第30話 忍ぶ想いと談合
「瑞谷―、呼ばれてっぞ」
昼休みの喧噪のなか、一人の男子生徒が教室の入り口付近で瑠依の苗字を叫んだ。
窓際の縁にもたれ掛かりながら文庫本を読んでいた瑠依は、その男子生徒のほうへ視線をよこした。
瑠依と目が合うと、男子生徒はほのかに顔を赤らめていて、ん、と首を向けて横にいる人物を示した。瑠依が目にしたのは、入り口一杯に仁王立ちして腕を組む美園の姿だった。
廊下は人がまばらにいて雑然としており、二人は話ができるように人気の少ない廊下の端の一角に移動した。
「楓からあんたの様子が変だって聞いてから、結構待ってたんだけど」
美園は窓の縁に肘を置き、壁に背中を預けながら、開口一番にそう言った。その言葉は、自分を責めているようにも、純粋に疑問に思っているようにも瑠依には聞こえた。
瑠依は無言で美園の隣に行き、開け放たれた窓から外を眺めた。暖かな春の風が吹いてきて前髪を揺らす。そして、やはりまだここは人で騒がしい。喧騒が耳に響く。
そんな雑然とした空間の中でも、美園は透き通ったように迷いのない言葉を発した。
「あんたのことだから、安藤のこと聞けば、私のとこに飛んでくると思ってた」
安藤、という名前に瑠依はピクリと反応したが、それでも押し黙った。
そんな瑠依の様子を見てか、美園が眉を上げて、瑠依の顔を伺った。
「らしくない。なんかあったの、楓と」
「何も」
「嘘」
瑠依が淡々と放った言葉に、美園は間髪入れずに返した。
「あんたたち何年見てきてると思ってんの?ポーカーフェイス気取ってんのかもしれないけど、バレバレだから」
観念しなさいよ、と続けるような勢いで唇を尖らせ否定してくる美園に、瑠依はため息をついた。この数日溜めていたものを吐き出すように重いものが吐き出される。
そして続ける言葉は、決して外には出してはならないと体の中に押さえつけていたものだった。
「自覚した。楓に対する感情を」
吐き出して言葉にすると、様々なものがこみあげてきた。
楓に対する愛おしさが。幼い頃からの親愛とは違う、劣情のような身を焦がす思いが。楓という女性に対して持つ、欲のようなものが。
自覚すれば、それは既に胸のほとんどを占めていて。時がたつほどそれは大きくなっていく。
瑠依の頬を風が撫でる。落ち着くようにとなだめるように。
思えば、あのときベランダで会ったときから、自分は楓に惹かれていたのかもしれないという気がする。
「やっとか」
美園は呆れのような、ほっとしたような色を含んだ声ではっと息を吐きだした。
その反応に、瑠依は美園を見た。美園はその視線に気づいて呆れたように笑った。
「昔から、あんたたちは幼なじみの域を超えてんのよ。はたから見れば無自覚バカップルが歩いているようにしか見えなかったわ」
だからあんたに群がってくる女子の火の粉が楓にもかかんのよ、と言った美園に、間をおいて、瑠依はそうかもしれないな、と思った。そして心の中で自分を笑い、蔑む。
自覚していなかった自分の思いに、女子生徒たちは気づいてしまったのかもしれない。それで楓のところに行った。
楓を苦しめてきた原因は自分なのだと、瑠依は自分を責める思いで頭を垂れた。
そんな瑠依を横目で見ながら、美園は整った眉を上げた。
「それで、ようやく纏まんの?あんたの様子からしてそんなふうには見えないけど」
美園の問いがやけに瑠依の心に響いた。それはきっと自分の感情に起因しているのだと、瑠依は感じた。
「纏まるつもりも、想いを伝えるつもりもない」
瑠依は言いながら、溢れていた感情を再び胸の奥に仕舞い込んだ。その言葉は呪文のように、自分の心に蓋を作る。
「……なんで?」
美園は怪訝そうに瑠依を見た。
「あいつが大事だから」
言葉にして、蓋は更に心の枷になる。思いが外に溢れないように。自分の制御のできる範囲に留めるために。
美園は何かを察したように一瞬息を詰まらせたが、気を取り直すように瑠依のほうに体を傾け、形の良い唇を尖らせた。
「なんで楓が大事だから、瑠依が想いを伝えないことになんの?あの子だって、あんたのこと嫌いじゃないし、寧ろあんたがいないと駄目でしょ」
「だからだ」
瑠依の言葉は強固に響いた。美園は訳が分からないといったように眉をひそめている。
瑠依は瞼を閉じた。今でも思い出す。鮮明に。幼き頃の楓の姿を。
楓の腕にくっきりと刻まれた傷跡と痣を。赤黒く、まるで呪いのように、死を思わせるような、痛々しい跡。目にしたとき、自分の何かが欠けたような思いがした。そして、その傷をつけられた楓は、何を思いながら、そしてどうやってその痛みに耐えたのか。今考えただけでも、苦々しい感情が胸のうちに湧く。
そして、ベランダで出会った時の彼女の表情を。何かを切望するような、何かを叫びたがっているような、そして、今にも消えかかっていくような表情を湛えた彼女の姿を。
そうしたのは全て、あの「出ろ」と言ったガラガラとした声の、楓の父親。
力で、ねじ伏せ、たたきつけ、暴虐を強いた男。
「俺は楓を傷つけたくない。あいつの父親のように」
感情を自覚して一番に感じたのは、この気持ちの危うさだった。美しい愛情のままであれば問題はない。しかし、制御できなくなったら。楓が大事だという想いすら飲み込んでしまうほど、自分の想いが肥大なものになったら。
