第12話 秋陽と紫
『もう出発するのですか、ユカリ』
凍り付くような空気と、突き刺さるような風が吹く中、黒い礼服だけを身に纏った牧師、フローレス氏が私の名を呼んだ。ここに来た当初はたどたどしかった発音も、既に流暢に「ユカリ」と呼んでくれるまでになった。何年も前から、彼に自分の名を呼ばれているような感覚さえする。
『はい。お世話になりました』
石畳の階段の前で振り返り、紅色のトランクと首に巻いた抹茶色のマフラーが風に飛ばされないように両手で抑えながら、頭を下げる。
ここの凍えそうな寒さは正直苦手だったが、彼の愛嬌のある笑顔と、人の好さそうなあごひげをもう見れなくなるのだと思うと、少し寂しい気がした。
『これが一生の別れではないでしょう。また、いつでも会いに来てください』
彼女も連れて、と言ったフローレス氏は、サンタのような真っ白いあごひげをゆっくりと撫でながら哀愁を漂わせて微笑んだ。
彼女もじきにここを発つ。孫のように可愛がっていた彼にとっては、切ない別れになるだろう。
彼の後ろにそびえ立つ教会の、正面玄関に飾られた樫の木の十字架が私を見送る。ここでの生活と出会いが、走馬灯のようによみがえってくる。
そして、いまさら何を聞こうとも、自分の気持ちは変わらないはずなのに。
フローレス氏に確かめたいのか、それとも目の前の十字架に問いたいのか、それとも見えぬ神か。
誰に確かめたいのか、自分でも分からなかったが、私は唇を開いていた。
それは、これからすることが正しいのだと、誰かに肯定してもらいたかったがための行為だったのかもしれない。
『フローレスさん』
『何でしょう』
『私がこれから相手しに行くのは、結構根が深そうな人なんです』
『ええ』
『そんな人でも……どんな人でも、心から生きていたいと思えるようになりますか』
風がびゅうと強く吹いた。
私の発した言葉が、風に乗って散っていってしまうかのように思われた。そのまま、白い空へと消えていってしまうような。
それでも眼前のフローレス氏は、深いしわを湛えながらゆっくりと目を細めた。その皺は、彼が生きてきたという証だ。
そして、私の言葉を受け止めた証拠でもあった。
『それは、分かりません。私は今まで、多くの人が自ら命を絶っていくのを見ました。生きることに希望を見出せずに、あちらへ逝ってしまった人を、見てきました』
その言葉は重く、ずしりと圧し掛かってきた。
そして、私がこれまで訪れていった町々で遭遇した「死」を思い起こさせた。
それは、ここでも。
『できることなら、その子たちには留まってほしかった。生きていてほしかった。しかし、私がどれだけそう思っても、私の言葉や行動で、彼らの抱えた苦しみや悲しみ、憎しみを軽くしてあげることは、悲しいかな、難しいのです』
そう告げた彼の相貌に、寂しい影が宿った気がした。
『私は神ではありません。万能でもない。誰かの心を変えたいと思うのは、傲慢かもしれません』
そう繰り返し、噛みしめるように唇を動かす神父の姿を、私はただじっと見つめていた。
『最後に決めるのは、自分自身なのです。死ぬも生きるも、彼らの人生であり、私たちの人生ではない。苦しみを抱えて生き続けるくらいなら、と死を選んでしまった子は、本当に生きていくのが辛かったのでしょう。私は、その苦しみを完全に理解し、分かってあげることができなかった』
その逝ってしまった魂を探すかのように、彼は空を見上げた。真っ白い空。真っ白い息が空へと昇っていく。彼の瞳はゆっくりと動き、空中を撫でている。
『しかし、私はこれだけは忘れないでいようと思うのですよ。その人の人生は、その人だけで出来ているわけではない。私たちは、その一部を形作ることができる。そして、その一部はその人にとって少しでもいい。救いでありたい。光で、ありたい』
白髪交じりの髪が、ふわあと揺れ、まるで綿毛のように、空に飛んでいくようになびいていた。
そして、視線が空から私へと戻ってきたときには、彼の瞳は「私」という存在を肯定してくれているような、そんな優しい色をたたえていた。
