第32話 叔父と血
赤い血が流れる。
ぷつぷつと傷口から滲み出る真っ赤な鮮血。
それが自分の手首から流れていることに、何故か安堵する自分がいる。
自分はここにいるのだと、存在しているのだと、赤い血が証明している気がして。
母も、頭からこんな血を流していた。真っ赤な目に焼き付くような血を。あの時確かに、母は生きていたのだと、実感する。
俺は、何故生きるのだろう。今、手首ではなく、そのまま首をかっ切ってしまえば、あっというまに意識を失って、何も考えないまま、暗闇の底へ行けるのに。
そんなことを考える自分は、もしあの世というものが存在するのならば地獄行きだろう。それでも、地獄でさえも今いる環境よりはましだろうと、思えてしまう自分がいて。
守らなければならない存在がいるのに。なさなければならぬことがあるのに。なぜ自分はこんなことを考え、自分から流れる血を見ているのだろう。
自分のしていることが分からなくなって、どうしようもなく消えたくなった。
***
東京駅を出て10分も歩かない場所にあるレトロな雰囲気の喫茶店で、秋陽は人を待っていた。
店内は、流石に東京駅に近いだけあって繁盛しているように見える。アルバイトだろうか、慣れない手つきでトレーをさばきながら、秋陽の横を黒白の服を着た店員が通り過ぎていく。
目の前にはその店員が置いていった、冷たいアイスコーヒーの入ったグラスがあり、表面に結露ができている。
その結露がコースターに落ちる前に、秋陽はグラスを手にし、口をつけようとする。
その時、
「秋陽くん」
名前を呼ばれ、すぐさま秋陽の目の前に、黒縁眼鏡をかけた中年男性が現れた。スーツのシャツの袖をまくり、片手に黒い羽織を引っ提げているその男性は、もう既に白いものが髪の半分を占めていて、苦労しているのか頬の皺が目立って見える。しかし、紳士的な雰囲気を醸し出していて、頭にダンディがつくような叔父様といった容貌だった。
「呼んだのは私なのに、待たせて悪かったね」
彼は物腰の柔らかい声で謝りながら、空いていた秋陽の前の席に腰かけた。
「いえ。雄一さんも愛知からわざわざ来ていただいて、長旅だったでしょう」
秋陽がやんわりと返すと、雄一、秋陽の叔父は、ははは、と苦笑しながらウエイトレスに差し出されたおしぼりで顔を拭いた。
「いやあ、年だね。たいして運動してないのに、汗かいちゃって。秋陽くんは暑くないの?長袖で」
白いTシャツにグレーの長袖パーカーという秋陽の服装を眺めながら、秋陽の叔父が指摘する。
「まだ春ですから」
「そっかあ、若いっていいな、やっぱりおじさんにはもう遠い世界だ」
秋陽がさらっと返答すると、雄一は納得したのかまた柔らかく笑いながら、秋陽の差し出したメニュー表を受け取り、アイスティーを注文した。
店員が去った後、雄一はテーブルに身を乗り出して手を組み、コーヒーを口にする秋陽を見た。店の窓から差し込む光が、雄一の背中を眩く照らしている。
「二人は最近どうだい。元気にしてたかい」
その質問に、秋陽は言葉に詰まった。そして、その返答を濁しながら、違う話題を切り出す。
「雄一さんは、母の病院にはもう行かれたんですか?」
その言葉に、雄一は一瞬顔を顰め、言い難そうに口をつぐんでから、重々しく口を開いた。
「いや、まだだよ。直接ここに来たからね。……遥の容態はどうなんだい。もしかして何かあったのか」
不安を滲ませる彼に、秋陽は否定の言葉を述べる。
「いえ。母のほうは相変わらず意識不明のままですが、それ以外は変化ないとのことでした」
そう言うと、雄一はどっと小豆色の腰かけ椅子に背中を預け、そうか、とため息を吐いた。
自分の妹の容態を聞いて。
そのため息は、安堵からくるものか、それとも落胆からくるものなのか、秋陽には分からない。
「これから病院に行ってくるよ。その前に秋陽くんに会っておきたかったんだ」
雄一は体を起こすと、眼鏡の奥の瞳に真剣な色を宿らせた。その雰囲気に身構えつつ、秋陽が口を開く前に、アイスティーが運ばれてきた。その店員に秋陽がちらりと目をやると、雄一もありがとうと言ってその店員からアイスティーを受け取る。店員の背中が客席三個分ほど離れてから、雄一は口を開いた。
