第29話 花言葉とスミレ



 今度は何を言われるのだろう。






 私は、部屋の中で机の上に広げた模試の結果用紙を見つめながら、思わずため息をついた。




 今回の模試の結果はあまり良くなかった。第一志望は看護学部の中でも一二を争う名門校で、偏差値は65を超える難関大。でも、そこに決めたのは私じゃない。




 いつも私のすることは母が決めてきた。三歳からピアノを習い、小学校に入ると同時に塾に入り、中学校では更にレベルの高い塾に入った。これら全部、母が自分で決めて、私はそれに従うだけ。まるで敷かれたレールの上を歩いているように。




 「あなたはそうしていれば大丈夫。あなたのためを思ってのことなのよ」これが母の口癖。


 自分がすることに絶対的自信をもって、私にそうすることを強いる。


 嫌なわけではない。習ったピアノも、塾も、実際は私のためになっていることだ。だから母には感謝しているし、私は恵まれているのだと思う。




 でも、ふと思ってしまう。母は本当に私の為だけを考えてそうしているのだろうか、と。


 母は私の成績が良くないと機嫌が悪くなる。ピアノの発表会で、私じゃない他の誰かが目立ったり、塾で良くない成績を取ったりすると、もう皺が目立ち始めた化粧顔の眉間に更に皺を作るのだ。それは、母の心境が思わしくないサインで。私はその顔を見るといつも肩が委縮する。


 そして、考え込むような間があった後、「今度は大丈夫よね。しっかりできるわよね」と言うのだ。




 それはわたしに向けた言葉?それとも、自分に言い聞かせているの?




 高校から、母が苦手になった。昔からその感情はあったのかもしれない。ただ、いつ母が眉間にしわを寄せてその言葉を口にするのかと思うと、頭の中がぐるぐると回って、真っ白になって、お腹がキリキリと痛みだす。


 私は、母の操り人形で、アクセサリーの一つのようなもので、母の評価を左右する対象で。


 ある時から、そう考え出して、勘ぐって、疑いだしたら止まらなくなった。




 母にとって私は何なのだろう、と。






 もうすぐ母が私を夕食に呼ぶだろう。そう考えて憂鬱になり、私はベッドにダイブして顔を羽毛布団にうずめた。






 目を伏せれば、ふと学校帰りに会った彼のことを思い出した。




 気を付けて帰ってね、って言われちゃったなあ。




 クールな表情。綺麗な瞼。その瞳は、何があっても揺れない。芯が通ったような強さがあるような気がして。




 彼のようになりたい。私も。何事にも揺らがない強い人になりたい。




 願うように瞼をぎゅっと閉じて、閉ざされた視界の闇の中で、彼の姿を思い描く。






 スマートフォンが、ラインを知らせるメロディーを奏で始めた。


 私はポケットからスマートフォンを探り出して、起き上がる。


 液晶画面を見ると、友達からの電話だった。


 彼と私の仲を応援するよ、と言って息巻いていた姿を思い出しながら、恥ずかしいような照れ臭いような気持ちが湧く。




 まだ時間は大丈夫だろうと思いながら、通話のボタンを押して耳に当てると、友達の声が聞こえてきた。






 「聡美―?一大事!」






 その切羽詰まったような声に、どうしたのだろうと意識をすべて持っていかれながら、私は返事をした。






 ***






「チューリップは『思いやり』。ゼラニウムは『信頼』や『尊敬』という花言葉があるんですよ」




 奏が花に水をやりながら歌うように言った。




 チューリップは可愛らしいオレンジ色や赤色を咲かせ、ゼラニウムはふわりとしたピンク色をさわさわと咲かせている。花びらに水滴がちょこんっと乗っていて、花の鮮やかな色を透き通らせながらぷるんと揺れた。花びらの脇からすっと頭を垂れている葉についた水滴が表面を伝って、落ちる。