『あなたが助けたいと思う人を、あなたの思うままに、あなたがしたいように、支えてあげてください。神のご加護がありますように』
その託されたような、信頼されているような、胸が暖かくなるような言葉に。
私は。
***
瑠依をロビーに残し、秋陽と紫は通話スペースの一角に移動した。そこは人が二人入れるほどの狭さで、端には古びた公衆電話が設置してあった。秋陽はその隙間に押し込まれるように入り、壁側に背中を預ける。紫はその前で仁王立ちした。
「ただいま」
紫は開口一番、まるで返事を催促するかのような強い口調で言った。秋陽の顔をじろりと、弟と同じ漆黒の瞳で睨み付けてくる。
「おかえり」
秋陽は諦めたように苦笑し、挨拶を返した。その時、ふと口元に違和感が生じたが、気のせいだと振り払う。
紫は秋陽の返事を貰って多少機嫌を良くしたのか、口元を緩め、ふっと髪を耳にかけた。栗色のウェーブがかかった髪が、シャンプーの匂いと共に宙を舞う。
「焼けたな。アフリカ地域に行ってたんだろ」
所どころ色の禿げた髪と、健康的な褐色の肌を見つめながら秋陽は尋ねた。
「アフリカには行ってたけど、具体的に言うとアメリカ帰り」
何でもないように言ってのけた紫に、秋陽は訝し気に眉をひそめた。
「聞いてないぞ」
「言ってないから」
飄々と言ってのける紫に、頭を抱えながら、秋陽は思い出した。
そうだ、こういうやつだった、と。
幼い頃から、自分の考えは曲げないという一点張りの頑固さ、子どもだから、というフォローさえも無理があるほどの無茶をやらかしては、秋陽や瑠依、周囲の人間を巻き込んでいた。お調子者のガキんちょを返り討ちにして泣かせたのは一度や二度ではない。
そんな彼女だからこそ、危険をものともせず、海外の危険区域やスラム街などを訪ねるなどの偉業、いや異業をやってのけるのだろうが。
彼女が無事に日本へ帰国したことには安堵するが、紫の雰囲気からして、まだ安心できないことがあるのだろう。
そして、秋陽は自分自身にその心当たりがない訳ではなかった。
秋陽は胸をざわつかせながら、紫のペースに巻き込まれないよう先陣を切ることにした。
「紫、帰ってきてくれたことには感謝している。でも、悪いが今は楓を待ってるんだ。話があるなら後にしてくれないか」
「その楓ちゃんのことで話があるのよ」
有無を言わせないような声と共に、紫が秋陽の顔面にずいと突き付けてきたのはスマホだった。その液晶画面には文章が映し出されており。それは秋陽にとっては言い逃れできないほどに見覚えのある文面だった。
「これもだけど、さっきの瑠依との話にしてもそう」
紫は画面を見せたまま話を続けた。その強い瞳孔に魅入られ、秋陽は話のペースを完全に彼女に持っていかれたことを確信した。
身体の奥が、背中の筋が締まるような感覚がする。思わずコンクリートの壁に手をつく。ひんやりとした感触が指に伝わる。
「瑠依に覚悟を促すのは勝手だけど、二人がどうなるかも二人の勝手でしょ。なんで今更秋陽が口を出すの」
「……今だからだ。中途半端な気持ちで楓の傍にいても、どちらかが傷つくだけだ。楓が危ない今だから、瑠依には覚悟を持ってほしかった」
「だからって、瑠依の感情を押し殺させるような選択をさせなくてもいいんじゃないの。あの子、真面目だから完全に蓋をするわよ。もしその時が来たら」
どこまで聞いていたのか、いやほとんど聞いていたのだろう。それまで気づかなかった自分も自分だが、彼女が何故途中で声を掛けなかったのか疑問に思う。
言い返す言葉を探していると、紫が立て続けに言い放った。
「そんなに覚悟を持ってほしいなら、いっそのこと二人を結婚させれば?そっちのほうが確実に瑠依は責任を持つし、楓ちゃんから離れることもない」
本気か冗談かどうかも分からないような内容を急に告げられ、秋陽は目を見開いた。しかし、目の前の紫はふざけているようには見えなかった。紫は、突拍子のないことは言うが、軽い言葉は使わない。深刻な状況の今であれば尚更だ。
『結婚』という言葉に気圧されたが、一方で秋陽は過去のどろどろとしたものを探り出し、その言葉を否定する。