「先程の質問を繰り返すよ。君たちは大丈夫なのかい?」
真っ直ぐに自分を見つめる視線に、秋陽は引け目を感じながら、自分は嘘は言わない、と言い聞かせた。
「楓が精神科にかかっていることは、雄一さんもご存知かもしれませんが、レベルが上がったそうです」
「レベルが?……それは、あまり良くないということかい?」
「……そうですね。あまり思わしくありません。いつ危険行動に走ってもおかしくないと言われました」
それは自傷行為に走るか、はたまた自ら命を絶ってしまうか。大学の講義でいくつもの症例に当たってきた、そのどれかに、危うい行動に走りかねないということ。
そんな現実が自分の妹に降りかかっているというのに、自分は楓の傍にはいない。
どうかしている、と思う。研究なんてほっぽって、彼女の傍にいるべきなのだという考えが頭を占める。
しかし、自分を占める考えはその一択だけではなくて、母のことを考えると、研究を続けなければとも思うのだ。
「……そうか」
雄一は顔を曇らせながら、ふうと息を吐き、頭に手をやった。
「……君は、私を責めているかもしれないね」
叔父の口から出てきた重々しい言葉に、秋陽は目を見開いた。
「……どうしてそう思うんですか」
秋陽がそう尋ねると、雄一は秋陽の目を見れないといったように俯きながら、テーブルの上で組んだ手に頭をのせた。
「遥が入院して、君たちの身寄りがいなくなった時、私は妻を説得してでも君たちを引き取るべきだった、と今更ながらに後悔しているんだよ」
11年前、秋陽と楓は保護者がいなくなり、親戚の雄一の家が責任を取る立場だった。しかし、その時は雄一の会社の経営が困難だったことと、雄一の妻が二人を引き取ることをかたくなに拒んだために、児童養護施設へ送る手はずとなった。
しかし、当時中学三年生だった秋陽が「自分が妹の面倒を見ます」と言って、養護施設に所属することを頑なに拒絶したのだ。
そして、秋陽が提案したのは、保護者は雄一ということにして、自分たちはこのまま今までいた家で暮らす、というものだった。
常識を逸脱していて、法律にも引っ掛かりそうな提案だったが、秋陽は頑として譲らなかった。雄一は、そうするべきではないと思いながらも、彼に従うしかなかった。
彼の、幼い妹の面倒を見れるだろうと思わせる大人びた雰囲気がそうさせたのか、彼らの隣の家の瑞谷家がいるからと、バックアップがとれていたからなのか、それとも、自分の妹はすぐに意識を取り戻し、二人は日常に戻れると願いを掛けていたからなのか。
自分が何故その提案を了承したのか、未だに分からなかったが。
これだけは言いたいと、雄一は声を張り上げた。
「今、はっきり思う。私はあの時、君たちを手放すべきではなかったんだ」
その後悔の言葉にうなだれる雄一を見、秋陽は顔をあげてくださいと言った。
「雄一さんには、学費や何やら経済的な面で多くをお世話になりました。それだけで十分なんですよ」
「それでも私は、」「今でも」
雄一が顔をあげて叫んだ言葉を、秋陽は遮った。それ以上言わなくていいというように。
「今でも俺は、そうして良かったと思ってます」
雄一さんの家庭にとっても、俺たちにとっても、と呟いた秋陽は。
自分に言い聞かせた。
自分は間違ってはいないと。
あの時は、誰も信じられなかった。自分と、楓以外、誰も。
だからああするしかなかった。
今はどうだろう。
信頼する人間は、増えたか。
秋陽は自問しながら、その答えを出すのをやめた。これ以上考えたら、自分がおかしくなってしまいそうな気がして。
もう自分はおかしいのだと、取り返しがつかないところまで来ているのだということは、気がつかなかった。いや、気づくのを敢えてしなかったというべきか。
雄一は秋陽の頑なな言葉に引き下がらなかった。机に手を置き、身を乗り出して白髪の混じった頭を突き出す。
「それでも、楓ちゃんは危ないんだろう。それは、しっかりした庇護のもとで育たなかったからなんじゃ、」
「雄一さん」
「秋陽君、君だって苦労しただろう」
