藤が言いながら一枚の紙を瑠依に見せると、瑠依は「ああ、その資料なら俺が持ってる」と言い、美園のほうを振り返った。
「悪い美園。また時間作る」
「雑用係も大変ね。まあ、せいぜいこき使われなさい」
美園がだらだらと手を振ってこたえると、瑠依は教室の中へと消えていった。
後を追おうとした内藤が、一瞬躊躇いを見せて美園へと振り返る。
「あの、」
声を掛けられた美園は大人しそうな彼女を見つめた。
美園は、この子、どっか楓に似てるなぁ、と思った。
その内藤はきょろきょろと忙しなく瞳を動かしながら、あの、あの、と繰り返している。
しびれを切らした美園は、「何?」とつい強い言葉が出てしまう。やば、と思った美園に、案の定内藤はびくりと肩を震わせた。
しかし、その口調がトリガーになったかのように、内藤はおずと口を開いた。
「塩崎さん、ですよね?」
「そうだけど」
美園が答えると、内藤はあの、と震えた声で尋ねる。
「瑞谷くんのことどう思ってますか?」
美園はその瞬間、ああ……と察した。
この子も、瑠依のことが好きなのね。そういう子ね。
美園は思わず天井を仰いだ。
まさか、同じ実行委員があんたに想いを寄せてることはね。それか、一緒に実行委員になってから惚れられたか。
……罪作りな男だ、まったく。
あんな優柔不断の男のどこがいいのか。
美園ははあ、と心の中でため息をつきながら、手のかかる友人二人のことを思いながら、答える。
「私のとってのあいつは、サウンドバック。だけどあいつには先約がいるから」
内藤の肩がピクリと動く。表情が強張り、それって、と小さな唇が動く。
「ふ、藤森さんの事ですか……?」
この子も知ってるのか。……まあ、知らない奴のほうが少ないわな。
そう苦笑しながら、問いかけの答えをつむぐ。
「断定はしないけど、まあ、あいつを本気で見てたら分かるでしょ」
美園が顎をしゃくって内藤の後ろにいる瑠依を示すと、彼女は息を潜め、「そうですか……」と呟いた。
しかし、俯いていた彼女が顔を上げたとき、そこには今まで玉砕してきた女子たちとは違う瞳があった。
美園は直感で、この子はなんかやばいな、と思った。
また、複雑になるのか……。
教室の中へ去っていく内藤の背中を見つめながら、美園の心中に陰りが差すのだった。
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