「二人にその気があるかも分からないうちにそんなこと言うのか」
「感情のない結婚なんて今どき珍しくもない。それに、下手なカップルよりも、二人はお互いを大事に思ってると思うけど」
その言葉に否定はできない。だからこそ危険なのだ、と秋陽の頭の中で警鐘が鳴り響いた。それに……。
「『結婚』が責任を持つための手段だとは思えない。あいつだって、結婚していながらお袋を捨てた」
つい語気が荒くなる。ふつふつと煮えたぎる、どろどろとしたものが溢れ出てきそうな感じがする。凝り固まった、マグマのようなそれは、自分の手には負えないほど深く、自分の中に浸食していて。
ふと紫に視線を戻すと、彼女は下唇をかみ、眉間にしわを寄せていた。何かを耐え忍ぶような。こらえているような、そんな表情。
今まで紫のそんな顔を見たことがなくて、一瞬気がそがれる。そして、気づけば紫に話の先を取られていた。
「そう思ってるなら、いっそのこと引っ越せばいい。瑠依も私もいない場所で、最初からやり直せばいい。秋陽の目の届くところで、見守ってあげればいいじゃない。そうすれば、秋陽は家族にだけ集中できる」
そう言いながら、紫は再びスマホの画面を秋陽に突き付けた。
『楓が家に1人になる。瑠依に任せたが、二人だけでは何かと物騒だと思う。紫、お前が一旦帰国してくるなら、楓のことを頼まれてくれないか』
自分が三月末に彼女に送ったメールだ。忘れもしない。矢継ぎ早に送った文章だが、藁にもすがる思いで打ったヘルプだった。
「大学院が忙しいならしょうがない。医学部なら尚更でしょうね。お母さんを守りたいからって焦るのも分かる。でも、本当に家を完全にあけなきゃならないの? 楓ちゃんが不安定な時期に、あんたが危ないと思っている楓ちゃんを一人あの家に残して、他人の私たちに任せるの?」
「他人」と言った割に全く他人顔をしていない紫の心境は分からない。
ただ、先ほどから告げられる紫の言葉は、自分の積み重ねてきたものを、ぐらぐらと崩していくような気がして。背中を狙われているような感覚が襲ってくる。
責められている、と感じて腹を立てるのは筋違いだ。紫の言っていることは理路整然としていて、きっと考え直したほうが良いのだろう、と理性は言う。そう認めざる負えない何かも、きっと俺の中にあるのだ。
それでも、これ以上は何も言われたくなかった。踏み込んでほしくはなかった。
お前に何が分かるのか。母のこと。楓のこと。あいつのこと。
ぎりと歯を食いしばった。身体から何かが這い出して来るような、皮膚を突き破って、自分の中の何かが飛び出してくるような感覚。
自分の中に生じる感情が酷く刺々しいものになっていく。
「他人のお前に言う必要はないだろ」
腹の底から声が出た。自分でも驚くほど低い声だった。
言うつもりはなかった。吐き出すつもりのなかった刺々しさが、自分の体の外から飛び出してきた。
その自分から溢れたものの禍々しさに、恐ろしさに、体中の細胞が委縮する。
思わず左手で額を覆う。
そして、身体を圧迫してくる熱を吐き出そうと、息をしたときだった。
紫が秋陽の右手を掴み、両の掌で包み込んだのは。
そっけなく吐き捨てた自分に、悪意を持って放った言葉に。
彼女がとった行動は、秋陽の中に空洞を作った。
「お前、何を……」
「やっと出した」
そう言って、にやりと食えない笑みを浮かべた彼女の表情は、栗色の髪を添えて、妙に鮮やかに写った。
そして、右手に触れた人の肌の感触に、暖かさに、戸惑う。
「秋陽、あんたが何を言おうと、私は追及し続けるから」
脅迫のような言葉に、彼女に踏み込まれるような異質な感覚が戻ってきたが、彼女の掌の感触がそれを押し戻す。
ふと気づいた。人の肌に触れたのは、いつぶりだろうと。
紫は、呆然として自分を見つめる秋陽を漆黒の瞳で見つめ返しながら、彼の心の中枢にメスを入れる。
「ねえ、秋陽。あんたが一番恐れているのは、なに?」
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