話を止めようと入った秋陽の言葉に、雄一は声を大きくした。聞いてくれと。
秋陽は、聞きたくなかった。
誰の声も。
紫の声が耳元で反芻される。
『あんたが一番恐れてるのは、何?』
紫、俺はこの人も恐ろしい。信じられない。
児童養護施設なんて、知らない赤の他人も。信じられるわけがない。
それでも、一番信じられないのは、自分が恐れているのは。
「君たちを見捨てた自分が言うのは、今更で、君にとっては甘い考えと思うかもしれない。都合がいいと。だが、君たちが心配なんだ」
本当に今更だ。
心配なんてされなくていい。
おせっかいだ。
自分の感情にどんどん棘が突き出してくる。
こんなこと、考えたくないのに。誰も、傷つけたくないのに。
紫。
秋陽は頭の中で彼女の名前を呼んだ。
今、彼女に自分の感情を止めてほしかった。
あの艶やかな指で、暖かい指で、自分に触れてほしかった。
そうすれば、この醜い感情は止まるだろうか。
「雄一さん。俺は大丈夫ですよ」
そう言うのが精いっぱいだった。
今まではもっとうまく自分の感情を隠し通せていた。自分の手の中でどうとでもなった。
自分が守らなければならないもののために、奮闘できた。
でも最近になって、思う。自分の体はおかしい、と。
体も心も。自分のモノではなくなったかのように勝手に暴れだして、自分を食らうように飲み込むように、誰かを。
誰かを傷つける。
「本当に、大丈夫なのかい」
雄一はもう一度聞いた。念を押すように。
秋陽は背中に汗をかきながら、平静を装って答えた。今までもそうしてきたように。
「大丈夫です」
秋陽の頑なな返答に、雄一は身を引いた。
「……分かった。それならいいんだ」
そして、今まで口にしていなかったアイスティーに初めて口をつけた。
秋陽は心の中で自分に言い聞かせていた。
自分は嘘を言ってはいないと。
けれど、言い聞かせれば言い聞かせるほど、自分の心と体が乖離していくような感覚がして。
背中に一つ汗が落ちた。
「雄一さん、そろそろ研究室に戻ります」
秋陽が立ち上がると、雄一は心配そうな目を秋陽に向けた。
「研究で忙しいのかい。そんなときに悪かったね。……楓ちゃんの傍にいてあげたいが……」
「いえ、雄一さんこそ、来てくださってありがとうございました」
秋陽は顔を曇らせまだ話をしたりないといった風な雄一に笑顔を向け、勘定のために千円札を置いて店を出ようと踵を返す。
「そうだ、秋陽くん」
雄一の声に、秋陽はギリギリ平静を保ちながら振り返った。千円札は多いよと、言われるのだろうかと思いながら彼を見ると、雄一は顔を曇らせながらグラスを支えていた。
「もう一つ、君に知らせたいことがあったんだ」
そう言って、彼が言葉を詰めてから。
その時紡がれた言葉に、秋陽は目を見開いた。今度こそ、自分の感情が溢れてしまいそうだった。
「お、もう用事とやらはすんだのか?」
秋陽が研究室に戻ると、林が自分のデスクでトランプタワーを作って遊んでいた。
秋陽は、自分の表情を見られないよう、自分のデスクに直行しながら答える。
「ええ。もう終わりました」
「もしかして、またあの美人さんかー?何にもないなら俺に紹介しろって言ってんのによー」
林のつまらなそうな発言に、秋陽は聞こえないふりをして自分のデスクの引き出しを開けた。
「お前が、コンパとか合コンとか断るのも、その美人さんが関係してると俺はふんだんだけど、違うのー?」
後ろで呟かれる問いにも答えず、秋陽は引き出しの奥の黒色のファイルを取り出し、それをデスクの上で開いた。
林は椅子をくるくる回しながら、大きな図体を研究内で展開し、ぶつくさと言いたいことを言い続ける。
「今回も女子たちからお前に声掛かってるけど、どうせ行かないんだろー。勿体ねーなー。俺ならすぐオーケーするのに」
「先輩」
「ん?」
林はその呟きの返しなのかと思ったのか、椅子ごと秋陽へと身体を向けた。
秋陽は声が震えないように気をつけながら、彼に尋ねる。
「DNA鑑定って、この研究内でできますか?」
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