第28話 感情とカーネーション

感情とは、自分の中から湧き上がってくるものなのに、自分の意志とは無関係に溢れ出すことがある。




 誰かの何気ない一言で、心が張り裂けそうになるほど傷ついたり、




 誰かの軽い言動や、悪意のある行為に、身を焼くような怒りでかっとなったり、




 大切な人と他の誰かとの関係に、何も手につかなくなるほど嫉妬したり、




 いなくなりたいと、ふと無秩序に湧いて出てきたり。






 感情は湧くものだ。


 自分の意志とは関係なしに。




 人が酸素を無意識に取り込むように、


 感情も無意識に湧くことがある。






 そうであるとして、




 もしその感情を止めようと試みるならば、それは無駄なあがきになるのだろうか。








 ***






 スパイスの香ばしい匂いが部屋中を満たしていく。静かな部屋の中、ぐつぐつと鍋の中で煮込まれているカレーの音だけが響く。


 カーテンの向こう側、窓から見えるのは、既に日が落ち、闇一色になったベランダで。部屋を照らすLEDの白い光が艶のあるフローリングに光沢を作っている。






 瑠依がIHの電源ボタンをオフにし、ピーと電子音が鳴る。炊飯器をかぱっと開け、艶のある白米を二皿に盛りつけ、その上にお玉で湯気の立つカレーのルーを注いでいく。




 瑠依はその皿を両手で持ち、食卓テーブルへと足を運ぶ。


 テーブルにことりと皿を置き、瑠依は、目の前の椅子に座りながらキッチンを仕切る壁にもたれかかって眠っている楓に声を掛けた。






「楓、ごはんできたぞ」












 いつの間にか眠ってしまっていた。


 そう楓が認識できたのは、瑠依の声が聞こえて、ふっと意識が戻ったときだった。瑠依の顔が目の前に見える。


 意識を飛ばすほど寝入ってしまっていたのだ。


楓は眠気を吹き飛ばすように、んー、と声を漏らしながら一度背伸びをして体制を整え、自分の正面に座った瑠依に体を向けた。






「……ごめん。寝てた」






 申し訳なさそうに謝る楓に、瑠依は気に掛けるような優しい顔を浮かべた。






「疲れてるんだろ。最近よく寝てるな。夜、眠れてないのか」






 楓はううん、と首を振る。最近まではちょっと不眠状態だったけれど、






「……昨日は大丈夫。秋陽兄が一緒に寝てくれた」






 昨夜のことを思い出しながら楓がはにかんで答えると、瑠依は複雑そうな顔をしながら苦笑した。




 沈黙が訪れる。


 楓は、先程自分が取り乱して瑠依に抱き着いてしまったことで、気持ちが上ずっていた。






 瑠依は自分が落ち着くまでずっと抱き締められたままでいてくれた。これでは料理ができないと、楓が腕を放したのはしばらくたってのことで。待ってろ、と言われ、食卓テーブルで手持ち無沙汰にしていたらいつの間にか眠ってしまっていたのだ。






