第15話 傷跡と回顧


 学校から帰宅してすぐ、楓は兄の存在を認めると、フローリングの隅から立ち上がり、消え入りそうな声を出しながら、恐る恐ると近づいてきた。



『……秋陽にい……おかあさんに、どっか行けって、言われて……わたし、また、間違っちゃったみたいで……』



 まるで自分自身までも恐れているかのような怯えを滲にじませた表情と、震える小さな肩。今にも、つぶらな瞳から涙がこぼれ落ちそうなほどに顔を歪ませた楓は、色の落ちた水色のTシャツの端を握りしめながら、喉から絞り出すようにその言葉を発した。




 その言葉と様子に、何か良くないことが起こったのだと察しながら、怯えた妹を両手を広げて迎えた。おずおずと近寄ってきた楓に、自分とは頭二個分ほど下の位置にある肩に手を置き、そっと撫でる。




 妹は、この一年間で随分肉がそげた。幼児としては骨が出すぎた二の腕と脚。その至る所に、黒々とした痣が皮膚に沈み込むように点在している。服に覆われて見えない場所のほうが、その痣の数は多いだろう。


 自分にも、その跡はある。まるで、奴隷に付けられる主の印のように。身体だけではなく、心にも。骨の髄まで、底知れぬ恐れと、暴力と、怒りが刻み込まれている。




 思えば、恐れという怪物を身に纏ったあの男が、この家を支配し、虐げ、荒らし続ける一年間だった。その圧政から解放されたのは、つい三日前のことだ。その暴君は、ある日、家中にある金目の物をかっさらって出ていった。


 残されたこの家には、手足を捥もがれたように営みを止めた母と、深く傷を負った幼い妹が、日常という‘平和‘をその暴君に奪われたまま、閉じこもっている。




 外の世界に出られるのは唯一、自分だけだ。そして、二人を守れるのも、自分だけ。いや、守らなければならない。惨むごい環境から脱するためにも。平穏な、三人で笑いあっていたあの日を取り戻すためにも。



 楓の角ばった小さな肩をさすりながら、黒のランドセルをフローリングの床に置いた。それから膝を折り、目線を合わせて妹の怯えた表情を見、なだめるように優しく声を掛ける。



