第33話 煙草と木漏れ日




 父が出ていったのは、彼が家へ突然押しかけてから、丁度一年後の日だった。


 その日は三月の中旬だというのに、まるで初夏のように日照りが強く、ベランダのガラス窓から差し込む白い光は、じりじりと楓の背中を焼いた。

 

 この日、楓は父に殴られることも蹴られることもなく、ただリビングの片隅で、日の当たらない冷たいフローリングの床にうずくまりながらお昼寝をしていた。


 秋陽は学校、母は仕事で出かけていて、リビングにいるのは楓と父の二人だけ。



 父は黒いソファにどかりと腰を下ろしながら、灰皿にタバコの火を押し付けている。


 まどろみながら見たそれが、楓が最後に目にした父の背中だった。


 揺れる煙草の匂いに瞼が落ち、すうと寝息を立てるころ。楓は夢を見た。父が家じゅうを歩き回り、がちゃがちゃと家のあちらこちらで何かを物色している夢だった。


 足音と、ものがぶつかる音と。煙草の匂い。

 

 虚ろだった意識が、がちゃりというドアの開く音で現実に引き戻された。

 

 楓が目を開けたとき、父の姿はリビングにはなかった。

 

 のそりと起き上がると、群青色の掛布団が体からずり落ちた。



 あれ……?



 眠る前にはなかった存在に楓が首を傾げ、おぼろげな意識でその掛布団を握りしめた。



「おとうさん……?」



 楓は父の姿が見えないことに気付き、掛布団を握りしめたまま、裸足でぺたぺたと歩き、ガラス窓付きの扉を開けた。


 玄関に行くと、父の靴はなかった。



「……おとうさん?」



 楓の言葉に返される音はなかった。


 残された煙草の匂いがほのかに香る。


 楓はまた眠気に襲われた。




 その後、父が再び扉を開けて戻ってくることはなかった。




***




「親に捨てられたってとこ」



 本日のお弁当の中身を告げるような、あっさりとした口調で発されたその言葉に、楓はその意味をすぐには把握しきれなかった。



 親に、すてられた……?



 楓は一度その言葉を頭の中で繰り返し、噛みしめるほどに、自分の思考が遠のいていくのを感じた。

 

 そして、楓の嗅覚が煙草の草が燃えるような独特の匂いを感知して。

 

 その瞬間、楓の意識は父が出ていった日へと呼び戻された。

  

 帰ってきた母は呆然として床に崩れ落ちて。無防備に投げ出されたストッキングの太ももが。

 

 無造作に開けられたままになっているタンスの引き出しや棚が。

 

 秋陽が自分に駆け寄って、何かを尋ねる声が。

 


 残された煙草の匂いと、群青色の掛布団が。

 


 あの時も自分は、おとうさんが自分を捨てたなんて思っていなかった。


 

 その後、母が急におかしくなって、自分を罵りだしても、空中に何かを叫んでいても、経過観察のために入院しても。



 自分は親に捨てられたなんて、思っていなかった。


 それは、今も。

 


 私は、おとうさんが、おかあさんが、帰ってくるって信じてる。


 私がいい子にしていれば、誰にも迷惑を掛けなければ。



 それでも、「親に捨てられた」という言葉は、楓の心に溝を作った。泥沼にはまっていくような感覚が身の内に襲ってきた。



 吐き気が、する……。



「大丈夫?藤森さん?すごく顔色悪いけど」



 安藤が楓の異変に気付き、顔を覗き込もうと、支えていた背中から、肩へと触れた瞬間、その肩がびくりと震えた。

 安藤は咄嗟に楓の肩を離し、楓の様子を伺った。

 焦点の定まらない瞳が何も映さないまま見開かれ、身体は固まったまま小刻みに震えている。


 そんな楓の姿を見、



「保健室行く?それともどこか、休める場所……」



 と、安藤が顔をあげ、どこか場所がないかと一歩足を前に踏み出した時、楓がそれを止めた。

 安藤は、掴まれた自分の学ランの裾を見た後、楓の顔を見やった。

 その顔は酷く真っ青で、それでも安藤を見つめていて。



「だい、じょうぶ、です。安藤くんの話、聞きます……」


 

 肩を震わせたまま、恐る恐るだが真っ直ぐ自分を見つめる楓に、安藤は近寄って今度こそ肩に手を添えた。

 

 その時、楓は安藤の袖口からほのかに煙草の香りを感じて、無意識のその匂いを吸い込んだ。



 おとうさんの匂い……?