 楓は、瑠依が先程くれた言葉を思い出す。そして、嬉しい気持ちが湧き上がってきた。




 ずっと『家族』でいてくれると。私は一人ではないのだと。


 それだけで、全身を満たすような安心感が広がっていた。




 そして、今のこの空間も。


 同じ食卓を囲めるというのは、楓が昔、切実に焦がれていた『家族』像だった。


 その相手が瑠依だということも、嬉しいと同時にこそばゆい感じがした。




 でもそれだけじゃなくて、瑠依に『家族』として向かえることが、気恥ずかしく、新鮮でどうしていいか分からない気持ちもあった。






 「食べるか」






 沈黙を破った瑠依に、楓は余韻が残りつつ、照れ臭ささを感じながら、うん、と頷いた。


 目の前の湯気の漂うカレーライスを目にして、一礼する。






「ありがとうございます。いただきます」


「いただきます」






 二人で手を合わせてスプーンを構え、カレーを掬い、口にする。


 楓は口の中に広がった絶妙な旨味と辛味に、






「おいしい!」






 と声を上げた。瑠依はその姿に微笑みを返しながら、自分も口にしていく。






「やっぱり、瑠依のカレーはおいしいね」






「そうか?」






「昔食べたのと同じ味がする」






 瑠依は小学生のころから自分で炊事をしていた。


 丁度瑠依が炊事を始めた頃、秋陽の帰りが遅くて、瑞谷家にお世話になったことがあった。そのとき、楓に瑠依が振舞ってくれたのがカレーライスだったのだ。


 瑠依は何でもできる、と感嘆したのを楓は覚えている。




 その後、楓は自分もすべきだとは思って挑戦しようとしたのだが、秋陽は決して楓に台所を使わせようとはしなかった。






 「味付けは変えてないからな」






 楓がもうひと口を頬張りながら言う。






 「変えないでくれると私は嬉しい。ずっと食べていたいし」






 すると、一瞬瑠依のスプーンを持つ手が止まった。


 楓はそれに気づかないまま、ぱくぱくと舌鼓を打ちながら旨味を堪能していく。






「……今日、模試の結果帰ってきただろ」






 瑠依は動作を再開するためのきっかけのように、楓に投げかけた。


 今度は楓が固まる番だった。






「……うん」






 ぎこちなく頷くと、瑠依は何かを察したのかそれ以上は追及してこなかった。


 しかし、続いていた穏やかな雰囲気を壊したくなくて、楓は瑠依に目を向けて言葉を続けた。






「瑠依はどこに進むか、決めてるの?」






 その問いかけに瑠依は、動かしていた手をはっきりと止め、楓の目を見た。






「決めてるよ」






「何学部?」






「心理学部」






「文系?瑠依って数学も得意でしょ?どうして心理学?」






 瑠依を見つめながら楓がそう尋ねると、瑠依は楓を見据える様に見つめた。そのまなざしは、とてつもなく強かった。楓が一瞬肩を震わせるほどに。






「心が知りたいから」






 その言葉に、楓はひどく自分の心がざわつくのを感じた。


 瑠依は何を思っているのか、その根幹に触れているような気がして。




 問いかけるのに、胸がどくと鳴る。






「……誰の心?」






「自分の心も知りたいけど、」






 ちりちりと何かが鳴るような感覚が、楓にはした。


 瑠依がそんなことを考えているなんて、知らなかった。


 今までこんなにも近くにいたはずなのに、知らないことがまだある。






「お前の心が一番知りたい」






 そして、その言葉に、楓はどくりと胸が鳴るのを感じた。


 しかしそれは一瞬で。




 嬉しいはずなのに。そう言われて、喜びたいのに。




 もし、自分の心が瑠依に分かってしまったら。


 こんな自分の心を悟られてしまったら。


 醜く、汚く、暗く、自分勝手で、どうしようもない自分の心を見られてしまったら。


 自分でも把握しきれずに、暴走しそうな自分の心を見られてしまったら。






それでも瑠依は、私の傍にいてくれるだろうか。








 不安げな影を落とす楓の様子を察したのか、瑠依は手を伸ばして頭を撫でようとした。しかし空中でその手は止まり、瑠依のほうへと引き戻される。


 そして、困ったように顔をくしゃりと歪めて、その表情を微笑に変えた。




「俺は、お前の気持ちが分かれば、お前のこと少しは守ってやれる、って思っただけだよ」






 と言った。そんな瑠依に、楓は衝撃を受けていた。そして、






「違うよ……瑠依は……」






 瑠依は私のこと守ってくれてるよ。


 瑠依がいるだけで、こんなにも安心するのに。


 瑠依がいなくなると思っただけで、こんなにも不安になるのに。




 充分なのに。あなたがいてくれるだけで私は。






 それを伝えようと唇を開いたが、何故か口には出来なかった。






「楓?」






 瑠依が怪訝そうに首を傾げ、こちらの様子を伺おうとする。






 どうして言えないんだろう?


 大層なことだから?気恥ずかしい?




 理由は分からないけれど、口にしようとしても空気が漏れていくだけで。


 喉につっかえたように、声が出ない。






「……ううん」






 瑠依の困ったような顔を見て、諦めた。何でもないと安心させたくて、笑顔を作る。




 しかし楓は後に、この時この言葉を瑠依に伝えなかったことを激しく後悔することになるが、


 今の楓には知る由もなかった。




 笑顔を見せた楓に、瑠依は心配そうな顔をしたまま、話を変えた。






「今日のあの女子と、友達になったのか?」






「奏のこと?うん。友達になった……のかな?」






 楓は少し自信がなくなって、首を傾げた。


 奏と私は、もう友達になれているのだろうか?


 一日だけでは友達とは言わないのではないだろうか?