『楓はどうしようとしたの?』



 その問いかけに、楓ははくはくと息を小刻みに吸いながら、一生懸命喋ろうとした。



『お母さんが、おなかペコペコかもしれない、って、思って……っ、き、きこうとして、とびら、あけてっ……っ』



 今にも過呼吸を起こしそうなほど痙攣した喉に、背中を何度も、ゆっくりと撫でる。



『大丈夫だよ、楓。間違えてないよ。楓は母さんに優しくしようとしたんだね』



 ゆっくり言い聞かせるように確認すると、楓はぶんぶんと頭を振った。涙がこぼれ、飛び散った。



『っでも、でもっ……っおかあさんっ、どっか行けってっ、あっちに行けってっ……で、出てけ、ってっ』



 しゃくりあげる喉に限界が来た気がして、楓にこれ以上喋らせるのは危ないと思い、その華奢な体を抱きしめて全身をさする。



『分かった。楓、もういいよ無理やり喋らせてごめんな。楓は悪くないから。大丈夫だから』



 そう言うと、楓は枷かせが外れたように泣きじゃくり、小さな指で胸にしがみついてきた。その身体を全身で受け止め、ぽんぽんと頭と背中を軽く叩く。




 痛々しい妹の姿。


 彼女は、この一年間で些細なことに怯えるようになった。


 そして、何かあれば、自分のせいだ、自分がいい子じゃないから、と肩を、足を震わせながら、重いはずのそれを抱えようとするようになった。


 ごめんなさい、と訳も分からず謝ることが多くなった。




 つい一年前までは、天真爛漫てんしんらんまんなかわいらしい女の子だったのだ。周りの、公園できゃっきゃと楽し気に遊んでいる無邪気な子たちと同じように。



 もう、元には戻してやれない。抉えぐられた傷を癒してやる術すべを、自分は知らない。分からない。


 たかが小学五年生の、なんの力も持たない今の自分では、何もしてやれない。




 そんな自分の不甲斐なさを痛感すると同時にこみあげてくるのは、あの男の存在に対する憎悪。幼い自分では、どう抱えてよいか戸惑うほどの、濁流のような憎悪。


 大切なものを傷つけ、奪っていった、強盗のような、殺人犯のような、強姦魔のような、おぞましい存在。


 父親とは名ばかりの、家を滅茶苦茶にして去っていった、醜い犯罪者。




 その押し寄せてくるような恐ろしい感情に飲み込まれる寸前で、はっと思考を切り替える。




『楓。母さんはまだ、部屋の中にいるの?』



 身体に押し付けられた額が、僅かに縦に動くのが分かった。



『お兄ちゃん、ちょっと母さんの様子見てくるな。楓、いい子で待てるか?』



 気持ちが揺れて不安定な妹を一人で待たせるのも気が引けたが、一緒に行くのは、楓に更なる棘を与えてしまいそうで怖い。


 だからと言って、母の様子を見に行かないわけにもいかない。楓が言ったことが本当なら、隣の部屋にいる母を気にかけずにはいられなかった。



 このところ、母は生きているのかも分からないほどに衰弱しており、この三日間寝込み続けていた。一年前、三人で川の字になって寝ていた和室にこもったまま、出てこようとも、言葉を紡ごうともせず、布団越しに投げかける自分たちの言葉にも、まるで聞こえていないかのように一切反応を示さなかった。食事もせず、ただただ布団をかぶり、微動だにせず、息をしているのかも、意識があるのかも分からない。



 そんな母が、楓曰く言葉を発した。母の元々の性格からすると、その言葉は異様であり、耳を疑うような内容だったが、母の様子に変化があったというなら、確認せずにはいられない。


 それはもしかしたら、回復の兆しかもしれないし、母が現状から脱出しようとしている表れかもしれない。




 状態の異質さと、、という感覚はあったが、そのことよりも早く希望を見出したいという思いが、それを胸の奥へ追いやった。


 幸い、楓は震えながらも頷き、「待ってる」と言ってくれた。


 「いい子だな」と念押しのように頭を撫で、和室からは死角になり、襖を開けてもなかの様子が見えない場所に彼女を誘導し、座らせる。



 そして、一人和室に近づき、



 『母さん?』



 と襖越しに母を呼んでみる。




 何の返事もない。




 耳を襖の表面に当てると、何かを裂くような、びりびり、びりびり、という音が微かに聞こえてきた。



『……母さん、入るよ』



 襖をそっと開け、その隙間から中を覗くと、もわっとしたような臭いが襲ってきた。



 ……アンモニア臭?



 その奇妙さに、脳が知らせる。お・か・し・い・と。


 そして、隙間から見えたのは白い羽毛布団だけで、そこに母の姿はない。



 入ってはいけない。すべてを見てはいけない。


 そう警鐘が鳴り響いている。身体の中心から、ぞわぞわと這い上がってくる違和感。背中に感じる自分の汗がやけに冷たい。



 それでも、気づけば、自分の手は襖を開けていた。



 濃さの増したアンモニア臭が、むせ返りそうなほど鼻の奥に入ってきた。一瞬喉がぐっとせりかえりそうになる。臭いは和室中に充満していた。




 一式引かれた布団の中には誰もいなかった。布団が半分めくれていて。臭いはそこから漂っていた。




 つーっと額に汗が伝う。目に入る。普段は感じるはずの染みるような痛さを、この時、脳は認識していただろうか。



 びりびり、と音がした。


 もう正常な判断ができるほど、頭は働いていない。この状態の異質さに、理性が考えることを遮断していた。



 ただ、身体だけが、その音を拾い、そちらへと向きを変える。



 そこには、母がいた。



 母はベランダと部屋を隔てた窓ガラスのほうを向いていて。背中を覆う真っ白なワイシャツと、濃緑のスカートは皺がいくつも通っていて。その臀部のところだけが色濃く、ペンキを塗ったようにべったりと肌に張り付いていた。