そう考えると、楓を傷つけるかもしれないという恐れが、身の内を占領した。
そして、楓は自分に『家族』でいてほしいと願った。彼女にはもう秋陽しか『家族』はいない。そんな彼も家には頻繁には帰れない。
今一番、楓の傍にいるのは自分なのだ。そして、楓の心を支えられるのも、楓の心を壊すのも、自分なのだと思い知った。あの、細く柔い、自分が少しでも力を入れれば簡単に壊れてしまいそうな彼女の体の温もりを感じてから。
自殺しかけた母親と行方知れずの父親、二人も『家族』を失った楓が、新たに『家族』となった自分まで失ったら。『家族』という枠を外れたら。
女性として接し、自分の欲のまま楓に触れたら。
今度こそ楓は壊れる。
母親の病室の前で叫びながら、ガラス細工が割れたように泣き叫ぶ楓の姿が脳裏に浮かぶ。もうあんな凄惨な、痛々しい楓の姿を見たくない。
そんな思いはさせたくない。
だから、
「このままでいい」
自分に言い聞かせるように瑠依が呟くと、ずっと瑠依を見上げていた美園は廊下の床を見下ろした。
「あんたはそれでいいの?」
「ああ」
「……そう」
美園は納得していないような雰囲気を漂わせながら、それでも瑠依の言葉を受け止めた。
しかし、まだ別問題があるといったように、美園は首を軽くのけぞらせながら、瑠依の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、安藤対策はどうすんの?私は奴を楓に近づけさせる気はさらさらないけど、あんたは干渉しないってことでいいわけ?」
美園は瑠依の表情の変化を見定めるように、じいっと瑠依の顔を見た。
瑠依は窓の外から目を逸らさずに窓の縁に肘を置いた。庭園のほうに生い茂っているポプラの木がざわざわと揺れていた。
「安藤って男子は、どうして楓に近づくんだ」
「興味がない訳じゃないのね」
美園がにやりと笑った。そうこなくては、というように。瑠依はその何とも言えない顔を無愛想に一瞥してから、窓の外に視線を戻した。
美園が気を取り直して話を続ける。
「理由は私にも分かんないのよね。今学期に入ってから妙に楓に絡みだしてて、」
「今もか?」
「今も。絶賛アタック中よ。私が何度牽制しても止めない。あれは厄介な奴に目をつけられたわ」
嫌な予感はしてたのよね、と額を抑えながら呟く美園に、瑠依はちらりとその姿を眺めた。
「安藤っていうのは、どんな奴なんだ」
「チャラチャラしたやつ」
瑠依の問いに美園は即答した。私あいつ大っ嫌い、と続けて吐き捨てる。
「私が知ってるのは、男子バレー部に所属してて、運動神経は良いくせに真面目にやらないし、さぼりは常習犯。授業も出ないことが多いし、屋上でタバコ吸ってるって噂もある。とにかくいけ好かない野郎」
「楓に近づけさせても害しかなさそうだな」
「あ、やる気出てきた?」
美園が食いつくように、ずいと瑠依のほうへ顔を向けた。瑠依は微妙に距離を取りつつ、
「楓に害が及ぶならほっとくわけにはいかないだろ」
「とか言って、内心嫉妬してるんでしょ」
教室なんて一番遠いものねー、と素知らぬようにうそぶく美園に、瑠依は流し目をよこした。核心を突かれているような、居心地の悪さがあった。
「そいつは楓に気があるのか」
「今のとこ、その可能性は否定できないけど、」
美園は一つ間をおき、
「でも、まさか高校になって楓に近づく男子がいるとは思ってなかったわ。だから油断してた」
その言葉に、瑠依は訝しんだ。聞き捨てならないと、美園に目をやる。
「どういうことだよ」
「さっきも言わなかった?あんたたち、はたから見たらバカップルなのよ。顔だけは良いあんたが傍にいる女子なんて、多少気があっても諦めるでしょ」
当たり前のように言う美園に、瑠依は何も言えなかった。
押し黙った瑠依の姿を眺め、美園は形の良いすっとした鼻をふんと鳴らした。
「その様子だと何も知らない感じ?中学校の時も楓に近づこうとしてた男子は、あんたのせいで諦めた」
始終べったりだったからねー、と美園はその口を止める気配もなく言い放つ。
「あんたが小学校の時殴った馬場もその一人よ」
「馬場?」
「ガキ大将みたいなポジだった奴。楓を一回泣かせたことあって、あんたがぶん殴ったやつよ」
ああ、と混乱した頭の中で思い出す。あの時は、楓に心もない言葉を、酷い言葉をさんざん言いまくっていて、髪を引っ張りまくっていて。その姿を見た途端、頭に血が上って手を出していた。
楓を泣かせたことが、傷つけたことが許せなかった。
しかし、
「あいつもなのか」
思わず声をあげてしまう。あんなやつが。
そういえば、楓がお団子にしていったとき、焦げた楓の髪を揶揄っていたそいつは、何も言わずただ視線だけ楓にやっていたな、と思い出す。
美園は食えない笑みを浮かべながら、瑠依を揶揄うように、瑠依の心を突っつくように言い放った。
「楓の魅力に魅力を感じてるのは、あんただけじゃないのよ」
瑠依は言い難い衝動が身の内に湧き上がるような感覚を得た。
自分の意志とは反して、焦りや言い知れぬ感情が吹き出してくるのを、瑠依は危うさを感じながら認識した。
そして、今もその現実は続いているのだと、この時の瑠依には知る由もなかった。
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