 楓が自分の二の腕に顔を寄せるのを見て、安藤は薄く笑った。



「藤森さんは優しいね」



 そう言って、そのまま楓の震える身体を支え、ポプラの木の幹へと誘導しながら。



「ほんとに、付け入りたくなる」



 ぼそりと呟いたその言葉は、楓には聞こえなかった。

 ただ、何かが変わっていく彼の雰囲気に気圧されて、楓は思わず安藤を見上げた。



「安藤、くん……?」



 安藤の瞳ははっきりと楓を捉えていて。

 楓は何故かその視線を、怖いと感じた。

 

 ポブラの木の幹に背中が当たる。

 足の力が抜けて、そのままずるりと腰が落ちそうになる。

 

 それを、安藤が腕を取って支えた。力強く握られる。

 

 

 ……っ!



 楓は息をのんでしまった。

 そして、委縮した。


 父に殴られた手。


 腕を掴まれて、ベランダまで連れていかれた手。


 小学生の時、ガキ大将の男の子に髪を引っ張られた手。



 安藤は父でも、ガキ大将の男の子でもない。

 それでも、身体が強張ってしまって。



 酷く扱われ、痛みを身の内に刻む手の感覚が。

 


 楓が強張ったのを感じたのか、安藤は楓を見つめながら握る手の力を緩めた。

 そして、ふふっと薄く笑う。その表情はもう、楓が怖いと思ったものではなかった



「誰にでもそんなに優しくしてたら、悪い奴に付け入られるよ。藤森さん」



 彼はそう言って、楓を木の根元に座らせ、頭をポンポンと軽く撫でた。


 その仕草に、暴力的な意図は感じられなくて。

 

 その時初めて、楓は溜め込んでいた息を吐くことができた。








「俺の親はね、離婚して父親は行方知れず。母親は俺が5歳の時に付き合ってた男鈍器で殴って刑務所行き。それから音沙汰なし」



 安藤は楓の隣に胡坐をかいて座り、さも当然のように自分の身の上を述べた。

 両手を足の上に置いて、ゆらゆらとブランコのように体を揺らしながら、安藤は続ける。

 


「それで児童養護施設に預けられて、すぐ、藤森さんが来たんだよ。6歳の時」



 楓はその言葉に記憶を辿ろうとした。ポブラの木がざわざわと揺れ、木漏れ日がちらちらと楓の足元を照らしている。今、楓たちを取り巻いている空間はとても静かで。

 


「児童養護施設かどうかは分からないですけど、一度叔父さんに連れられて、知らない建物に行ったことはある気がします。……庭に大きな木があった一軒家?みたいなとこでした」



「そうそこ。今も俺、そこにいるんだよね」



 脚を折って膝を抱えた体勢で、楓は首を傾げた。そんな楓を眺めながら、安藤が言う。


 安藤が何でもないように言い放つのを、楓は不思議な気持ちで聴いていた。


 彼は、辛くないのだろうかと。


 自分は、こんなに両親のことをあけっぴろに人に言うことはできない。ましてや自分の境遇なんて、おこがましくて。


 そして、両親のことを話すということは、自分の罪を話すということ。

 


 自分のせいで、お母さんとお父さんは。そして、秋陽にいまで。



 そんなことが自分にできるとは思えなかった。



「……辛くないんですか」



 楓が思ったことを恐る恐る尋ねると、安藤は丸っこい眼を広げた。



「昔は辛かったけどね。でも、自分を捨てた親のせいで自分が苦しむって違うじゃん?なんで俺が苦しまなきゃいけないんだよって感じだし」



 その言葉に、楓は目を見開いた。



 親のせい……?



