第27話 カーネーションと背中

カーネーションの花言葉は花びらの色によって違う。




 赤は「母の愛」。




 ピンクは「感謝の心」。




 オレンジ色は「熱烈な心」。




 黄色は「嫉妬」。




 青は「永遠の幸福」。








 私が今、あなたにカーネーションを送るなら、




 何色にするだろう。






 ***






 外は肌寒い。春になっても、太陽が沈み落ち夜が訪れる街の空気はひんやりとしていて、外気に晒された頬を撫でてくる。その空気に僅かに味噌のような匂いが乗っていて。どこかの家庭が夕飯の支度をしているのだろう。




 街灯がほわあと灯りはじめ、二人の行く道と灰色にくすみがかったガードレールを照らし出した。


 住宅街をうねる道路を行く人影は少なく、楓と瑠依の足音が妙に響く。


 微かにテレビの音が聞こえてきた。誰かが夕方のニュースでも見ているのだろうか。


 ガチャガチャと食器同士がぶつかり合う音もしてくる。やはりどこかの主婦が夕食の準備をしているのだろうか。




 楓はそんな音から意識を外し、家路を歩く瑠依の背中に目をやった。斜め後ろを歩いているので、横顔だけがちらりと覗けるだけだったが、楓は瑠依が何か考えに耽っているのだと察した。


 その証拠に、学校を出てから今まで、彼はほとんど口を開いていない。もともと口数の少ないほうではあったが、ここまで喋らないのは珍しく、その唇は固く結ばれていた。


 伏せられた睫毛は女性のように長く整っているが、長い黒髪から覗く瞳には憂いのような色が宿っていた。






 話しかけようか迷う。彼が今何を思っているのか、私には分からない。




 どうしたの?




 この一言だけでも、声をかけるのを躊躇ってしまう。言ってもいいのだろうか。聞いてもいいのだろうか。






 『家族』という彼の言葉に、安心できたはずなのに。安らぎを覚えたはずなのに。隣を歩いているのに。




 また元に戻ってしまったような気がして。離れてしまうような気がして。




 楓は瑠依に悟られないように歩みを遅めた。


 瑠依の背中が楓の目に映る。


 真っ白なワイシャツを着た背中。


 細みでも広くて、しっかりと骨の角ばった背中。


 昨日も瑠依の背中を見ながら帰った。朧気ながら覚えている。あのときも寂しかった。離れたくなかった。瑠依の袖を掴んでいたかった。




 脳裏に、いつの日かの、灰色のTシャツを着た、痩せ細った父の背中がよみがえった。






 暖かい、だろうか。






 楓はふと、瑠依のその背中に手を伸ばしたい衝動にかられた。


 掴みたい。どこでもいい。その広い背中ならばどこでも。






 指が熱を求める。指先が震える。






 思わず楓は手を伸ばした。






 その時、びゅうと突風が襲ってきた。楓は伸ばしていた手を留め、バシバシと当たる髪に目を瞑った。






「大丈夫か?」






 楓がはっとして目を開けると、黒髪をなびかせながら、楓のほうを振り返る瑠依の姿があった。




 楓は慌ててその手を引っ込め、まだ着ていたままの瑠依の学ランの胸元を握った。






 「どうした?」






 瑠依が尋ねてくる。至っていつもの瑠依だった。




 楓はううんと首を振った。






 どうしたの、と聞きたいのは私なのに。


 何も言ってはくれないのだろうか。






 胸の内に寂しさが広がると同時に、また風が吹いた。






 瑠依は楓が横に並ぶのを待った。楓は瑠依の隣へと駆け寄った。瑠依が歩き出して、楓も後に続く。




 楓は歩を進めながら、自分の指先に物足りないような感覚が残るのを感じていた。












 瑠依の家の玄関前に到着し、瑠依がドアノブに手を掛ける。


 しかし、引っ張ってもロックがガッと音を立てるだけだった。




 紫さんはいないのだろうか。




 瑠依が二、三回そうした後、諦めたように楓のほうを見た。






「先着替えてて」






「分かった」






 楓は瑠依の言われるまま、自分の家の扉の前に行く。


 楓が鍵をがちゃりと開け、中に入ろうとする間際、瑠依のほうをちらりと見ると、瑠依も楓を見ていた。目が合う。


 楓はむず痒くなって、どんな顔をしてよいのか分からないまま玄関のドアを閉めた。








 中に入ると、誰もいない、しんとした空気が漂っていた。




 秋陽はいない。昨日のように、一緒にこの家に帰ってくる人はいない。何日間もあったことなのに。


 今更。




 埃すらも動いていないような、音もない廊下。楓は静かにローファーを脱ぎ、石畳に揃えた。




 自分の部屋に行き、学生鞄を机の脇のフックにかける。そして瑠依から借りたままだった学ランを脱ぐ。それを丁寧に畳んでベッドの上に置く。晒された肌に冷たさを感じた。


 寒い。


 そう思いながらセーラー服のボタンを外していく。


 そしてスカートを脱ぐ際、ポケットに違和感がして中に入っているものを取り出した。




 文字が読めないほど滲み、インクの染みが丸を作っている紙。




 それは、模試の結果用紙だった。




 濡れた際、楓はもろに水をかぶった。しかし、蛇口の水を止めるのに必死で、紙がどうなっているかなんて気にしていられなかった。楓は咄嗟にベンチの上に置いていたのだ。そして、保健室へと移動する際、水を吸収し、なよなよになったその存在に気付いて、唖然としてポケットに入れたのだ。




