第31話 雲とポプラ



 一緒に行ったほうが、良かっただろうか。




 私の脳裏に、三人の女の子たちに連れていかれた楓の背中が映し出された。


 楓は私に「ごめんなさい」と申し訳なさそうに言って庭園から離れ、ポブラの木の陰に見えなくなった。






 『奏ってさー、母親居ないからって、優遇されすぎだよね』






 いつの日か聞いたクラスメイトの声が、頭の中で木霊する。


 言った彼女にとっては、なんてことないただの軽口だったのかもしれない。それでも、あの頃の私にはそうは聞こえなくて。


 思い出すたびに胸のあたりがモヤモヤとする言葉。それだけ、自分に衝撃を与えた言葉。




 それは、時がたち、色んな人に出会って、自分の中で何かが変わった今でも、自分の心の中に残っている。






 楓の背中は、あの日、夕やみに染まる廊下の隅で息を潜めながら、ただただ縮こまることしかできなかった自分の姿に、重なって見えて。






 楓は、過去の私とよく似ている。




 だから、私はここに呼ばれた。




 そして、自分の意志で、あの子を救いたいと思う。




 私が人に救われたように。






 この場から離れていった彼女の存在を思いながら、私は鮮やかな空色にかかる、絵の具で塗りたくったような真っ白な雲を見上げた。


 それは、あの場所の真っ白な空に浮かぶ雄大な雲と、どこか似通っている気がした。






 ***






 楓は女子生徒三人組に連れられ、校舎と第二グラウンドの間の、ポプラの木が生い茂った場所の一角に追いやられていた。楓の心境を表すように、ポプラの木がざわざわと揺れ、足元の影もざわざわと揺れている。地面は鮮やかな土色と、薄紅色のタイル張りのコンクリートが敷かれており、下履きが汚れる心配はなかったが、楓の足元はどこか落ち着かなかった。


 急に連れ出されることはこの一年間、幾度もあったことだった。場所は違えど、人気のない場所に連れ出されるか呼び出されるかして、何人かの女子に囲まれる構図。


 そして、その後の相手の言葉は二択。






「本当に瑞谷君とは付き合ってないの?」






 黒髪をポニーテールにした女子生徒が、楓に詰め寄るように言い放つ。美園のように気の強そうな女の子だと楓は思った。彼女のひそめられた眉に影が落ちて。その後ろには校舎がそびえ立っている。




 この一言で、楓の体を支配していた緊張は、多少なりを潜めた。


 まだ傷つきが浅いほうの呼び出しだと分かったからだ。そして、彼女たちは初対面で、まだ自分のことを良く知らない人たち。




 呼び出された後のもう一択は、面と向かって罵られる。その時は、泣いている女の子を後ろに連れた友人が楓に詰め寄って、話が違うとか、私たちのこと馬鹿にしてんの!?とか、様々なことを言ってくる。


 泣いているのが、瑠依に断られたからということも、友人は彼女をかばって自分に対して怒っていることも楓は分かっている。それは友人である彼女を思っての行動で、ただ彼女が大事だから言っていること。


 でも、楓はどうしたらいいのかもわからなくて。喉から絞られるように出たごめんなさいも、彼女たちには何の慰めにもならない。




 瑠依の傍にいる自分は、確かに彼女たちにとっては邪魔でしかないのかもしれない。瑠依が女の子からの告白を断るのと、自分が傍にいることは関係があるのか、楓には分からなかったが、罵倒されても、罵られても、楓自身、瑠依の傍を離れるという選択肢はなかった。どんなに詰め寄ってくる女子生徒の言葉に傷ついても、その選択だけはなかった。だから、彼女たちの中でビッチと言われても仕方がないのかもしれないと思う。彼女たちのことを思えば、自分は瑠依から離れるべきなのに、それでも離れないのだから。




 しかし、それは瑠依と唯の幼なじみだった時の考えで、今は違う。




 今は、『家族』という絆がある。






「付き合ってないです」






 楓はポニーテール女子に圧倒されながらも、そうはっきりと返事をした。




 しかし、その言葉に女子生徒の顔は更に曇る。






「昨日、藤森さんと瑞谷君が一緒に下校してるの見てたんだけど、その時藤森さん瑞谷君の学ラン羽織ってたよね?それはどういうこと?」






「あれは、瑠依が風邪ひくからって貸してくれたもので……」






「付き合ってないのにそんなことすんの?」






 女子生徒の声に苛立ちのようなものが乗った。その剣幕にびくりと肩が震え、足がすくむが、楓は声を振り絞った。


 そういう関係ではないことを、彼女たちに知らせなければならない。そして、この誤解を解くことは、瑠依と交わした大事な約束事にとっても、重要なことなのだと楓は思っていた。