 人との交流が少ない楓には、どこから友達と名乗ってもよいのか分からなかった。




 思案して言葉を切った楓に、






「俺にはそう見えたよ。二人とも、楽しそうだったし」






 と、楓を見つめながら瑠依が諭す。






「奏と私が?」






「楽しくなかったのか?」






 そう聞かれて、楓は即答する。






「ううん。楽しかった」






 すごく。本当に楽しかった。模試の存在も忘れるくらい。






「だったら、そうなんじゃないか」






「……そっか。そう、だね」






 瑠依に言われ、楓は噛みしめるように、確かめるように頷きながら、嬉しくなった。




 独りでいなければならないと思っていたけれど。


 母のために、自分の罪のために、苦しまなければならないと思っていたけれど。




 でも、手を伸ばせば、こんなにも優しくて、心地よくて、暖かい。






『家族』に『友達』。






 今日は色んな事が変わっていく。




 楓がしみじみとしながら皿の中を見ると、カレーライスはもうあと一口ほどになっていた。






 変わったことといえば、






「今日、美園と変わった男の子が喧嘩したの」






 瑠依がそれを聞くと、スプーンを口に運びながら淡々と言う。






「あいつならやりかねないな。原因は?」






 容赦のない言葉に楓は苦笑した。


 確かに、いつもの美園を知っていれば驚かないのは当然だろう。


 そんな友人の性格を思い出しながら、原因について考える。






「原因……は、その男の子が部活をサボってばっかりだから、そんなんだったら辞めたらいい、って美園が怒ってて、」






「あいつの嫌いそうなタイプだな」






 確かにそうだと楓は頷く。美園自身が率直であるがゆえに、彼女は半端な人には容赦がない。






「それで、私にも近づけさせない!みたいな感じに美園が気合い入れちゃって」






 あれは一体どういう意図があったんだろう。美園は、あんたには紹介しない!って言ってたけど。怒りがそっちにも行ってしまったのだろうか?


 心配しなくても、話しかけることも難しいし、ましてや、美園を置いて誰かと喋る自分の姿なんて想像すらできないのに。




 楓は自分が、彼に言われたことを完全に忘れていた。そもそも混乱で耳に入るどころではなかったのだから仕方ないのだが。






 しかし、瑠依は違った。楓のその言葉に手を止め、真正面から楓を問いただす。






「何でそこで楓が出てくるんだよ」






 と追及してきた。楓はえ、と戸惑いながら、カレーライスの最後の一口を咀嚼して考える。


 おかわりしようかな。






「……その子に最初に話しかけられたのが私だったから、かな?」






 それも不思議なことだけど。結局、どうして彼は私の名前を知っていたのだろう?




 その言葉に、瑠依の眉間にしわが寄った。


 どうしたのだろう。瑠依を取り巻く雰囲気が剣呑になっていく。






「なんで、そいつが楓に話しかけるんだよ」






「分かんないけど……おはようって言われて……。でも、なんか言われた気もする……」






 何だったのか思い出せない。


 自分の緊張と、その後の美園の暴動に意識がすべて持っていかれていたから。




 そもそも、どうして私に話しかけたのだろう?美園の知り合いだったから?




 うーん、と考えながら、殻になった皿を見て立ち上がる。思い出せないことに引っかかりを感じながら、それでも食欲に負けた。






「ごめん。ちょっとおかわりするね」






 楓がそう言って、椅子から立ち上がり、キッチンのほうへ行こうとすると、


 手首を掴まれた。






 「瑠依……?」






 その強い力に、楓は思わず驚いて皿を取り落としそうになった。


 瑠依は椅子から立ち上がって、楓を見下ろしていた。


 何か言いたげそうに、唇があ、の形になる。






 どうしたの……?






「お、今日はカレーかー」






 玄関から声がした。紫の快活な声がダイニングまで響く。紫が帰ってきたのだ。




 瑠依はぱっと楓の手首を離した。






「……どうしたの?」






 楓が、瑠依の違和感のある行動に不安を覚えて尋ねると、瑠依は何でもない、と言った。解放された楓の腕が所在なさげに上がったまま。




 その時、ガラス張りのドアが開いて、紫が入ってきた。楓はそちらのほうを振り返って紫を見た。






「紫さん、おかえりなさい。お邪魔してます」






「ただいま。楓ちゃん。瑠依、よくやったわ。今日私はカレーの気分だったのよ」






 紫はそういうとキッチンに直行し、皿をガチャガチャと取り出す音を響き渡らせた。






 それでも、未だに瑠依の行動に対して引っ掛かりを覚え、動けないでいる楓に、






「おかわり、するんだろ」






 そう言って瑠依が促す。






「……うん」






 楓は納得がいかなくて、瑠依が言おうとした言葉が気になった。それでも、そう言われて後を引きながらキッチンに向かった。












 残された瑠依は自分の掌を食い入るように見つめた。




 先にカレーを注いできた紫が、その姿を見て声を掛ける。






 「瑠依。なんかあった」






 その、何かを察したような紫の言葉に、瑠依は答えた。






「何も」


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