「……あ、安藤君は、どうしてお父さんとお母さんが帰ってこないのか、分かってるんですか?」


 

 彼が何故、親のせいだと言えるのか。


 私は、両親が自分の傍にいない理由は自分が駄目なせいだと思っていた。

 

 何度、いい子になろうとしても駄目だった。

 最後まで、父は自分を見てくれなかった。そして、居なくなった。

 

 母も、自殺までしようとして……。それを、私は、止められなかった。



 そのすべては、自分が悪いせいだと思っていた。厄介で、醜くて、どうしようもない私が引き起こしていると。


 

 でも、彼は、親が自分の傍にいない理由を分かっている。

 そして、それは親のせい、とも。


 安藤の言葉は、楓の心を揺さぶるには十分で。



 楓の思いつめたような表情に、安藤は首を動かして楓の顔を覗き込んだ。



「藤森さんは、さ、どっちもいないの?親」



 逆に問いかけられて、楓は戸惑った。



「……母は、入院中で、父は、行方知れず、です……」



 言いながら、自分の心の中に刃物を突きさされたような衝撃が走った。それはひどく鈍く、血がじんわりと滲むように全身に広がっていった。現実が嫌でも突き付けられて。


 楓は思わず自分の膝をきつく抱いた。



「藤森さんは、辛くない?」


 その言葉に、楓は安藤を見た。

 その声がただ聞いているようにも、切実に答えを望んでいるようにも聞こえて。

 その縋るような、寂しさを含んだような瞳に。

 楓は、自分と安藤は同じで、でもどこか違うのかもしれないと思った。



「辛くない、と言えばうそになります。……でも、それは親のせいじゃなくて……」



 言いたくても、言葉が続かなかった。

 自分を自分の言葉で断罪することが、苦しかった。

 分かっているのに。傷つくことは仕方ないことなのに。自分が受けなければならない当然の罰なのに。

 

 それでも自分は、自分を傷つけることを恐れている。



 ぎゅっと縮こまり、俯いた楓を見て、安藤は静かに言った。



「藤森さんは、優しすぎるんだね」



「……そんなこと、ないです」



 楓は緩く首を横に振った。

 本当にそんなことない。

 私はずるいんだ。

 自分だけ傷つかないようにして。

 瑠依を『家族』にして。どこにも行かないようにとどめて。

 独りは嫌だからと、自分だけ温もりにすがって安心したがってる。

 こんなのは、優しいって言わない。

 

 渦巻く楓の心の中は荒んで、前が見えなくて。

 それでも、安藤は優しく否定した。



「優しいよ。十分」



 そう言って、安藤は楓の傍に近づいて、楓の足元に手を置いた。楓の全身に、安藤の影が乗る。

 そして、安藤は楓の肩に自分の額をのせた。

 その重さと熱と、肩に感じる息遣いに、楓はびくりと全身を震わせた。



「あ、安藤、くん……?」



 楓の全身が強張り、声が震えるのを抑えられないまま彼の名を呼ぶと、



「ここ以外、どこも触んないからさ、頭撫でてくれない?」



 安藤が喋ると肩に息がかかってくすぐったくて。そして、その熱は心臓をわしづかみにされるような感覚を伴って、楓を襲った。


 楓は晒されたつむじを見た。染めた茶色の髪が、自分の焦げた髪の毛に浸食する様を見て。

 何故かその時ひどく寂しそうだと感じた。



 自分と安藤くんは、同じ、なのかもしれないと。

 彼もまた、苦しいのだろうか、と。

 

 彼の心を案じるのを止められなくて。



 そう思うと、楓は安藤の後頭部に手をのせていた。

 


 人の頭を触るのは、初めてかもしれない。



 瑠依や秋陽にい、遠山先生に撫でられることはあっても、自分が撫でることはなかった。


 こんな感じなのかと、楓は知らない感覚に感情をのせた。


 そうしていると、温かく、安心するような気持ちになって。

 

 安藤の髪の感触は、見た目よりもさらさらとしていた。頭の上を楓の掌が往復するごとに、ビロードの毛並みのように毛先の艶が光る。

 

 それでも、預けられた頭は、寂しさを伝えているような気がして。


 楓はたどたどしい手つきで安藤の頭を撫で続けた。



 「本当に、藤森さんは優しすぎる」



 安藤が放った言葉に、楓は黙って撫で続けることしかできなかった。



 自分は今、彼の親代わりなのかもしれないと微かに感じながら。


 そして、仄かに香る煙草の匂いに体を預けて。


 その暖かさに酔いしれて。

 



 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、

 ゆらゆらと揺れる木陰の下、楓は安藤の頭を撫で続けていた。


 


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