「……付き合ってなくても、瑠依はそういう人です。それに私たちは、付き合ってるとかそういう関係じゃなくて、『家族』なんです」






「……家族?」






 女子生徒は訳が分からないといったような表情をした。


 後ろで楓と女子生徒のやり取りを、楓のように拳を手で覆いながら胸に押し当てて見守っているお団子頭の女子生徒の肩がピクリと動く。


 楓はその様子に気圧されたが、最後まで説明しなければ、という気持ちで、俯きたくなるのを堪えた。






「瑠依は私の『家族』なんです。幼い頃から一緒にいてくれて、母や、父や、兄みたいな、居てくれるのが当たり前みたいな、そういう存在なんです」






 楓は自分と瑠依の関係を表すのに正しい言葉を選んで言ったつもりだった。しかし、何故か自分で言っても納得のいく答えのようには思えなかった。その理由は分からなくて。




 そして、女子生徒も納得がいかないように顔をしかめ、楓を睨み付けた。






「家族って、瑞谷君と血なんか繋がってないじゃない」






 何を馬鹿なことを言っているのかと、自分が傷つけられたような顔をして、その女子生徒はまくしたてた。






「つまり、自分は一番瑞谷君の傍にいる女の子だって言いたいの?」






 一オクターブ下がったような声で吐き捨てるように言った彼女は、苛立ちを露わにして楓の後ろに生えていたポプラの木の幹にだんっと手をついた。


 その勢いと剣幕に気圧されたこともそうだが、何より女子生徒の言葉に、楓は何も口にすることができなかった。






 そう願っている自分がいると気づいてしまったから。




 瑠依に『家族』でいてほしいと願ったのは、一人になりたくないからで。




 ずっとそばにいてほしいからで。




 でも、それにYESと言ってしまったら私は。


 この人たちを傷つける。






「……私はっ、瑠依の彼女になりたいとか、そういう気持ちは全然なくて……だから、皆さんの邪魔をするつもりもなくて……」






「でも現に、一番瑞谷君の一番近くにいる女子は藤森さんなんでしょ?大体血繋がってなかったら他人じゃない。彼女ポジと何が違うの?私たちのこと、馬鹿にしてる?」






「……っ!」






 楓はその言葉に心臓が抉られるような気がした。


 その剣呑とした言葉にというよりも。


 自分たちが『家族』と思っていても、周りにこの関係は伝わらないことに、体中の感覚が失われるほどショックを覚えた。


 どんなに言葉を尽くしても、結局自分と瑠依は血なんか繋がってなくて。




 何も変わってはいない……?




 私は、このまま一人で……。






「あの……!」






 その時、おさげ髪の女子生徒の隣で、固唾をのんで見守っていたお団子の髪の女子生徒が声をあげた。


 戸惑いを帯びた目で彼女のほうを見ると、彼女は意を決したように楓のほうを見つめてきた。大人しそうで、柔和な顔に、真剣な色がともる。






「藤森さんはっ、瑞谷君に恋愛感情はないんですかっ?」






 掠れた声だった。でも楓にははっきりと伝わった。




 幾度となくされた質問。


 本当に彼女になる気はないのか。


 恋していないのか。


 付き合いたいと思わないのか。


 そういった類の問いかけ。




 今まで、楓はその質問にNoと答えてきた。それは純粋にそうなることを想像できなかったし、自分と瑠依の関係はそういうものじゃないとはっきり思っていたから。




 彼女は拳を握りしめて、楓を強く見つめて叫んだ。




「私は、瑞谷君が男の人として好きですっ。彼の一番になりたい。あなたは、もしそうなったら、私の存在を受け入れてくれますか?」






 楓の頭の中で衝撃が走った。身体の感覚がなくなる。


 瑠依の一番になりたい。そうはっきりと言える彼女が羨ましいと思ってしまう自分がいる。


 そして、それを受け入れられそうにない自分も。




 もし瑠依がこの子と付き合いだしたら、瑠依は私と一緒に居てくれるだろうか。


 『家族』の約束を守ってくれて、いつまでも私の傍にいてくれるだろうか。




 でもそれは、瑠依を縛ることになる……?