 楓は、奏と共に水やりをするようになってから、こうして咲いている花々の花言葉を奏から教わっていた。




 言葉という枠で見ると、その花々が生き生きと咲いているように感じさせるのだから不思議だ、と楓はゼラニウムの根元に水をやりながら思った。。




 『思いやり』。『信頼』。『尊敬』。




 その言葉を付けた人は、この花たちを見ながら、そんな気持ちになったんだろうか。その言葉が浮かんできたんだろうか。


 麗しく、みずみずしく、美しく咲く花々。それらに言葉を与えた、名前も知らない誰かの気持ちが、楓には何となく分かる気がした。




 花々に囲まれている時間は、生きている実感を与えてくれる。花たちが元気をくれる。そして、奏のおしゃべりも。ときに訪れる沈黙も。


 この時間すべてが、楓の中で憩いになっていた。






 草花の匂いと、水の匂いを感じながら、奏の言葉に耳を傾けていると、






 「楓はスミレが似合いますね」






 唐突に、奏が楓のほうを向いて言った。






 「スミレですか?」






 楓が不思議に思って聞くと、奏はおいでおいでと手をひらひらさせて楓を呼んだ。


 楓が奏の傍に行くと、奏の足元に濃い紫色の小さな花たちがこちらを向いて咲いていた。五枚の紫色の花びらの中央に、私を見て、というように黄色い点がちょんとついていて、その周りは微かな白色がかかっている花。






「かわいい」






 楓が感想を言うと、奏は嬉しそうに笑って、一緒になってスミレの花を覗き込んだ。






「スミレの花言葉は何だかわかりますか?」






 風に揺れる黒髪を耳にかけながら、奏は優しく問いかける様に楓に聞いた。楓は分からないと、首を振った。






「予想してみてください」






 そう奏に促され、楓は目をしばたいた。






 この小さな可愛らしい花につく言葉。


 私に似合う花言葉。


 私に、合う?




 私を表す言葉とは、何だろう?






『楓』






 母の声が唐突に頭の中に響いた。






『「楓」ってつけたのにはね、もう一つ理由があるの』






 優し気なお母さんの言葉。笑顔。秘密を囁いたお母さんの温もり。






 ……お母さん。


 胸の奥に、愛おしさのような、切なさのような思いが広がってくる。




 お母さんが言った理由はまだ分からない。まだ、知れないままだ。


 お母さんが喋れないから。






 お母さんの声がききたい。






 切実な思いが胸を占めると同時に、長年背負ってきた罪の意識が湧き上がってきそうになる。








「楓?どうしました?」






 楓が何もしゃべらないのを不思議に思ったのか、奏が首を傾げながら顔を覗き込んできた。そうして見えた榛色の瞳に、楓の中に湧き上がってきた感情が引いていく。






「ごめんなさい。何でもないです。スミレの花言葉ですよね。えっと……」






 まだ心配そうに伺ってくる奏を落ち着かせるために、楓は負の感情を振り払うように首を振って笑い、宙を見上げた。そして、しばらく考えた後、






「未熟?」






 思わず出た言葉に、それはスミレに失礼だと思ったが、でも、自分に当てはまる言葉はそれだった。


 そんな言葉を花につける人がいるなんて考えられないけど。




 奏は一瞬ぽかんと口を開けて楓を見つめたが、その後薄く笑った。


 何かを含んだような笑みだった。






「そういうところですね。楓にスミレが似合うのは」






 奏はしゃがみ込んでスミレの花びらをちょんとつついた。スミレの花が小さく揺れた。






「スミレの花言葉は、『謙遜』と『誠実』なんです。私は、楓は誠実だし、謙虚だと思います」






 その言葉を聞いて、楓は恥ずかしくなった。褒められていることががむず痒かった。それに、『謙遜』と『誠実』だなんて。大層すぎて。






「私には勿体ないですよ」






「そういうところです」






 奏が狼狽える楓を見上げて笑った。






「楓は素敵な女の子。謙遜も誠実さも持ってる。そういうところが私は好きです」






 花が咲いたような笑顔で紡がれる言葉の響きは柔らかく、風がなびくような雰囲気がした。


 純粋に受け取りたいと思わせる言葉で、






「ありがとう」






 楓は思わず奏に向かって感謝の言葉を掛けていた。その花のように綺麗な笑顔に向けて。






「どういたしまして。それで、もう一つスミレには花言葉があるんですよ」






 いたずらっこのように、無邪気で、それでいて何か秘密を共有するかのように意味ありげな表情を浮かべた奏に、楓はどきりとした。




 母の言っていた言葉に、似ているような気がしたから。


 ここで、また聞けなかったらどうしよう、という思いが湧く。


 もし、最後まで聞けなかったら。




 奏はお母さんじゃないのに。








「藤森さん」






 急に奏とは反対の方向から声が掛かった。そちらに首を向けると、そこには三人の女子生徒が立っていた。彼女たちの後ろでざわざわとポプラの木が揺れていた。






「ちょっといい?」






 声を掛けてきた先頭に立つ女子生徒は、剣呑な目つきを隠さず、腕を組んでいた。






 楓は、追いつめられていくような感覚を覚え、それはじわじわと背筋を這う。




 そして、自分の不安が的中してしまったことに心が揺れていた。

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