 2歳の頃の楓のズボンが同じようなことになっていた記憶が脳裏を横切った。それと、はっきりとしたアンモニア臭。



 そして、母の白い指には、尖ったものが握りこまれていた。外の光に照らされてきらりと光ったそれは、ハサミ。


 母はガラス窓に這いつくばるようにして、ハサミの先を山吹色の、母が花柄がかわいらしいと言って購入したカーテンに突き立て、———びりびりと引き裂いた。


 その時は既に、カーテンはもうカーテンとは呼べないほど穴だらけで、引き裂かれた跡が所在なさげにひらひらと舞っていて。


 吹き込んできた風は、ガラス窓の中心から、無残に割られた空間から入り込んできていて。畳にガラスが散らばっていて。



 ぶつぶつと呟く声が漏れて聞こえ、



 受け止め切れない現実の中、妙に冷めた自分が、自分ではないような自分が、



『母さん?』



 とその背中に声を掛ける。



 流れてきた風が、湿った濃い匂いの中に入っていった。



 母が、白髪の目立つ黒髪を揺らしながら振り返った。



 その母が見せたのは、清々しいほどの笑顔。


 一年前の、互いに交し合っていた、平穏の中に咲く、その場を明るくさせる、自分たちが何よりも焦がれた笑顔だった。



 しかし、あまりにもこの空間には似つかわしくなくて。ただただ恐ろしくて。日常とはかけ離れた、今は異質さを際立たせる笑顔。



『秋陽。もう大丈夫だから。お母さんが、何もかも追い払ってあげたからね』



 わざとらしいほど明るい、母の鈴のような優しい声が脳を貫いた。



 この光景は、現実だろうか。それとも夢だろうか。



 平穏を望んでいたはずなのに。取り戻したいと思っていたはずなのに。




 平穏の中にあったはずの母の笑顔は、今までで一番、遠く、手の届かない場所に行ってしまった。


 母の鈴のような優しく朗らかな声は、もう取り返しのつかない場所に行ってしまった。




 壊れた思考が、現実が、




 無慈悲にそう叫んでいた。





 ***



 居間の明かりをつける。LEDの光は帰ってきたばかりの目には眩しく、秋陽は目を瞬いた。



「楓、薬置いとくぞ」



 秋陽は着替えの最中であろう楓の部屋に向かって声をかけた。


 ガラスコップに水を入れようと、蛇口を捻り、半分までいったところで水を止める。


 秋陽はそのコップを片手に持ち、水道台の角に腰を預けながら、居間を一望した。


 昔から変わらないフローリングの床の上に、暖房性のあるグレイのカーペットが敷かれ、その上に山吹色のソファ、その目の前に、プラスチック製の白の角テーブルが設置してある。


 それ以外は何の調度品も、家具もない部屋。


 自分がいなくなる前と、何も変わらない配置に、秋陽はぼんやりとその部屋を眺めた。


 あれからもう11年も経つのに、この部屋は何も変わらない。


 暮らしている自分たちの心は、目まぐるしく、自分でも追いつけないほどに変わっていくのに。


 自分は今、どこを走っているのだろう。


 どこへ向かおうとしているのだろう…。


 ガチャリと扉が開く音がして、楓がガラス扉を開けて居間へと入ってきた。上下水色のシンプルなパジャマを着用している。


 そんなラフな姿になった楓は、用意された薬と水を見て、嬉しいような申し訳ないような、そんな表情をさせて、



「ありがとう」



と秋陽を見ながら言った。

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