 頭がごちゃごちゃになる中で浮かんだ考えに、思考が答えを囁こうとする直前、




 更に予期せぬ出来事が起こった。








「何やってんのー?喧嘩―?」






 間延びした、緊張感のない声がその場に響いた。楓が真っ白な頭のまま声をしたほうを振り返ると、三メートルほど離れた位置に生えているポブラの木の傍に立っている人の存在があった。


 短く切りそろえられた茶色の髪に、背の高いひょろりとしたからだ。


 そこにいたのは、楓と同じクラスの安藤だった。






 楓は呆然としながら彼の顔を見た。




 最初に反応したのは、楓に突っかかっていたポニーテールの女子生徒だった。






「喧嘩じゃないわよ。なんなのあんた。勝手に口挟まないでくれる?」






「えー喧嘩じゃないとしてもさ、一人に三人が相手ってちょっと卑怯じゃない?」






 安藤は、緊張感のない声そのままに、こちらへと近づいてきた。






「しかも、ちょっと聞いてたけど、あんた、その子を責めてたじゃん」






 安藤はポニーテールの女子を指さして事も無げに言った。






「はあ?」






 ポニーテールの女子生徒が、安藤に詰め寄るように前へと足を勧めようとしたとき、






「もういいよ真矢ちゃんっ!」






 お団子頭の女子生徒が顔面蒼白になって彼女を止めた。突然の知らない男性の登場に耐えきれなくなったのか、足が震えている。そして、終いには校舎のほうへと走り出してしまった。






「ちょっと!?聡美なんで逃げんの!?」






 残された二人の女子生徒が彼女の背中を追いかけようと方向を変えようとし、名残惜しそうに安藤と楓を一瞥した後、彼女を追いかけて校舎のほうへ駆け出した。




 彼女たちの姿が見えなくなった後、安藤は楓のほうへと歩を進めてきた。






「藤森さん、大丈夫?」






 その問いかけに、頭が真っ白になっていた楓は、






「あ、ありがとうございます……」






 と、取り敢えず感謝の意を述べた。ポプラの木に寄り掛かったまま微動だにできない楓に、安藤は近づいて距離を一メートルほど縮めた。






「いいよ。あのままにしてたら、俺に不利になってたかもしれないし」






 安藤が放った言葉に、楓は意味が分からなくて、ただ首を傾げた。




 まだ先程の衝撃から覚めやらぬ身体を無理やりに動かして、ポプラの木から背中を起こす。




 まだ、安藤とは数回話しただけだ。しかも自分からではなく、いつの安藤から話しかけてくる。


お弁当おいしそうだねー、とか、テストどうだった?など、他愛もない話ばかりで。彼が何故自分に話しかけてくるのかは謎のままだったが、多少話せるようになるほどに、楓の人見知りは彼に対して緩和されていた。






「あ、安藤、くん、はどうしてここに……?」






「俺?俺は藤森さんがあの子たちに囲まれてるのが見えたから来た」






 変わらないトーンで話す彼の言葉に、楓はどう反応していいか分からなくて、まじまじと彼を見つめることしかできなかった。


 分からないことや、ショックなことが楓の中を埋め尽くしていて。そのうちの一つがぽろりとこぼれるように、楓の口から言葉が出た。






「……あの、どうして安藤君は私に話しかけてくれるんですか?」






 彼はその問いかけに、んーと唇を尖らせながら、まっるっこい瞳を細めて楓を見つめた。






「藤森さんは覚えてないかもしれないけど、俺たち一度会ってるんだよね」






「……え?」






 楓が驚いて思わず声を漏らすと、安藤はにんまりと口角を上げた。何かをたくらんでいるような表情をしていて。


 楓は彼の瞳や顔をジーと見つめた。






 ……どこかで会った?






 記憶を探り出そうとするが、どう記憶をたどっても彼のような人は思い出せなかった。


 それが申し訳なくて楓が謝ろうとすると、安藤が被せるように言った。






「思い出せないのも無理ないよ。俺たちが六歳のころだから」






 六歳、の言葉に、急激に楓の思考は《あ《の》日》に引っ張られた。






 父が家を出て行って。


 母がおかしくなり、


 屋上から飛び降りたあの頃。




 思い出しただけでも体中が委嘱する。はッと息が漏れ、喉に手をやる。息が詰まるような吸息感がして。






「藤森さん、大丈夫?」






 急に屈んで苦しそうに息をする楓に、安藤は楓の顔を覗き込み、背中をさすった。


 その掌の体温に、徐々に現実に引き戻されていく。






「……大丈夫、です。……ごめん、なさい」






「謝らなくていいよ。しんどくなるようなこと言っちゃってごめんね」






 楓が安藤を見上げて目を合わせると、彼は楓の背中に手を置いたまま、そっと目を細めた。






「やっぱり、藤森さんは俺と同じなんだね」






 呟かれた言葉に、楓はびくりとした。


 私と、同じ……?






「……わ、私と同じって……」






 口から洩れた言葉に、安藤は目を細めたまま自分の唇をなめた。舌の赤さが楓の目に焼き付く。






 そして、安藤は今までと変わらない口調で言葉を紡いだ。






「親に捨てられたってとこ」




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