 その時まで、楓はその紙の存在を忘れていた。模試の結果も。間宮と話したことも。頑張らなければならないと戒めた自分の気持ちも。




 奏と接している間、いろんなことが頭の中から消えていた。まるで、心の中のしこりや闇を何もかも拭い去ってくれたような、そんな感覚。




 気づけば、楽しい時間が過ぎていて。




 鈴のように良く通る声。艶のある黒髪をなびかせながら、ころころと変わっていく表情。


 そして、勘繰りや疑心暗鬼さえも吹き飛ばしてしまうほどの爽やかな笑顔。




 奏と過ごす時間が楽しかった。清々しかった。




 自分に課せられたものや、自分が背負っているものから、解放されたような気分だった。






 あんな気持ちになったのはいつぶりだろう。






 楓は丸まった紙の塊を見つめながらその余韻を噛み締めた。






 しかし、その時の楽しさを思い出すと同時に、再び戻ってくる感情があった。言葉があった。




 そんなことが自分に許されていると思うのか。


 お前に、そんな楽しみを享受する資格があるのか。赦されているのか。




 昨日知らしめされた現実が、襲ってくる。自分の抱えなければならない現実が襲ってくる。




 母が倒れているのに。お前が母を苦しめたのに。


 お前は許されてはいけない。楽しむなんでもっての外だ。罪悪感を持ち続けろ。






 自分の中で木霊する声が、自分の存在を飲み込んでしまう。そんな恐れに体中が震えだす。


 部屋の中の静寂が怖かった。何かが自分を監視しているような感覚がして。


 自分は一人だ。いなくなっても誰も気づかない。この恐れに、一人で耐えるしかないの。




 今までだってそうしてきたのに。どうして、いつもより心臓が痛いんだろう。






『家族』






 瑠依の言った言葉が蘇ってきた。






 ……………………………瑠依。






 楓は衝動のまま、脱いだセーラー服を引っ掴んで羽織ると、自分の家から逃げ出した。






 瑠依の家の中に入ると、トントンという小刻みに響く音が耳に入ってきた。


 何かが引っかかっているような感覚が拭えない。


 楓は重い足を前に出しながら、その音のする方へ近づいていく。灯りが漏れるガラス張りのドアを開けた。




 すぐ横に視線をやると、瑠依がワイシャツの袖をまくってニンジンを切っている姿が目に飛び込んできた。




 瑠依が入ってきた楓に気づいて首だけを巡らせる。しかし、着替えに行ったはずの彼女がセーラー服のままであることに気付いたのか、






「楓、お前着替えは……」






 と声を上げた。その言葉は途中で途切れた。




 楓が瑠依の背中にしがみついたからだった。






「……かえで……?」






 瑠依が驚いたように包丁を持っていた手を止める。




 楓は瑠依の背中に爪を立てる様に、ぎゅっとワイシャツを掴んだ。さりさりとしたワイシャツの感触が爪にかかる。じりと爪に圧がかかる。




 その必死な様子を感じ取ったのか、瑠依は包丁を置いた。






 手から、頬から、触れた部分から伝わる体温が、恋しかった。さみしかった。




 自分は一人ではないことを確かめたかった。






「瑠依は、家族って言ったよね……」






 楓は震える声でそう発した。背中を掴む指に力がこもる。






「……言ったよ」






 瑠依が言う。






 本当に、本当に?


 嘘じゃない?






 傍にいてほしい。独りにしないで。もう、一人は嫌だよ。




 温もりが欲しい。誰かがいてほしい。独りにしないで。






「……本当に、私の『家族』でいてくれる?」






 楓の声が上ずった。今にも泣きだしそうだった。それでも、涙は出ない。涙腺は蓋をしてしまった。私を置いて行ってしまった。




 確かなのは、この掌にある温もりと、瑠依の存在だけだ。






「……ああ。いるよ。ずっと」






 瑠依がそう答えた。そして、ゆっくりと自分の背中に手を回すと、楓のしがみついた指を掴んで自分の腰へと引き寄せた。


そして、腹部まで回り切らなかった楓の手の甲を掌で包み込み、ぎゅっと握った。




 その感覚に、楓は本当に泣きたくなった。思わず、おさまりきらない瑠依の体にぎゅうと抱き着き、顔を瑠依の背骨に押し当てた。






 神様、ごめんなさい。


 お母さん、ごめんなさい。




 ごめんね、瑠依。






 自分勝手な私を赦してください。






 赦されてはいけないのに、背負うべきなのに。忘れてはいけないのに。苦しむべきなのに。




 それでも。




 1人が嫌だと思ってしまう私を。




 瑠依と一緒にいたいと思ってしまう私を。




『家族』だからと甘えて、自分を赦してしまいそうになる私を。




 赦してほしいと願ってしまう私を。






 ごめんなさい。




 今だけ。今だけでいいと思っていた。




 でも、無理だよ。




 独りは嫌だ。




 お願い。


 独りにしないで。

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